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       43番 カーニコバル島   2003年5月

4月30日 ギアーボックスのクラッチが滑って使えなくなってから2日目、相変わらずの無風である。
    潮流と、わずかな風で1日40マイル進むだけである。
    一番近い島はアンダマン諸島のニコバル島なのでそこを目指す。

5月3日 カーニコバル島の北西20マイルまで近づき、夜になって灯台の明かりを確認する。

  4日 一晩中わずかな風を捉えながら、港の入り口500mに接近する。
     午前6時 港の入り口で潮流が激しくなり、あっと言う間に、沖5マイルまで戻されてしまう。
     もう、どこでも良いからと思い再度、東側の浜辺へアプローチを試みる。
     浜から200M水深5M位のところにアンカーを降ろす。
     早速 浜から村人が7人程カヌーに乗ってやってくる。
     彼らは、ココナッツとバナナを持って来てくれる。
     その中の長老らしき人がもう一度戻ってパンとチーズとゆで卵を持ってきてくれる。
     彼の名前はロバートといい、この村の村長さんで、この島を離れるまで何かと持ってきてくれることになるのである。
     おいしいココナッツを飲み一息ついたところで、今度は、ポートコントロール係官がやってくる。
     ”パスポートはあるか? ビザはあるか? 何故この島へ来た。”
     ”マドラスからを4月22日に出て、ポートブレアーを目指したが、ギアーのトラブルと無風の為にこの島へ着いた。”
     事情を説明すると、後で船を手配するからそれで入港するようにとの指示である。
     疲れて寝ていると突然ハッチから人の顔が見えて、遊帆UFOを引っ張って行くとの事である。
     入港すると、手回し良く医者が待っていて健康診断であるが、今、流行の肺炎を心配しているらしい。
     しきりに、香港 中国には最近行っていないか?聞き、聴診器で肺の音をきいているのである。
     最後に、どこか悪いところはないかとの質問なので、左足親指の痛風を言うと、無料で薬をくれるのである。
     ギアーのトラブルを話すと、明日 メカニックを手配するとの事である。

  5日 同じ港にもう一隻係留している貨物船のメカニックが数人を連れてやってくる。
     エンジンを回しギアーの滑りを見てギアーボックスを開けることにする。
     遊帆UFOはドライブとギアーとのカップリングをはずす為には、どうしてもドライブをはずさなければならない。
     メカニックはエンジンマウントをはずして、前に移動してはずそうと試みるが、前に動かすスペースが充分でないのが、
     説明しても分からないのである。
     マウントをはずして見て途中でやっと理解した模様である。
     今日は、ここまでにして明日やり直そうと言う事で終わる。

  6日 係留している所から200mの所に絶好のビーチがあり、そこへビーチングを試みる。
     ポートコントロールの係官がやってきて、
     ”許可なく船を動かす事はできない。 もう一度元の位置に戻しなさい。”
     ”もう、引き潮で船は動かないよ。”
     ”浜の使用料は、係留の5倍である。”
     ”いくらでもかまわん。ビーチングをしなければ修理ができないんだ。”
     ”再度、許可申請書類を書いて許可があってからしか利用できない。”
     何でも、書類を書いて許可があってからしか何一つすることができないのである。
     貨物船のメカニックは、今日ポートブレアーに向かって出港するとの事である。

  7日 風が強く吹き始める。風速40ノット、波高4mはあるようである。
     誰に聞いても、モンスーンが始まってこの状態が8月までずっとこの天気だという。
     私は、港の中だけで門から外に出る事は許可されていないとの事である。
     食事は、1件粗末な建物の簡易食堂があるだけである。
     三度の食事は、ここですることになるのだが、殆ど 肉 魚類はでてこない。
     朝は、素麺に良く似たものにココナッツミルクをかけて食べる。
     昼は、ご飯にプーリーといってセンベイのようなものに、カレー2種類と時々魚のフライがつく
     夜は、ドーサーといって米と小麦をひいたものを薄く伸ばして焼いたものに、
     カレーを混ぜて食べるだけで、野菜だけのメニューである。
     それも、こちらが選択できるわけではなく作ったものを食べるだけである。
     この食堂は、陽気なラジャー(25歳)、料理人のボスコ(27歳)、掃除のロナルド(13歳)、
     主人らしきアントニー(32歳)の4人が働いている。
     彼らは、親戚関係らしく仲は良いのである。
     なかでも、ラジャーは私に大変親切で、何かと気を使ってくれるのである。
     ポートコントロールの係官が、ポートブレアーへ無料で修理のために曳航して行くという。
     ポートブレアーまで120マイル、客船で曳航するということである。
     ”えらい親切やな”
     等と、喜こぶのだがこれが大変な話の始まりになるのである。

  8日 ポートコントロール係官が事務所に来いとのことである。
     ”ポートブレアーまで 曳航するのに君はいくら払えるかね?”
     ”何の話や? 昨日君は無料で曳航するという話じゃなかったのかね?”
     ”いや、ポートブレアーの上司からの指示なんだ。”
     ”それなら、曳航は必要ないからビーチングしてエンジンの修理をさせてくれ。”
     その申請書類を書いてサインして送るのである。
     もう、今までに同じ事を何度書いてサインした事だろう。
     村長のロバートが鶏肉を料理して差し入れてくれる。
     ポートコントロール係官は、ビーチングも許可できないとの事を言ってくる。
     ”分かった。じゃ セーリングでタイかマレーシアに戻るからパスポートを返してくれ。”
     ”パスポートはポリスオフィサーが持っているからそちらに連絡するのに書類を書いてくれ”

  9日 ポリスオフィサー ソロモンがやってきて、パスポートを返す手続きをしているところで
     ファックスが入る。
     ”喜んでくれ。ポートブレアーから無料で曳航するというファックスが入った。”
     ”何度も話が変わっているので、信用できない。パスポートを返してくれ。出港するから。”
     ”いや、上部からの指示には逆らえない。出港はできない。”
     強制的に足止めである

 10日 ポリスオフィサー ソロモンがやってきて、ファックスを再度見せてくれる。
     内容は、ポートブレアーまで曳航してサーベイヤーによる検査の結果により、
     無料かUS$1500かを決めると言う内容である。
     サーベイヤーの判断による結果など信用できないので、頑強に出港を要求する。
     ここの官僚(警察 ポートコントロール)は、約束違いを追求していくと、
     ”私はスモールマンですから。”
     ”スモールならいつもスモールでいなさい、大きくなったり小さくなったり風船のようじゃないか。
     とりあえず、パスポートを返しなさい。
     私は、何の罪も犯していないのに、何の権限でパスポートを返さないか?”
     ”これが、インデイアンルールである。”
     もう話しにならないのである。
     彼ら官僚は都合が悪くなると、”小さくなるか、忙しくなるか”である。

 11日 相変わらず風速40ノット以上 波高4mが続いている。
     この天気は7月まで続くと言うのだが、そんなにこの島にいたくない。
     出港するしか選択肢がないのである。
     後日分かるのだが、この天候はモンスーンではなくサイクロンが近づいていたのである。
     午前5時夜明けとともに、セールを揚げて動き出す。
     港内は狭く タッキングが難しい。
     ぎりぎりにコーナーをかわして外海にでる。
     風速以上に重い風である。
     波は4〜5mはありそうである。
     メインはワンポイントリーフし、ジブも巻きこんでいるが遊帆UFOは走るように進んでいく。
     1時間程走ってジブの巻き込みのシートが擦れて切れる。
     ブロックを一つ飛ばしてとりあえず結ぶ。
     4時間程走って、突然バンという音がしサイドステイが緩んでいる。
     一瞬、フィリッピンでのデスマストが頭の中に蘇る。
     とりあえず、サイドステイを締めてセールを縮めようとするが、ジブは、先程のシートが切れて、
     結び目がブロックにあたって縮める事ができない。
     その間3分程で、ついに2度目のバンという音と共にデスマストである。
     ハードドジャーはひびが入り、バウのステンレスのスタンレーも曲がってしまう。
     もたもたしていると、ハルにダメージが及ぶのでワイヤーカッターで切断するしか方法がない。
     マストは無く、クラッチは滑るので、流されるだけであるが方向は悪く、インド洋の真ん中へ向かっている。
     何とかしなければならない。
     クラッチの滑りを止めるしか助かる道はない。
     ギアーボックスのサイドの蓋を開け、前進側一杯にドライバーで持っていきエンジンを
     スタートさせるしかないが、へたをすると、エンジンのピストンシャフトが折れるかもしれない。
     が、もう、選択肢はないのである。
     少しショックがあったがエンジンは回りだし、クラッチも噛んで、スクリュウも回りだす。
     エンジン回転数1200 船足2.5ノットが限界であるが、前に進めば十分である。
     位置は、出港したニコバル島の南27マイル、一番近いのはやはりニコバル島しかないので、
     もう一度帰るしかない。
     16時間かかって港の入り口までたどり着くが、潮流が早い為なかなか入港できない。
     灯台のしたの岩場へ吸い寄せられていくような感じで灯台のサーチライトが不気味に見えてくる。
     日付も変わって午前2時 何とか入港し、係留場所へ行くが、今度も、スターンはつかえないので、
     エンジンを止め素早く、船を止めるのに一回勝負である。
     失敗すれば、前の岩場まで突っ込んでいく。
     これも、奇跡的にピッタリと止められて無事係留する。
     もう、クタクタである。
     真水で、体を洗って、死んだように眠り込む。

 12日 ポートコントロールの係官がやってきて、
     ”何故、戻ってきた?”
     もう、頭の中も切れてしまうのである。
     ”マストの無いのが、見て分からんか?君は書類報告が面倒な為に迷惑そうな事をいうが、
      こちらは命がかかっているんだ。”
     怒り心頭である。
     彼らも、これはまずいと思ったのか、以後態度は、かわるのであるが、相変わらず書類に
     サインして要求しても何一つとおらないのである。

     もう何日たったのだろう。 ビーチングする事だけは、許可がおりた為タグボートで働いている
     人達が6人やってきて、エンジンを持ち上げてくれる。
     ギアーボックスを外す。
     アウトプットシャフトを点検していく。
     毎日、ヤンマーのパーツブックを何時間も見て、どこが悪いかは、見当がついている。
     歯車の力を摩擦によって伝道するデイスク(フリクションデイスク)が悪いのである。
     日本の家村さんにスペアーパーツを注文する。
     今度は、運送の方法が無いとの事が家村さんから連絡である。
     ここ、ニコバル島はDHL FEDEX EMS 全て運送方法が無く、唯一 インドの日本領事館に
     送ってそこから特別な方法で部品を送るしかないとのことである。
     この島は、外部から一切遮断された島なのである。
     どこの国の官僚も同じであろう、いつ部品が届くか分からない。
     再度、決断をしなければならない。
     何とか、ここで修理して出港するか、いつ届くか分からない部品を待つかである。
     もう、外へ出る事もできないし、何一つ買う事もできないので、ここに、長くいることは出来ない。
     三度の食事は、簡易食堂のラジャーが、ツケで食べさせてくれている。
     彼らは、沈み込む私を何とか陽気にさせようと色々と気を使ってくれる。
     ”うちの,アントニーはグッドメカニックだよ。一度相談してみたら?。”
     と、ラジャーのアドバイス。
     アントニーを船に連れて行き見てもらうと、私と同じ考えである。
     とりあえず、ギアーボックスを分解し、港内にあるワークショップへ持っていく。
     ここは、若いがなかなか切れるビージェー(25歳)が取り仕切っていて、
     ”インド政府を信用するな。うちのメカニックに、修理するように頼むから”
     との事である。
     フリクションデイスクに摩擦プレートを貼り付け組みなおしてみる。
     今度は摩擦が大きすぎて、アヘッド側と スターン側のギアー両方が噛んで動かない。
     一枚ずつ削り取って、何とか動くようになる。
     その間、遊帆UFOは、浜から少し水深のある所まで下げて修理をしていたのであるが、
     風の強いある日、近くに振れ回しで係留されている25Mほどの鉄船が、
     遊帆UFOのスターンに近づいてくる。
     とうとう、接触し舫っているロープを緩めないと船体がもたない。
     ロープを緩めると、今度は前に沈んでいる鉄製の大きなブイに2度程バウを叩かれ、
     今度はスターン側ラダーに当たりそうになる。
     通りかかった漁師に助けを求めるとすぐに海に入って来て、船体を押してくれる。
     この間、もうこれで遊帆UFOもおしまいかと何度思ったことか。
     助けてくれた漁師は、アントニーのオジサンだったのである。
     結局、このファミリーのお陰で私も遊帆UFOも助かったのである。
     ギアーも何とか修理が終わりドライブに繋いでテストすると、大変な振動である。
     アントニーと再度検討の結果、エンジンとドライブを結ぶカップリングのボルトの位置が
     反対である事に気づく。
     しかし、再度ビーチングは大変なので考えた結果船底にロープを張り、その上に私が乗って
     ドライブを引き抜いている間に、付け直そうと言う事に決定する。
     ドライブの重みを一人で支えきれるかどうか分からないがやるしかないのである。
     20分程海のなかで支え再度押し込んで修理は完了である。
     テストすると、振動は殆どなくなってこれなら、貼り付けた摩擦板がなくならない限り動きそうである。
     こんな、サーカスのようにロープの上でドライブをささえられたなら、ビーチングの許可等待たずに、
     始めからこの方法でやっていればもっと状況は、変わっていたかもしれない。

     ここニコバルに来て、20日程いたことになるが、簡易食堂の4人にアントニーファミリー、
     村長のロバート、と、沢山の人に助けられ一口で言い表せない程の経験をしたのである。
     毎日、私にとっては粗末な食事だが、ここに住んでいる人々は、このような食事なのである。
     私が、不平不満を言う事はできないのを、身にしみて分かるのである。
     体重は体重計が無いので分からないが、ベルトの穴の位置が3つほど縮まり、
     すっきりとダイエットした感じである。
     野菜ばかりの食事の為か、胃腸の調子はよく、ウンコはきれいなバナナのようなものが出てくるのである。
     
     ポリスオフィサーがやってきて、エンジンは直ったか確認し、ドルをインデイアンルピーに交換する為に銀行へ行く。
     勿論、パスポートは返してもらう。
     しかし、大きな口の割には、銀行でも交換できず、この島唯一の会社で、交換し、ジーゼル燃料も手配する。
     それから3日たってもジーゼル燃料は持ってこないのである。
     彼の車に乗っているとき、若者がバイクに3人乗りで行くのを呼び止め、注意していると、一人がお金を持ってくる。
     さすがに、私が後ろに乗っているので受け取らなかったが、いつもこんな事なのであろう。
     
     買い物をしたくてもドルしか持っていないので、何も買うことができない。
     簡易食堂のラジャーが、貨物船GULMAの船長に私の窮状を話してくれたらしい。
     GULMAの船長が、船にお茶を招待してくれる。
     ”何か欲しい物はあるかね?”
     ”ドルを交換できれば何でもかえるんですが。”
     ”いくら必要かね?あるだけ交換してあげよう。”
     結局3000ルピー程を交換してくれて、洗剤に石鹸 ビスケット等をくれる。”
     ”私もシーマンだ。いつ同じ状況になるか分らない。当然の事をするだけさ。
      但し、このお金はチェンナイで交換したんだよ。”
     何て、嬉しい事を言ってくれるのか。
     何度書類を書いて20日待っても何も事が進まないインド官僚に聞かせたい所だ。

     ポートオフィサーに会う度に文句を言うのが仕事になってしまったのである。
     ミネラルウオーター等は、20日待っても未だ来ないのである。
     アントニーが、マラッカ(この島で一番の町と言っても何もないのだが)まで行くから、
     一緒に行こうといってくれる。
     もう、パスポートを持っている限り許可等、糞食らえである。
     ミネラルウオーター2リットルボトルを10本買って帰ってくる。
     こんなに簡単な事が、20日経ってもできない官僚書類主義の社会システムである。

     カーニコバル島は、1942年に日本軍が占領し、3年間程いたそうで、海岸に砲台が未だに残っている。
     砲台からは地下壕を堀り後ろの森まで続いている。
     こんな小さな大砲が1つあるだけで、どこからくるか分からない英軍艦と、戦おうと言うのは
     お笑い草である。
     インドネシアの戦争博物館で見たときも、戦力の差は歴然としていて、貧弱な武器を大和魂で
     カバーしようとしたのは、哀れである。
     日本軍が作った飛行場は、現在もインド空軍が使っている。
     現在、70歳代のこの島の人達は、日本語を話し、軍歌や国歌を覚えていて歌って聞かせてくれるのである。
     殆ど聞いたことが無い軍歌で,歌詞は勇ましい調子である。
     けれど歌っているときは、タイムスリップしているのか、笑顔もはつらつとして少年の表情である。
     沢山の人々が、60年も日本人を見なかったので、懐かしさからか日本語を話しにバナナかココナッツを
     手土産に船までやってくる。
     何も、返す物が無いので日本のCDを1枚ずつ渡す。
     カーニコバル島のオリジナルの人々は、インドメインの人々とは顔つき肌の色は違ってインドネシア人に近い。
     顔つきも日本人に似た人々が多いのである。
     外国人は入る事のできない島に、何の因縁か、分からないが2度も来たのである。
     この島は、外国人に開かれた島ではなく観光は勿論できない所である。
     世話になったロバートのお父さんは日本軍占領時代、英語を話すので、スパイの疑いで
     拷問の末死んだそうであるが、恨み事も言わずさらりと話し、私に沢山の差し入れをして助けてくれたのである。
     占領され支配下に置かれたこの島の住人も不幸であるが、ここまで命令で進駐してきた日本人兵士も不幸で、
     ここで、沢山の人々が死んだのである。
     日本軍侵攻といっても、補給物資も無く、再度英軍が侵攻してきたときには、多数の兵士が死んだに違いない。
     インドネシア、フイリッピン、マレーシアどこでも同じで、占領はしても補給物資の不足で、維持できないような、
     馬鹿な作戦を実行し、国家に忠実な若い兵士も沢山死んでしまったのである。
     戦争を知らない私の世代の人は、この様な現実を実際に見るべきである。
     馬鹿な命令でも実行する社会システム、実行しなければ犯罪になるこんな社会システムに2度と
     戻りたくないものである。
     
     できる事の最善を尽くそうと、竹でイマージェンシーマストを立てる事にした
     ロバートに竹を頼むと、村人2人が竹を切って持ってきてくれる。
     4本の竹を組み合わせて、6m程の高さのマストを立てる。
     セールは、日除けのテントで四画なので、半分にしてリフトアップする。
     追手の風なら、走れそうである。
     後は、東へタイプーケットまで380マイル走るだけである。
     
     簡易食堂のスタッフとタグボートの仲間達 

26日 朝4時、簡易食堂の4人にオジサンのフィシャーマン、タグボートの人々等が見送りに遊帆UFOまでやて来る。
     彼らは、ビスケットやら スナック菓子やら ココナッツやら メッセージやら持ってきてくれる。
     彼らの好意に何のお返しもできない。
     ミルクテイーをいれ、別れの挨拶をし、何度も手を振って出港する。
     ラジャーは泣きそうな顔である。
     こちらも、胸に熱いものがこみ上げ涙が出てきそうになる。
     何と、純朴やさしい人達だったろうか、失うものに比べこの人達との出会いは、遊帆UFO航海記の中でも、
     一番印象に残るのである。
     
     外海は、波高2m 風速20ノット 西からの風でずっと追手で走れる。
     エンジン1800回転 船足5.5ノット

27日 オートパイロットと、発電機の故障。
     ギアーは順調に回っている。

28日 4時 クラッチが、再度滑り出す。
    ラダーのボルトが外れ、片側のラダーだけになるが、再度修理して問題ない。
    プーケットまで残り100マイル。下関から釜山までの距離だもう少しである。
    エンジン回転数1200に落とし、 イマージェンシーマストに テントを張り、船足2.5ノットで走る。

29日 午前1時、プーケットシャロン湾まで残り30マイル、もうクラッチは完全に滑りニュートラルで回転するだけである。
     シャロン湾入港も風向きが良く、何とか入港できそうである。
     追手の風でも方向は、右左に20度しか進めない為、速めのコース選択とテントの張替えに忙しい。
     島の間を抜けるのに、方向が悪いと、吹き流されるか島の岩場に乗り上げてしまうのである。
     午後、3時、シャロン湾に入港してアンカーを降ろす。
     

     この度の経験から、ピーターは如何に大変な航海をしていたのか良く分かった。
     いつも彼の声が聞えてくるようであった。
     ”オバタ、耐えるんだ。ネバーギブアップ” と。
     最初の、インド洋での無風 (ヨットにとって無風程怖いものが無いのが良く分かっているのだが、
     実際に経験するのは 如何に、忍耐力がいるのかが良く分かった)、
     次は インド洋でのサイクロンとこれが同じ海かと疑うほどで、
     結局、あせりからくる、私の判断の甘さ、過信、点検のいい加減さ等、思い知らされれる結果となったのである。
     次から次と起こるトラブルのわりには、無事生還した事は、ラッキーに違いない。  
     全てを修理し再度行けないカーニコバル島にイマージェンシー入港をトライして、彼らにもう一度会いたいと思っている。
     ヨットマンにとって、海があり船がある限り行けない所等なく、インド官僚とのトラブル等問題でない。

     沢山の人から、安否を気遣うメールを頂きながら、勿論インターネット等なく、返事のメールを出せなかった事を
     お許し下さい。

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2009年5月書き足し
最近インターネットで第2次世界大戦中、カーニコバル島で島民虐殺を記録している本があるのを知った。
こんな悲惨虐殺があったのなら、インド政府は日本人の上陸を許可しないと思われる。
そういう事であれば、カーニコバル島に戦後日本人で行ったのは私が最初ではないかと、今になって思うのである。
この島はインド人でもインド政府許可なしでは上陸できないのに、私は何故か2回も行ったのである。
今にして思うに、私がハーバー敷地内から出るのを禁止されていて、島内に行く時はポリスオフィサー、ソロモンが自分の自動車で
島を案内してくれ、村民結婚式に参加したりという事も私の安全の為だったのかもしれない。
村長のロバートは食べ物を持って遊帆(UFO)に訪れてきてくれて、大変世話になったが、
彼のお父さんは英語が喋れるのでスパイ容疑で日本軍に殺されたという話は事実であったのである。
下記の本によると80人程の島民が殺されたらしいが、ロバートのお父さんはそのうちの一人だった訳である。
何もない貧しい、隔離された島で英語が喋れようと、どのようにしてイギリスと連絡しスパイ活動が出来るか考えただけでも分かりそうだが、
異常な精神状況下で一兵卒の意志に反して島民虐殺行為が行われ、戦後戦犯として処刑された。
子供の時にフランキー堺主演の“私は貝になりたい”という映画を見たが、あのような状況であったのであろう。
虐殺行為は事実であり、一兵卒の処刑だけで戦争責任は処理されたとするべきでない。
こういう事実を知って二度と再びこのような事が起こらないようにしなければならない。
島には日本軍が海岸から奥地に続くトンネル防空壕も、飛行場もそのまま残っていた。
島全体が平べったいので、スマトラ沖地震の時、津波の高さがが3mもあれば、80%は水没し、被害甚大だったのではないか。
島民の結婚式に招待され、御馳走になった村人の家も、標高1m地帯である。
平和な小島が、いつのまにか戦争に巻き込まれ訳も分からず拷問され殺されていった人々がいるのである。
その事実を知っておくべきである。

ブログ さよなら 十度海峡
忘れられた戦争責任―カーニコバル島事件と台湾人軍属 (単行本)