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フィリッピンNO.8レポート カミグン島 2000年8月20日
8月23日 航空チケットの関係で韓国経由でボホール島に戻る。
最初にソウルを訪れたのは もう25年位前になるだろう。漢江の南は開発されていなくて山だったのに
今や 漢南地区は道路も広くビルが立ち並び旧市街を凌ぐ発展を遂げている。
当時は車の数も少なく 自家用車は珍しかったが、今は道路を拡張しあちこちに高速道路を作っても慢性的
交通渋滞が続く為,1988年オリンッピックの時はナンバープレートの奇数偶数で走行日を規制していた。
25年前のソウルは、今のフィリッピンより貧しかったと思うが 礼節&人情があり 田舎へ行くと質素ながら大家族で
食卓を囲みチゲ鍋をつついていた。
旧市内にあった“叉来屋”は 韓国典型的家を改装して焼肉(プルコギ)屋にし 大繁盛していて 窓から美味しい臭いと
煙がもうもうと出ていて ソウルへいくと必ず食べていた。
懐かしくて探して行ってみたが 主人はこの店の成功を元手にアメリカへ進出し 代替わりして営業されていた。
そのせいなのか私の感性がにぶったのか それほど感動する味ではなくなっていた。
わずかな年月で急速発展した韓国は 確かに物は豊富で便利になったが 日本と同じく大切な昔からの心を
どこかに忘れてきたように思う。心は荒れて家庭は崩壊し犯罪は文明社会型に変ってきた。
フィリッピンの貧しくても 明るくのんびり幸福に生きている生活に接すると 何故こんなに日本人は勤勉なのに
どこか心の中に不安を持ちながら生きていかなければならないのか考えさせられてしまう。
くるくる回る車輪の中で 止まる事を忘れたハツカネズミの様に思えてくる。
26日 久しぶりに鍵さんから電話がかかる。今日はBCYCヨットクラブの夏祭りで宴会中らしい。
”あのな オバタハン 9月に フィリッピン行けんようになってもたわ”と寂しそうな声の鍵さん。
次ぎにクラブメンバーの懐かしい声(酔っ払って何を言ってるのか分からん人も含め)順番に聞こえてくる。
友達はいいもんだ。
27日 燃料フィルターを取りつけ 燃料噴射ノズルを交換する。テンダー用の3馬力エンジンも調子が悪いので修理する。
ニールの女友達のビクトリアの叔父さんがなくなったそうで各地から親戚が集まって葬式&パーテイーがあり
私も紛れ込んで昼食をいただくが 別に”お前は何モンや”とも聞かず受け入れてくれる。
哀れ子豚の丸焼が始り 腹を裂き内臓を取り出し毛を剃り 口からお尻の穴に竹を串刺にして くるくると火で
あぶりながら 1時間ほど焼くとアメ色になって出来あがりだ。
先程はカワイソウと思っていたのに バナナの葉の上に乗って出てくると美味そうと心変わりし早速 ナイフを持って
切り取りに行く実にかってな私だった。
葬式参加親戚は40人位いて 葬式の後とは思えないほど陽気に騒いで笑い声が絶えない。
さすがに 南国フィリッピン 陽気な葬式でいいなと思う。
私も葬式不要 戒名不要 骨は海へ撒き 参列していただく方には普段服で来ていただき 音楽を流し 酒でも飲んで
談笑して帰っていただく様に家族に言ってある。
修理の為浅瀬に揚げる遊帆 UFO
29日 修理も全て終わりいつでも出発できる態勢になったが ニール&ビクトリアが一緒にクルージング希望の為日程と
コースの検討をするといっても 私はいつでも どこでもOKなので 結局ニールに 決定権を渡す。
タグビラランの市内に小さな屋台が寄り集まった所があり、いろんな料理が鍋に入っていて好きな料理を指差すと
小さな小皿に取ってくれる。
どれを食べても美味しく安い。メニューの中の調理法の見分け方は次ぎのようなものだ。
アドボ(adobo)と名前に付いた物は 煮こみ料理で 豚 牛 鶏 魚 野菜とパターンは無数にある。
シニガン(sinigan)と名前の付いた物は 少し酸味のあるスープで 材料は上記同一パターン。
シズリング(sizzling)と名前の付いた物は 鉄板で炒めた後 ソースをかけてジュ〜ンといわしたもの。
グリル(grilled)と名前の付いた物は オーブン叉は炭焼きと考える。
次ぎに材料だが 主なものをあげると、豚はポーク(pork) バボイ 、 牛はビーフ(beef) バカ(アホではない) 、
鶏はチキン(chicken) マノック、 魚は種類が多いが 白身の魚ラプラプとツナ(日本のツナと同じ)だけ知っている。
30日 市内のデパートがあるメインストリートを、インターネットカフェ 買い物 食事の為に毎日通るのだが、
馴染みのストリートチルドレン2人が待ちうけていて、必ず付き纏うので 2ペソポケットに用意して歩く。
私は頭に赤いバンダナをかぶりその上に麦藁帽子をかぶりサングラスをしているので目立ってすぐ見つけられてしまう。
私を見つけると 笑いながら走ってきて、いくら早足で逃げても裸足でついて来る。
毎日通っていて、彼らのお得意様になってしまっているが 今日など彼らに見つからないとかえって、
あの子供達はどうしたのかと気にかかるから不思議だ。
フィリッピンのお金は 日本のお金に比べると信じられない位 使いこまれ汚く たまに印刷がはげているのもある。
財布に入れてもお金の臭いというか 人の垢のような臭いがする。
普通の雑貨屋(サリサリストアー)で買い物するときは 500ペソ札を出したら 大抵つりがないから買えないので、
使える所で できるだけ500ペソ札を出して 小銭を集める様にしている。
一説ではフィリッピンのお金が汚いのは 偽札で無い証拠の為こぞって 汚い札を好むというが真実かどうか分からない。
しかし そう言われてみると沢山の人の検査結果の証がよれよれであるのは充分説得力がある。
31日 午後8時 ビクトリアは仕事があり行けないので ニールとニールのヨット製作の手伝いをしているタタの3人で
タグビラランを出発しボホール島の南東65マイル位の所、ミンダナオ島とは すぐ目と鼻の先にある
カミグン(kamigun)島へ向かう。
この島は 縦20km横15km位の 楕円形の火山爆発で出来た島らしい。
ボホール島からKamigun島 Kamigun島拡大地図 Kamigun島
9月1日 お昼 12時島の北に位置するMAMBAJAO港に到着。
テンダーで浜へ上陸する時 大男のニールがバランスを崩して スロウモーションで 海へ落ちる。
私は 笑いをこらえニールの左腕を掴み 体をテンダーに引き上げるが 重いのでへたをすると こちらも巻き添えに
なりそうになる。 ニールは
”チクショウ クソ”
等 ブツブツ汚い英語をいいながら 這い上がってきた。
タタと私は 大笑いだが ドボドボに服を濡らしたニールは まだ一人 自分に怒っている。
Casa Grande Hotel にチェックインし、服を着替えて Ardent Hot Spring温泉があるので車を借りて出かける。
フィリピンの温泉は 川を堰きとめた様になっていて 水着を着て入る。
地元フィリッピン人はパンツにTシャツのまま男女混浴が一般的だ。
温度は41度位だろうか少し低めの単純泉だ。
2日 島を一周しようという事で 昨日の車を借りて 舗装の無い山道を30分程登って行くと KatibawasanFall滝に着いた。
次ぎに島を時計回りに 南の端の港に行く。すぐ眼の前がミンダナオ島が見える。
ここで 昼食に海鮮料理を食べる。
ここの蟹は身が詰まってまるまるして チリソース炒めで食べたが美味かった。
ただ殻が硬く 日本なら ペンチみたいな道具が出てくるのだが ここは 木槌と木の台が出てきた。
これで殻を叩いて割るのだが、ニールは木槌を裁判長の様にトントンと叩いて
”蟹くん 当法廷は君に死刑を宣告する”
等と冗談をいっていた所まではよかったのだが、ここでも ドジのニールは チリソースの付いた蟹の爪を 思い切りよく
たたき チリソース飛沫を自分の服と眼に浴びてしまう。
昨日、海に落ち洗濯した真っ白のシャツに赤い斑点模様がつき
”チクショウ クソ”と汚い英語の連発で 泣きそうになっている。
勿論 タタと私は大笑いだ。
この程度の蟹のリベンジでだけで、後はなんとか無事昼食も終り、今度は Santoniyo Cold Spring冷泉に
腹を空かせに泳ぎに行く。
半径100m位の池の水は ひんやりして透き通っていて泳いでも気持ちが良い。
自ら 水泳オンチといっている ニールは息継ぎが出来ないらしい。
”水中で吐いて 顔があがった時に息を吸うんや。”
”分かってるけど 時々反対に 水の中で息を吸うねん。”
”もう 勝手に泳でてんか。”
次ぎは 島の西にある Undersea Cemetery 地震で海中に水没したお墓があり、そこへ見学に行く。
高い十字架が海中に立っていて目印になっている。
案内書には 船で行くときは アンカーを打つのにお墓を傷つけ無いよう注意して下さいとの事。
”ここで アンカーを打つと たまに墓から手が伸びてアンカーをつかまえ抜けなくなるらしい”
とニールの冗談。
今は満潮で近くからだと見えないので 山の方へ登って全体を見渡せる崖から見ようと車を止める。
タタと私は平気で崖から 下を見ているのに ニールの様子が 先程からソワソワしておかしい。
タタは私にニールを見ろと突つく。へっぴり腰で 崖から這いながら下を見ている。
”ニール ほんまにパイロットやってたんか? これくらいの高さで怖がってたら 飛行機なんか乗れへんやろ”
冗談で怖がっているのではなさそうだ。
今日は 島の北側のAgoho町の小さなリゾートに泊る。
夕食に行くと パーテイの様だ。
ニールが ニタニタしながら
”今日は ラッキーやで ここの ダイブマスターが28歳の誕生日パーテイで 飲み食い全部ただや。”
という事でニールは 朝3時まで飲んでいたらしい。
タタと私は椰子の下の椅子に腰掛けて食事をしていたら 突然空から何か降ってきドスーンと大きな音がした。
すぐ横で 頭位の椰子の実が砂にめりこんでいる。
”オバタ はやく ヘルメット!!”とタタが叫んでいる。
直撃されていたら 私のスキンヘッドはザクロに変っていたかも知れない。
どこで 人生の不幸がくるのか全く予測不可能だ。
Neal & 私 & Tata Katibawasan Fall へっぴり腰で崖下の水中墓を覗くNeal
3日 二日酔いのニールを起こして船に帰り出港する。
風の神様の御機嫌が良く セーリングで18時間かけてボホールに戻る。
ニールがビクトリアとその家族のお土産にこの島名産果物 ランゾニー(Lanzones)を30Kgs程買っていたので
少し味見したが、小さな琵琶の感じで甘酸っぱく香りがよく、なかなかの味だった。
ランゾニー売りの親子
4日 朝6時夜明けを待って入港するが、風に恵まれ気持ちの良いセーリングだった。
いつもの係留場所のボホールトロピクスリゾートの前の海にアンカーを降ろし、上陸する。
ダイバーショップの友達(ボスの台湾人とフィリッピン人)が出迎えてくれて コーヒーを薦めてくれる。
足元に2日前にこのリゾートの前に捨てられていたらしい生後1ヶ月位の子犬がいる。
ドナの事を思い出すと胸が痛むが、あまりのかわいさに
”一緒に 飼わへんか?”
”OKよ、 名前は あんたが付けてんか”
”ほなら タロウにするわ”
と、トントン拍子で交渉成立し、タロウのゴッドファザーになってしまう。
しかし ドナを無くしたショックで タロウを船に乗せる事はできない。
タロウ オス生後1ヶ月位?
10日 ドライブを修理してから Sailing中はドライブを引き上げる事が簡単になってもっぱらSailingを中心に走るようになった。
水の抵抗が少なくなって 約1ノット弱のスピードの差があるようだ。
今日も対岸のセブ島まで Sailingし 静かな湾内でにアンカーを打って 上陸せず船上で過ごす。
夕刻 日没が黄金色に染まる。 海までが金色に輝いている。
そんなに ロマンチストでもなく語彙数貧弱 表現力不足の私でさえ
”う〜ん 綺麗 素晴らしい 何ともいえん”等 まさに なんともいえん状態になってただ呆然としているだけだった。
ダイダイ色の太陽が沈んだあとは、 もうすぐ旧盆の為 月が殆ど満月でとってもきれいだ。
この雰囲気には 喜太郎のCDがピッタリ合う。
11日 風が強くなってきて 雲行きが怪しいので速めに帰ろうと思いアンカーを揚げる。
不注意の為チェーンとウインドラスに左小指を挟まれる。
爪が取れてしまって血が噴出してきたが、とれた爪でもないよりましやろと思い、もう一度指に乗せ消毒して
バンドエイドを貼る。まあ 爪だけで 指が無くならなくて良かった。
スキンヘッドで 左小指が無かったら 全くヤクザモンになってしまい誰も近寄ってくれなくなるところだった。
14日 ニールとビクトリアが夕食にスイス人j経営のレストランに行こうと誘ってくれたので出かける。
ボホール大学校の前にあって ソーセージとチーズ料理が美味い。
ショウウインドウにソーセージ、チーズ等冷凍していて、
”これ そこの スパイスがきつそうな奴(ソーセージ) と 臭そうなチーズ(ゴルゴンゾーラ)ちょっと切ってんか”
何でも 臭い物好きの私が(但し 食べるものだけ)注文を終わってから ここフィリッピンでは テーブルに出てくるまで速くて20分はかかる。
でてくると オニオンソースがかかっていてうまい。
珍しく若い男女の日本人らしき客がいるので声をかけてみる。
二人は 海外青年協力隊に参加していて、男の人はパラワン島のPort Princeseで獣医をしているらしく、
女の人はボホール島で 家畜の繁殖に協力しているらしい。
私の様に 中年フータローと違って 若いのに 立派なもんだ。
こんな若い人々がいる限り日本も まだまだダイジョウブだろう。
但し せっかく協力隊できたんだからと一生懸命とか頑張るぞとか考えず、あまり やりすぎずのんびり ダラー
とやるのがフィリッピン式ライフスタイルだろう。
これから 日本社会は 経験と知恵を蓄えた老人が増えるのだから、老人海外協力隊てなものを創って
ボランテイア活動をしたらどうだろう。ゆっくりとしたペースでボランテイア活動をすれば老人も生甲斐を見つける事ができ
現地でも大変喜ばれるのではないだろうか。
私など メシ位食わしていただければ喜んでお手伝いさせてもらうが、何の特技もなければ断られてしまうかな?
15日 この所フィリピンの北に台風があり 風の強い日が続くので船上生活は中断して ボホールトロピクスホテルに泊る。
市内に E-mailと昼食と買い物に出かけるのが主な日課だが、ボホールはどこでトライシクルに乗っても1回3ペソ
(9円)で、運転手のオッサンやらオニイチャンはいつもにこにこしていて行き先をいうと ”アイヨ”というような調子で
120ccくらいの三輪車バイクを上手に運転して行ってくれる。
基本的なシステムは相乗りで、どこでも行き先を言って方向が同じなら しばし肩を寄せ合い体をくっつけて
揺られていくのだが、ジャスミンの香りのするオネエチャンと一緒になるか、汗臭いオッサンと一緒になるかは
その日の運しだいだ。
たまにトライシクル同士が接触事故を起こしても、
”問題無い、心配無い、金も無い。”というような感じで喧嘩にもならずおさまってしまう。
これが韓国や日本だと、道路上で喚きながら喧嘩しているのを良く見るのだが、やはり国民性の違いだろうか?
昼ご飯は大抵 お気に入りのMcjacという屋台式レストランで指差し注文方式でオカズ3種類とご飯にビールという
メニューで50ペソ(150円)位で済んでしまう。
フィリピンの米は 日本のジャポニカ米ではなくインデカ米なので いくら食べても消化がよいので胃がもたれる事がなく
お腹にやさしいので ”うんこ” がとっても いい色と硬さと臭いで 実に ”うんこ” らしく出てきてくれる。
日本も数年前米不足でインデカ米を輸入して不評をかったらしいが私は慣れてしまって この種の方がよい。
17日 パングラウ島の西のモモビーチにアンカリングして船上で1日過ごす。浜から500m位離れた所に 発砲スチロールが
浮いているのでそれに舫えばよい。その正面にCoral Point Dive Houseという小さいて安いリゾートがある。
その南隣にバブル時代に 日本人が大きなリゾートを経営するべく始めたが途中でお金がなくなり 逃げてしまって
今は 廃墟同然になったところがあり こんな所まで 日本のバブルの影響は及んでいたのである。
フィリッピンで日本人が投資して成功した例はあまり聞かれないが、その点、スイス人はしっかりと現地に根を降ろし、
何年もかけ、ゆっくりと拡大して仕事をして、成功している。
お人好しでせっかちでお金持ちの日本人は、しっかりとした事前調査や弁護士をたてて契約を結ばず、お金の力で
事を進める為、甘い砂糖に群がる蟻の様に 人々が絡んできて、問題が起こり、こんな筈ではなかったのにと後悔するが
その時は一巻の終わりである。
海外で仕事をする事は自国で仕事をするよりも、法律 習慣 社会的基礎の違いからもっと難しいとい言う事に気がついていない。
村の子供が4人 大きい子は小学校6年位で 小さい子は1年位の混成チームでバンカーに乗って魚釣をしている。
小さい子は 釣糸をあやつる格好だけは大人顔負けだが、なかなか釣り上げていない。
大きな子は 10分も しないうちに鰯らしきものを釣り上げる。
釣道具らしきものは 殆ど使っていない。釣り糸と針だけだ。
もう 1組 こんどは夫婦もんらしき カップルがバンカーで近づいてきた。
船上にいるのは太った体で日除けの為頭からT―シャツを被っており分からないのだが、豊満な胸なので
一応オカアチャンと勝手にきめつけているのだが、そのオカアチャンは船上で網を下ろして オトウチャンに
魚を追いこむ様に場所を指示しながら取るのである。
”あんた もっと右の方にいっぱい魚いるやろ、そやそや 今や追いこめ。”
その度にオトウチャンは潜って行く。
私の偏見と独断によると、南の方は女系家族でオトウチャンは一般的に
家庭内で力が無く、子供を作る時だけ必要で後は、もっぱらオカアチャンが中心の構成になっているように思える。
魚取りの子供達
18日 ニールとタタが乗りこんできて ネグロスの南端 Bonbonon港にナイトセーリングする。
風にめぐまれ 叉 天気もよく 月 星も出ていて ナイスナイトセーリングになる。
早く着きすぎて港の前で夜明けを待って 入港する。
湾内は完全なアンカレッジポイントで台風が来てもダイジョウブだ。
ヨットが20艇位はアンカーを降ろしている。
近くの町Siatonへ出かけるが 上陸してから とりあえず、ましな村(サリサリストアーと民家が10軒位ある村)まで
ジャングルのような所を歩いて30分はかかる。
暑さと長距離行軍の為 3人はふらふらと吸いこまれるようにサリサリストアーへ入り込んでオバアチャンに
”オバアチャン ツメタ〜イ ビール3本”
19日 ニールとタタはここから Dumagetiまでバスでいき、そこからスーパーカタマランでタグビラランまで帰る。
再度一人ぼっちになる。
こんどは他のヨッテイー(スペイン人とオーストラリア人)とビールを飲みながらグダグダと話をする。
話しはお互い第二外国語同士だと、分かりやすいが オーストラリア人は母国語でこちらも良く分かっているものと
勘違いしてオーストラリア訛りでペラペラしゃべってくるので、その度
”私にしゃべる時は 簡単な言葉で区切って言うてね”
と、お願いするがしばらくは覚えているようだが また 早口でペラペラしゃべってくる。
私も、始めのうちだけ集中して聞いているがビール2本目位になると話しの内容も面倒臭くなって返事も適当だ。
船のある湾内の辺りは、悪路のせいかトライシクルではなく オートバイにお客を乗せて走るのだが、運転手を含めて
4人は常識で、多いときは 6人乗って走っている。
日本の警察官が見たらびっくり仰天するだろう。
二輪車に6人もどうやったら乗れて尚且つ デコボコ道や穴の開いた橋をハンドルを取られずはしれるのか不思議だ。
この港は、波が立たず静過ぎる位静で大変気にいっている。
その他御近所のヨット見学にテンダーで回る。
今年初め ボラカイ島で出会ったHolo Holo3 もアンカーをおろしているが溝田夫妻は日本に帰っているらしい。
35ft位のヨットでアメリカから来たオジイサンがいた。彼は83歳で シングルハンドで航海をしているらしい。
若い時はいい体をしていたのだろう。
上半身にかってモリモリとあった筋肉は落ちてしまって却って皺だらけになってしまっているし背中も曲がっている。
一般的にアメリカ人は フランクで陽気だが、自己主張が強くあきらめる事が嫌いな民族のように思える。
日本人は 死ぬ時でもどちらかというと”まあ しょうないか”という感じであきらめるが、アメリカ人は死ぬまで、
ネバーギブアップという人が多い。
私は83歳で彼と同じ航海を続ける自信は体力気力ともに無いと思う。
その為に早目に仕事をやめて、元気なうちに先好きな事しとかな損やという考えで海外クルージングしている。
22日 家村さんが休みが出来たので 関空からセブ、次ぎにセブ発スパーキャット〔連絡船)で11時にDumagettiに到着する。
向かえに行き食料を調達し再度バスに乗ってハイウェイを80km/hで走る。
ハイウェイといっても舗装をしてあるだけで 所々 穴が開いていたりするのは勿論だが、車だけの道ではなく
牛や犬や時々鶏までが道路を共有して走っている。
鶏はよっぽど避ける自身があるのか、バスのオッサンをおちょくっているのか、 アホなのか、バスが走って来る直前で
急に羽根を広げコケコケコケッコーと けたたましく鳴きながら羽根をばたつかせて逃げる。
バスの運転手のオッサンも 心得ていて
"よ〜し 今度は覚悟しとけ ひいたるど〜”
という感じで、スピードを全然落とさないので、素人の私はいつも鶏がケンタキーフライドチキンに
なっていないか、車が通った後を見る事になる。
バスは窓もドアーも全部開けてはしるので涼しいが車体のバネはきいていないのでデコボコの所は 30cmは
座席から放り上げられ天井に頭をぶつけそうになる。
1時間半程乗って Ciatonに到着、そこで上記ハブル(タクシーオートバイ)で山道を通って港に着く。
フィリッピンの交通機関(バス トライシクル ハブル 人力車 馬車等)は 慣れると、どこからでも乗れて どこでも
降りる事ができ、何でも乗せてくれるし 定員関係無しで、便利で親切で安くていいもんだ。
京都の市バスのように、清潔でもなく時間通り運行されるわけでもなく 時々 おばあちゃんを引きずり発進したり、
乗客無視通過サービスはしないけれど、こちらは人情味があって頼めばおしっこする間でも、止まって待っていてくれる。
実は 私は一度満員バスに乗ったまではよかったが途中でおしっこが漏れそうになり止まってもらって
道端で用を足したのだが その間誰一人文句言う人は無く、みんな笑って待っていてくれた。
バスに帰ると私の肩を叩いて
”よう 無事で帰ったな よかった よかった”
というような感じで兵士が無事帰還したような歓迎振りで恥ずかしかった。
港内で スペイン人の友人エンリケの船を発見する。
6年位前、我々が釜山港へ始めてクルージングに出かけたときそこにいて、帰り道、家村さんの船(Papalagi)について
大阪まで来て その後1年間くらい日本にいた後ガムへ向かって どこに行ったか分からなかったのが、
偶然発見したのである。御近所のヨッテイーに聞くと、来週辺りスペインから戻ってくるらしい。
このヨッテイーの世間は以外と狭いのである。
23日 Negros島の東側を30マイル程行ったBais湾にセーリングする。
ここも自然の湾内で係留するのには最高だ。
港を上がった所に唯一レストランがあり、夜はバンドが入って現地のお金持ちらしき中老年客が着飾って大勢やって来て
結構繁盛している。
そのバンドで タンゴや ジルバを上手に踊っている。
”テレビのドラマに出てくるフィリッピンのお金持ちは みんな あんな格好で あんな顔つきしててな、
貧乏人をいじめるという筋書きが多いねん。”
と、フィリピン通の家村さん
”家村さん 外の回りを見てみ。
お金払わず聞いている客の方が多いで。”
御近所の村人が大勢い音楽を聞きにやって来ているのだ。
何故か 私はこういうムードに弱く 自分達もその中に馴染めなくて何か割り切れない後味の悪い感じがして、船に戻って寝る。
フィリッピン人の好きな外国人ランク
フィリッピンは混血児が多く、テレビタレント等は特にスペイン人 アメリカ人 中国人との混血児が活躍している。
日本と違って、混血児に対する偏見はなく、かえって大事にされている様だ。
これはマゼラン来航以後の長い植民地支配とその後のアメリカ日本等の侵略の悲しい状況が続いた結果だろう。
しかし時と共に過去は過ぎ去り、結果 新しいもの支配された国順に人気がないようだ。
私の独断によると、一般的に フィリッピン人が外国人に好意を持っているのは、
第一位 スペイン人。 前述のボホール島でのサンジュエゴ祭はスペイン人のサンジュエゴとフィリッピン人の王様か
酋長かが義兄弟の契りを交わし、腕を切り血を交わしたという話で島を挙げての祭になっている。
第二位 アメリカ人。 第二次世界大戦の時フィリッピン軍と共に戦った。
嫌いな方の上位に 日本人という感じがする。
というのも 言うまでも無く第二次世界大戦の時代日本軍がフィリッピンへ侵略して来て、いくら口で大東亜共栄圏等と
大義を唱えていても 略奪 暴行 強奪がいたる所で行われたのは事実で、その時の事を知っている御年寄は私が
日本人というだけでも、嫌な顔をされる時がある。 その御年寄の話しは
”昔は日本人と聞いただけで みんなジャングルの奥地へ逃げ込んじゃもんじゃ。
今の若いフィリッピン人は股を広げて 駆け寄って行きよる。”
これは、にわかリッチ日本人とヤングレデイーフィリッピン人に対する未だに痛烈な批判で名言だ。
日本の場合 いつも誰も反対できないような大義名分を掲げ、これに反対意見を唱えよう物なら、袋叩きになるような所がある。
少数意見の方が正しい道だったり、新しい道だったりするので、何でも多数決というのは、民主主義ではなく愚集決定主義である。
単一民族といわれている日本でも実際はアイヌ等少数民族がいるが、ここフィリッピンは多民族で言葉も地域によって全然違っている。
この様な国での少数民族は民主主義は暴力以外の何物でもないのであって、条件の悪い僻地に追われ細々と生活している
有様である。
または ミンダナオのモロ族の様にゲリラ組織で体制側と戦う事になる。
28日 遊帆 UFO を係留している前のダイバーズショップのボスは台湾人 ママさんはミンダナオ島出身30歳前後だ。
なかなかいい組み合わせで、ボスは男気がありビサヤ語を少し話すが英語はあまり得意ではなさそうで難しい話は
中国語を使っている。、ママさんは中国語、英語も堪能でお金の事と商談は全部ママさんが取りしきっている。
今日、20m位の中古バンカーを買って 2艇をもち 船長 ダイブインストラクター その他総勢10人と1匹(タロウ)の大世帯だ。
その中のチーフインストラクターのエドウィンに、
”ボスとママさんと どっちが強い?” と聞く。
ママさんを指差し、片目をつむって笑っている。
”エドウイン、一ヶ月 給料いくらや?”
”3000ペソ 奥さんと子供一人、お金いつも無いね”
それでもみんないつも冗談をいいながら 笑って仕事をし、お客の無い日は船の整備やショップの修理やらしている。
勤勉日本人が 一般的フィリッピン人を見て
”あいつら ごろごろして遊んでばかりいてんな、仕事せえへんのやろか?”
という 声をよく聞くが、それじゃ エドウインのように 1日100ペソ(250円)と言われたら、
”あほらしい 誰が働くか”というだろう。
それでも 彼等は毎日笑って生きているのである。
そんな彼等が、顔を会わすと一緒に食事を食べて行けと誘ってくれるので、一日一回は食事を紛れ込んで食べさせてもらう。
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