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ピーターのアルバム
Rosemary Amidei(ピーターの姉)によるピーターの思い出
Chona Aquinoによるピーターの思い出

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”ハロー、私は日本からきたオバタです。あなたは何処からきました?”
これが、この短い話の始まりだった。
確か、2000年の7月頃、エンリケがボンボノンにいると聞いて入港し、横にアンカーを降ろしている
小さな7m程の鉄製のヨットに乗ったヨットマンに声をかけたのがこの話の主人公だった。
”私は、ハワイからきましたPeterです。”
”え、この船でハワイから一人で来たんですか?”
と、失礼ながら驚きを隠せない程彼のヨットは小さかったのである。
エンジンは船外機でマストはアルミニュームスルハルで、たててあるだけで、セールはメインを開くだけである。
これでは、風に登っては走らないのではないか。
中は狭くて入った事がないので分からないが、燃料も食料、水さえ充分に積んで航海できる船ではない。
私の様に、出きるだけ楽な航海をしようとするのに比べ彼の場合、航海予定さえ立てられない船なのである。
エンりケの話では、
”彼はコタキナバルに行くといって出て、パラワン島に流されて行けなかったらしい。”
等と話してくれた事がある。
船はどのようなものでも、チャレンジする勇気と悪条件下でじっと耐える精神力には、エンリケも私も一目
置いているのである。
ボンボノンでは、カップルが多い船の中にあって、寂しい一人組みが、エンリケ、ピーター、私であった。
私は、カレーやらキムチを作ったりすると一人では多すぎるので分けると、彼は喜んで食べてくれた。
特に、キムチが気に入っていて、ビールのツマミに良いのだといっていた。
夕方私は井戸へ水汲みと体を洗いに行くのだが、帰りには時々彼が声をかけてくる。
”オバタ、ビールはどう?”
”勿論、サンキューよ。”
彼は、日が暮れるこの時間帯が特に好きで、いつも小さい船のデッキに出てビールを飲んでいた。
彼の船に私が乗ると、大きな男2人では、彼の船は傾いてしまうのである。
二人両サイドに座って安定する有様である。
ある日、Dumagueteに買い物に行き、ゴルゴンゾーラチーズに ワイン パン ハムと仕入れて、私の船で一人寂しい組
エンリケ、ピーター 私の三人で私の船でパーテイーをする。
年の順番からすると、ピーターが65?才位、私が55才位 エンリケが45?才位か、年など聞いたことがないのでハッキリ分からない。
そう言えば、ピーターの事は殆ど知らない。
知っている事というと、ニューヨークで生まれ育ったらしい。
若い時インドに行った事があるらしい。
仕事はアラスカで漁船に乗ってサケをとっていたらしい。
トリマランに乗っていたが、嵐で船を壊したらしい。
その後、今の船でハワイからきたらしい。
これだけである。
ある日、エンリケと私の船でボンボノンからでて、セーリングして遊ぼうという事で遊帆UFOを動かした。
丁度、ピーターも船にいたので、鼻着けして乗せる。
北からの風で、まっすぐ東へ向い西に向って帰ってくれば良く風は12〜15ノット吹いていて、ナイスセーリングだ。
セーリングとなると、エンリケに任しておけば良く、私は買ってきたゴルゴンゾーラとワインを舐めながら、
ピーターはトローリングの仕掛を作り始めた。
船尾から流し、釣れたら今夜は刺身が出きる等と冗談をいうが、自慢ではないが遊帆UFOで魚は釣れないジンクスがあるのだ。
ジンクス通り魚は釣れずに戻る事になった。
私が、長くいたボンボノンをでて、マレーシア コタキナバルから シンガポール ランカウイ プーケットへ行く事にした前の事である。
彼は、船を買いたいとの相談を受ける。
私は、家村さんに連絡を取り安い船を探す様に頼む。
彼からの返事は、Xヨット34ft レース艇である。
私と同じヨットクラブの袖岡さんの船も廃船にしたいらしいがこちらはデッキが使い物にならないとの事である。
価格は、途中までしか間に入っていないので詳しい事は分からない。
ピーターは乗り気で、季節はいつが良いか相談を受ける。
台風シーズンが終わる10月頃 大阪湾から父島 ガム ボンボノンのコースが潮流と風向きが良いと思うと答える。
私は、沖縄列島からフリッピンマニラ ボンボノンのコースできたのだが、このコースは距離は短いが、黒潮の流れに
逆らっていくので、良いとは思えないので、距離があっても父島 ガムコースを薦めたのである。
彼は、7月頃に日本に行ってメンテナンスをして10月頃に出る積りだと私に話した。
それでは、メールで連絡を取り会おうと約束して、私はコタキナバルにむかったのである。
その後、彼はボンボノンをでて、彼のガールフレンドのチョナとこの小さい船でコタキナバルに向ったのである。
その航海は、どのようであったかは、私がコタキナバルまで4〜5日でいったのに、1ヶ月以上掛かっているのを
想像するだけで分かる。
帰りも相当日数が掛かり最後何日かは、食べる物がなかったらしい。
日が照り付けると鉄板は焼けて暑いというのを通り越して、タイヤキくん状態になったのではないか?
それでも無事この航海は終わりボンボノンから、関西空港に来たのである。
家村さんの家までの道順はエンリケから聞いていたらしく 一人で家まできたそうである。
私は、7月になって日本に一時帰国していたので、ピーターが来た事を聞いて、琵琶湖の堅田まで探しに行く。
堅田の公園の北側に彼の新しい船はアンカーを降ろしていた。
公園の木陰から、ピーターを呼ぶと気がついて手を振り、彼がもってきたビニールフレータブルテンダーで漕いでこちらまでやって来る。
”ピーター 久しぶりやね。”
とあいさつもそこそこ、今日向側のヨットハーバーの誰かがここに船を止めない様にクレームをいいにきたとの事である。
”OK ピーター。ここを動いて私の船を止めている所の横にアンカーを打とう。”
荷物を家村さんの家から移して、家村さんと柳が崎であう様にして、ピーターと二人で船を動かす。
ここから、柳が崎まで約40分程である。
私の船から100m程離れた所にアンカーを打つ。
テンダーは、ビニールテンダーではどうにもならないので、木村さんの捨ててある(?)テンダーを使う事にする。
丁度、私が日本に帰っているというので、久しぶりに高級近江牛のバーベキューを有志でする事になっていたので、
幹事の木原さんに ピーターも参加させてもらう様に頼む。
有志は沢山いて、20人以上になりワイワイと賑やかなパーテイとなった。
勿論、家村さんの奥さんAliceも来ている。
皆に ピーターを紹介するのに、都合の良い事である。
私は日本にいても一週間の内、半分は琵琶湖の船にいる。
私がいると、木原さんもよく琵琶湖の自分の船に泊まりにくるのである。
彼は英語を喋るので、ピーターとコミュニケーションが出来てピーターも助かっている様である。
いつも、琵琶湖ばかりでは折角日本に来たのに勿体無いと思い、車で観光に連れ出す。
最初は、比叡山に登る。
山の中の静かな森に立つ延暦寺を見て、大きな鐘を二人で交代について写真を撮った。
山科に出て、廻る寿司蔵で昼ご飯にする。
彼は、寿司は大好きだそうである。特にサーモンのハラミを好んで食べていた。
彼は、アラスカでサケ漁の船長をやっていたそうだから、その当時の新鮮なサケを思い出していたのかもしれない。
次ぎに、京都市内に入り、二条城を見学する。
ここでも写真をとったが、これらの写真が彼の最後の写真になったかもしれない。
そういえば、彼もカメラをもっていたが、船の中にあるのだろうか?
彼は、私にこう言った言葉が印象的に耳に残っている。
”Thank you, Maybe I will never come back to Japan again, good memories."
(ありがとう。多分、二度と日本に来る事はないと思うよ、いい思い出になったよ。)
この言葉は、ついにMaybe(多分)ではなくなってしまった。
8月の初旬いつも恒例の大津花火大会の日である。
ここ柳が崎ヨットハーバーは特等席である。
またまた 木原さんが焼肉等用意し、家村ファミリーも何か持ってきて、桟橋で花火を見ながらパーテイーを楽しむ。
私とピーターは、相談してボンボノンの子供達に何かプレゼントを持って帰る様にしようと、使い古しの鉛筆 ボールペン
ノート消しゴム、T−シャツ 食器 バック ミシン等あつめては、船内に詰め込んでいったのである。
私の方が先にマレーシアに戻ったので、最終的に何を積んだかは分からない。が、ユキさんの自転車に鍵さんのバイクまで
積みこんでいる筈である。
木村さんのテンダーは勿論彼の本船(オアシス号)より先にボンボノンに到着する事になっている。
木原さんと福井さんは、バッテリーの新しいのを彼にプレゼントするのだといっていた。
その他BCYCメンバーから、色んなものをプレゼントされていた。
私がマレーシアへ行く日が近づいた頃、ヨットハーバーの前に大きな風呂屋(ヤマトの湯)へピーターと行く。
最初は サウナに入り水風呂に入り、屋上に上がって露天風呂と全ての風呂のはしごをする。
彼は、熱い湯は苦手かと思っていたが気持ち良さそうに風呂に入っていた。
”ピーター、ボンボノンに帰ったらエンリケに、この露天風呂の事を話してか。”
エンリケがボンボノンのエリックの家を借りたら、露天風呂を作る夢がある為である。
私が出発が近づいた日、
”オバタ ボンボノンまでのルートを教えて”
”OK,C−mapを印刷して渡すから。”
私の彼に渡したルートは大阪湾をでて、父島ーガムーボンボノンのコースをプリントして渡したのである。
”ピーター、今あなたが使っているカセットコンロと毛布はボンボノンまで貸しとくから持っていって”
と言い残したのだが、彼は持っていったのだろうか?
今、日本に帰っていないので彼がこの2点を持っていったかどうか分からないが、何故か彼は置いて行っているような
気がしているのである。
彼は、フィリッピンから白灯油の携帯コンロを持ってきていた。
彼が死んだ後 ”もし”は意味がないが、それでも、もし、このカセットコンロを使っていたら今回の事故は無かったのでは、
と悔やむばかりである。
私が、マレーシアへ戻った後、彼は10月始めに琵琶湖から大阪湾に移動したそうである。
10月中旬に泉大津をでて、18日 沼島を出港したのを誰かが確認したというのを、家村さんから聞いている。
家村さんと相談してルート変更した沖縄の北の漁港に10月31日頃入港し、船を岸壁に舫っているのである。
11月2日に沖縄警察が、キャビンの中で死んでいるピーターを発見したのである。
那覇のアメリカ領事館から、ピーターのアメリカにいるお姉さん(Rosemary)に連絡が届いたのである。
その後、死体解剖は日にちが経っていて詳しい事が分からず、血液検査の結果、二酸化炭素中毒の反応がでたそうである。
また、沖縄警察の報告では、キャビン内にヤカンに入った焦げたジャガイモが見つかったそうである。
以上の事から 家村さんの奥さんAliceは、ピーターは長い航海をした疲れと寒さと空腹から、ジャガイモを湯がいて
食べ様と火にかけ、チョット横になったのが深く眠ってしまって酸欠状態で死んだという推理である。
私も同感である。
日本に帰ったら18日以後の天気図を調べる積りである。
彼が、どんな航海をして、沖縄の北端の漁港についたのか、機帆走で走れば5〜6日で着く筈が約14日間かかっているのである。
彼と知り合い、つきあった時間は短い。
時間の長さは意味がないが、それでもサーと通りすぎていった風のような感じである。
日本での短い日々、彼に色々と関わりがあってくれた人達にも大きなショックだったに違いない。
私が、ボンボノンのVisiter Noteに書き残して行った言葉をPeterに送る。

”I meet you now only one chance crossing time and space.    
 Someday I must say "See you again" but I don't know for certain.        
 So, I do my best for you to not regrets."

See you again,Peter
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Alice 家村からのメール 11月20日

私は、あるヨットマンの思い出のページを読みました。とでも悲しいけれど、又 彼の楽しい思い出も呼び起こしてくれました。
私も又彼との楽しい思い出を皆さんと分かち合いたいと思います。
けれど、いつから、どこから書き始めたらよいのか分かりません。
そう、それは2月の始め頃、あなたから アメリカ人の友達で 30ft以上で安いヨットを探す様にというメールを受け取ったのが
始まりでした。
その頃、私の夫、Kenjiは3/4 X-yacht その船は34ftで琵琶湖にあり そう悪くないレーシングヨットを扱っていました。
あなたはPeterに私達のメールアドレスを教え、何度か、連絡を取り合いました。
今年の春に船をチェックに来るような話でしたが、その頃彼はフィリピーナのガールフレンドに恋していたようで、
マレーシアにセーリングする計画をもっていました。
Kenjiは私に
”Peterはもう 船に興味がなくなったんやで”
けれど、後で聞いた話では、彼はその頃、ボンボノンからコタキナバルに向け厳しいセーリングをしていたのです。
それで彼は、もっと快適なヨットの必要なことを思ったようです。
けれど、どのヨットマンもお金を使わないのは知っているでしょう。
彼も、自分の予算を私達に言ってくれたけれど、とても、もっと余裕のある良い船を買う予算ではありませんでした。
それでKenjiは 3/4 X-yacht デンマーク製を薦めました。
彼は 2002年7月27日 11時に私の家にやってきました。
私はまだ会社で働いていましたがKenjiから電話で
”Peterが家にいるんやけど。”
と、かかってきました。
私は、昼から会社を休んで、早々に家に帰りました。
何度もメールをやり取りして、私はきっと彼の年は40代は半ばだろうとおもっていたのです。
ところが、彼の年を聞いて、私の目は驚きで丸くなってしまいました。
彼の年で そんなに勇敢に一人で小さなボートでセーリングするのに本当に驚かされました。
私は、Peterに
”今度はボートも大きくなるから快適なセーリングができるわよ。”
”そうだよ。Alice。 一緒に行くかい?”
”結構よ。長距離クルージングならカタマランで行くわ。”
彼は、笑って私を見つめていました。
ある日 日本食堂にお昼ご飯を食べに行きました。
彼は、メニューを見ても何を注文してよいか分かりません。
Kenjiは
”Peter, 勿論、うなぎの天ぷら定食なべなあかん。”
彼は うなぎが大変気に入った様でした。
その後暫らく、私の家に彼は泊まっていました。
私の家は、朝ご飯は食べない習慣ですが、Peterが来て以来、私は、いつもより早く起きて、朝ご飯を作りました。
私の息子Junは Peterを毎朝起こしに行くのが仕事です。
”ピーターサン。アサゴハンノジカン”
夜になり、風呂が沸くと
”ピーターサン。シャワーノジカン。”
それで、Peterは息子に冗談で
”Jun は ジカンを知らせるのがウマイね。”
私の息子Junは、英語が得意ではありませんが、彼といるので少し話す様になり大変いい勉強になりました。
彼が、船の修理をする様になると、Kenjiは彼にアドバイスをしますが、フリッピンに帰ってやるから必要ないと断ります。
勿論 フィリッピンの方が、日本より安いのです。
そして、そんな彼の考えを咎める気は全く有りません。
彼はいつも少ない予算の使い方を何度もよく考えていましたから。
彼が、繋留場所を移動して、彼は船に泊まるようになり、我家は寂しくなりました。
”この方がPeterにはいいんだ。いつもボートの事を考えられるからね。”
と、Kenjiは私に言いました。
彼は柳が崎ヨットハーバーに アンカーを降ろして、沢山の友達ができました。
彼が、琵琶湖を去る前に”サヨナラパーテイー”を皆さんが開いてくれました。
彼は、沢山のプレゼントを受け取りました。
大阪泉大津ヨットハーバー(Kenjiの所属するヨットクラブ)に移ってから、Kenjiはここのハバーマスターに 無料で10日間
繋留できるように頼みました。
ハーバーマスターは、
”いや素晴らしい 一緒になれて。”
と言ってくれました。
ここでもPeterは 人気者で沢山の友達ができました。
みんな この年でシングルハンドで長い航海をするのに驚いていました。
ハーバーのあちらこちらの船でパーテイーがあり、その度に私は冷たいビールとワインを持っていきました。
Kenjiと一緒に入国管理事務所の手続きを終え、私達は来年の1月ボンボノン(フイリッピンの彼の目的地)での再会を約束しました。
KenjiはPeterに
”沖縄に着いたら日本を去る前に必ず連絡してよ。天気の情報はいつも送るから。”
彼が出発してから、私達はいつも天気図を見て、低気圧が通過するのを心配していました。
”大丈夫、このコースは途中に小さな島が沢山あって 避難できるから”
とKenji。
私は、彼の沖縄到着日を11月1日と考えました。
その11月1日 土曜日でした。いつも土曜日は泉大津のハーバーへ行くのですが、Peterからの電話を受け取るのに行くのをとりやめました。
そして日曜日になってしまいました。
私は Kenjiに”ピーターからの電話はあった?”と何度も聞くのが飽くほどになりました。
”いやまだだ。沖縄の良い所を教えといたから、多分町を見にいったかな。”
”今回、天気が悪かったから、彼は、疲れて、眠たくて休んでいるのよ。明日 きっと電話があると思う。”
時計はゆっくりと時をきざみ、私の心の中は不安が一杯で ただ何も起こらない事を祈るだけ。。
息子は
”オカアサン 外に出掛けようよ。”
”いいわ。けれどピーターから電話があるかもしれないから、早く帰るわよ。”
”オカアサンは、ピーターさんの事心配しすぎだよ。ピーターさんはプロやから大丈夫だよ。”
私達は風呂屋にいきましたが、何か不安で息子に早く家に帰ろうと言いました。
家に帰ると、Kenjiが暗い顔で電話で誰かと話をしています。
”ピーターからの電話?”
Kenjiは指で静かにとサインを送ってきます。
その時私の気持ちは書き表す事が出来ません。
電話を終わってKenjiは私にいいました。
”ピーターは亡くなったよ。”
私は、涙があふれ出て、言葉を失ってしまいました。
Kenjiはコップに水を入れて持ってきて、私の肩を抱きしめてくれました。
Junは家に戻ってきて驚きの様子で、
”どうしたの?”
オトウサンはピーターが亡くなった事を告げました。
”神様”
これが最初に口から出た言葉でした。
”何があったの? 彼の船はあるの? 何が起こったのかしら?”
”警察もまだハッキリと事情が分からないらしい。ただ10月31日沖縄の漁港に入港し、誰かがPeterが舫いを岸に取るのは見ている。
次ぎの日は、1日誰も彼を見ていない。沖縄警察がキャビンの中を確認した時には、彼はもう死んでいたそうだ。”
その日はもう世界は止まったように思いました。
Kenjiは仕事に行く事ができなくなりました。
その日以後、家族全部が言葉数が少なく静かになってしまいました。
その後、彼の死因を知る所となって 私は驚き、又 暫らくの間 怒りを彼に感じました。
というのも、彼は 海で風と波と戦って 心臓麻痺で死んだのか?その他海での事故かしら?、或いは殺人事件に巻き込まれたのかしら?
と色々私なりに考えていたのが、
二酸化炭素中毒なんて。。。。そんな死に方なんてないわ。。。
暫らく後、冷静になって考えました。
多分、多分、彼はとても疲れていて 眠たくて、一人なのでどうしようもなかったのだと思う事にしました。
彼は 沢山の夢を私に語ってくれました。
”南アフリカへいくんだ。”
”フィリッピンの大きなお祭りまでに帰るんだ。”
”ミンダナオレースに参加するんだ。”
等と。。。。
そして、今度ボンボノンに私達がいったら寝る所は心配ないと。。
船を2つ持っているから。私達は新しい船に寝て、一緒に新しい船でクルージングしようと。。。
新しい船の名前は ”FLASH"。
この事は実現する事になるでしょう。
私の夫がフィリッピンへ自分の船で行く計画を立てるようになったとしたら、多分。やはり一緒に。。 多分。何処へいくのも。。
そして それがPeterとの約束だから。。。。

BY Alice 家村

訳:by オバタ
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ピーターのアルバム
to english version(memories of one sailer)
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