あるヨットマンの思い出に戻る。
Rosemary(Peterのお姉さん) からの ピーターの思い出を訳しました。
ピーターの思い出
全ての人が、モットーによって生きているのではないけれど 私の弟 ピーターは自分のモットーに従って生きました。
そして彼はある日そのモットーに沿って冒険を始めました。
あなたは私より長生きするはずだったのに、もう決して私より長生きすることはありません。
そして、もう 私を追い越して行ってしまった。
私以外、ピーターの子供時代を語ることはできないと思います。
私達はブルックリンニューヨークで生まれました。
ピーターは1942年生まれ、わずかに60歳で亡くなってしまいました。
私達の父は、ピーターがほんの小さな子供の時に亡くなりました。
ピーターはその時子供だったので かなり感傷的になり落ち込みました。
けれど 彼が12歳位の時、彼は男とは如何に生きるべきかに目覚め自分自身を作り上げ始めました。
多分 彼は私達の ひ祖父さんがノルウエー海の船長であったことに刺激を受け奮起させられたのでしょう。
どんな理由にしろ、彼はタフな男になり始めました。ウエートトレーニングをし、床で寝るような。
いつも 冒険小説 ジョセフ コンラッド、ロバート ルイス、ルヂヤット キップリング等を読んでいました。
私の母もまた彼に大きな影響を与えました。
彼女は海で泳ぐのが好きで、夏に時々ビーチに私達を連れて行ってくれました。
けれど 母はお金はありませんでしたが、彼女も又冒険を望んでいました。
その当時私達の祖父母はコニーアイランドから遠くない ブルックリン シープシェッド湾で小さな家を貸し始めました。
私達は 夏はそこで過ごしました。
そこで ピ−ターは最初のファイバーグラス製のセーリングカヌーを作りました。
そこの湾では、決して魅力的なボートではないけれど、浮かべて彼はセーリングに夢中になりました。
高校を卒業後、ピーターは最初の冒険を始めました。世界中を旅行することです。
彼はタスマニアの鉱山で働き、またオーストラリアの農場でも働いていたのを覚えています。
インドでは赤痢にかかり、彼も知らない誰か親切な人の看病で健康を取り戻したりしました。
ようやく、1年くらいの後に家に帰る事を決心しました。けれど その時はヨーロッパにいてお金は全然持っていませんでした。
彼の解決方法はクイーンエリザベス号に無賃乗船(密航)する事でした。
彼は時々アラスカに出かけていき、パイプラインの仕事をしました。
ある年、母は彼と一緒にひと夏をそこで過ごしました。
彼らは3ヶ月間 ケチカンから離れた小さな島にインデイアンによって建てられた丸太小屋で過ごしました。
彼らは、サメの肝臓からランプの油を採ったのを驚きと共に覚えています。
私はその時学校でサメの解剖を勉強していましたがそんなに小さいサメが実際の役に立っていること等思いもしませんでした。
私は、この時の3ヶ月は母にとって最高に幸せな時であったろうと思います。
母とピーターは特別な絆で結ばれていましたから。
ピーターはアラスカでの深い海で漁業をしたのち、ワシントン州からの召集兵でテキサスに行きました。
ピーターは軍隊が嫌いでしたが、ジープのエンジンを直すという 役に立つ技術を習得しました。
ある時彼の軍曹はピーターにその月の特別栄誉を彼に与えようとしましたが、それは彼は絶対に貰いたくないものでした。
けれど 軍曹は固執し、彼は公務放棄をして、サンフランシスコで2ヶ月間過ごしました。
私は彼が逮捕され投獄されるのではないかという不安から神経衰弱になってしまいました。
とうとう 彼は自分でテキサスに戻ってきました。
私は軍が彼を懲罰を加えるのではないかと心配しましたが、軍はジープのエンジン修理に彼を必要としていたので、決して罰せられることはなかったのです。
ピーターは色々な仕事をしてきました、けれど彼の生活はいつもボートとの関わりがありました。
彼は 太平洋中をセーリングをしました。
ある時の航海はサンフランシスコからニュ−ジーランドまででした。
彼と友達は小さな湾にアンカーを降ろしました。
彼等はラジオも無い為、手遅れになるまで台風の近づいてくるのも知りませんでした。
彼等の船は嵐で破壊され、彼らも怪我をして岸に泳ぎ着きました。
荒涼とした浜でキャンプを2日間した後農夫がやってきて発見されました。
ピーターはニュージーランドでたくさんの友達ができました。
数年の後、浜に打ち上げられた彼らの船のあるものを手紙と同封して送ってくれました。
彼は ハワイでも長らく過ごしました。
彼は 小さいマリンショップを始めましたが退屈なものでした。
その仕事をやめて、日本の会社が経営する観光客用潜水艦 アトランチス号で働くようになりました。
アトランチス号では最初鋼鉄の船体が沈んで、観光客に魅力的な魚を見せる手筈でしたが、そこは人工サンゴ礁だったのです。
ピーターは船体に穴を開けて30mまで沈みましたが魚は見当たりません。
次に、会社ではスクーバーダイビングでドッグフードをデッキに撒き拡げて魚を集める事にしました。
1ヵ月後、ピーターからの手紙は、魚はよく飼いならされてきて、アンカーを降ろす前に魚は船に集まってくるようになったとの事でした。
餌の袋を降ろす前に、腹を空かした魚たちの群れが雲のようにやってきて圧倒されてしまう。
面白いのは、魚たちのドンチャン騒ぎにウツボが参加しようとデッキをスルスルと滑ってやってくることだ。との事でした。
多分 1997年の事だったと思いますが、彼はハワイを離れアジアへ行くことにしました。
私は 1998年にポナペで彼と会い、近くの環礁の傍まで 小旅行をしました。
けれど 彼の船(トリマラン)は嵐の中6フィートのポンツーンを失くしてしまい、エンジンは動きません。
潮流と戦いながら戻ろうとしました。
そして リーフの中に戻り、船はサンゴ礁に打上げられて、この船は多分沈むと思いました。
私は顔には出さなかったけれど、本当は怖かったのを白状します。
けれどピーターはまったく恐れを感じていなかったようです。
私を怖がらせているものでさえ、彼を陽気にしているようでした。
ピーターは大変幸せな時間をフィリッピンで過ごしました。
チョナとチョナの家族と村の人々と特別な関係が生まれました。
彼が私の家へ昨年来たとき、沢山の小さなブレスレットを村の子供たちに持って帰りました。
そこでは彼はペドロおじさんとして知られています。
彼は日本で新しい船を手に入れることを大変喜んでいました。
日本では新しい友達 オバタ アリス ケンジがいます。
ピーターの運命は早すぎる死にもかかわらず、幸せな人生だったと思います。
彼は自分の人生を力一杯楽しみました。
世界中に多くの友をつくり、その家族や友達から愛されたのです。
彼はいつも自然で穏やかな普通の人間でしたが 彼の親切さと善意を人々は感じていてくれたのです。
彼は、人をいじめたり 脅したり また どんな残酷さも無慈悲も忌み嫌っていました。
ピーター あなたは 威厳があり勇敢で寛大でした。
そして その事を知っている人々は あなたの事を愛と共にいつも思い出すことでしょう。
Rosemary Amidei