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フィリッピンレポートNo.11 2001年3月11日〜7月4日
3月11日 関空よりセブ空港へ戻る
飛行機の中は相変わらずお客は少ない。
午後6時半、空港を出ると約20度位か、ちょうど良いくらいの湯加減じゃなくて空気加減だ。
この温度がええのや。これから毎日これだが暫らくすると暑い暑いと文句を言うのに決まってるが。
外に出ると、いつもの様に色んなオニイチャンが親切げに、
”一人か? ホテルは何処? 町までタクシー?観光? オンナ? マッサージ?”
と、まるで何でも屋御用聞の様に声をかけてくれる。
”ノー ノー。 ノー サンキューよ。 ジャ〜ネ、 バイ バイね”
と言いながら 振りきる。
空港のすぐ前のWater Flont
Hotelにチェックインだ。
夕食は近くの シンガポール料理屋RasaMarinaへ飛びこむ。
料理は 殆どフィリッピン料理と変わりが無かったが オネエチャンは全員シンガポールエアーラインの制服みたいな衣裳で
統一していて雰囲気はあるが味はまあまあと言った所だ。
鳥 豚 牛の串焼き6本にピーナッツ味の味噌和えのソースをつけて食べるの(Satay)と チキンカレーだが、ここのカレーは
ココナッツミルクを混ぜてあるので、私のチキンカレーの方がずっと旨い。
12日 ここのホテル料金が高いのでセブ市内のオスメニア通りにあるロイヤルペンションへ移る。
ここはWater Flont Hotelの半分までいかないし、部屋も悪くないし、買い物に便利な所だ。
昼食は、パウロのイタリアレストランに行き、ホームメイドパスタチーズソースと、ピザと、サンミゲルビールを注文する。
ビールのあてに 自家製のキノコとなすびとトマトなどのビネガー&オリーブオイル漬けを出してくれる。
セブ市内に来る大きな理由の一つが、ここの料理が目的なのだ。
腹1杯になって ホテルに帰り昼寝をする。
夜は、フィリッピン料理で簡単に済ます。
食後の散歩に ロータリーの北側にあるバーベキュー屋台通りを見学に行く。
おいしそうな臭いと煙がたちこめていて、客引きのオネエチャンがしきりに薦めてくれるがこっちは腹1杯で入らない。
早速 小さい子供のストリートチルドレンに捕まってしまったので数ペソを握らせる。
”マケルナヨ。ガンバレヨ。”
次ぎは道端で大きな鍋を置いているオバチャンに呼びとめられる。
”オバチャン ナカハ ナ〜ニ”
普通の卵より 大きめの蒸し卵を鍋から取り出してきて、説明してくれるが、タガログ語なのでさっぱり分からない。
これが ひょっとすると 噂の半分孵化した卵と違うかと思い、手をパタパタさせると笑って頷いている。
卵を割って 中から鳥の頭と羽根が出てきたら、チョット食べる気がせんなと買うのを思い止まる。
13日 下のコーヒーショップへ朝食を食べに降りると、日本のオヤジ旅行軍団6人と現地調達即席恋人カップルが、ハネムーン気分で
お食事中だ。
”だってよ〜。このこがよ〜。ねだるもんでさ〜。”
”おまえさ〜 このこさ〜。 日本へ連れていきなよ。”
(バッカモン、ほっかほっか弁当じゃあるまいし、そんな簡単にいくか。)
”ワタシ パパサン ダ〜イスキネ〜。”
とか何とか。皆さん一緒に反省会と今後のスケジュール打ち合わせ会議をしていらっしゃる。
(ふん、何が このこがだ。あんなハゲオヤジのどこがスキネ〜か。)
何かしら 気分悪くするのは、こちらは貧乏中年オヤジプータロー故か。
昼のスーパーキャットでタグビラランに行く。
17日 Dumagueteで久しぶりにインターネットカフェからEメールは受け取る事ができるが、返事は全部ローマ字ですることになる。
Homepageの 更新はできない。
円安の為 ペソとの交換レートは39.2に落ちてしまった。
ついこの間 エストラーダがフィリッピン大統領の座を追われる時には45まであったのに、この円下落はなんだ。
外国にいて 日本を見ると情報が少なく大きな情報しか伝わってこないのでかえって大筋が見えてくる。
日本経済の悪さは、世界の経済を悪い方向へ引っ張っているのは間違い無い。
それにしても 外国の様に政治のダイナミックな対応は感じられない。
市内の市場を見学して歩くと、中を5坪くらい小さく区切って 食堂やら雑貨屋、美容室などになっている。
売っているものも 殆ど同じでも 各自 商売が成り立っているのは 不思議だ。
美容室で ヘアーカットや 化粧を施しているのはよくみると 殆どがオカマチャンだ。
胸がペチャンコで、背が高いのと 少し骨っぽいのを 除けば、女と見間違える程だ。
女らしい仕草は勿論本当の女より ずーと女らしい。
何故か フィリッピンはオカマチャンが多いのは、男の仕事が少ないか キツイ仕事が多いからだろうか?
町の真ん中に大きな公園があり、日が暮れると、老若男女市民が 輪になって社交ダンスを踊っている。
勿論 無料で子供達もしきりに真似をしながら練習している。
何人かは、本物の先生カップルらしく見事なステップを踏んでいるので、暫し 見とれてしまった。
皆さん 夕涼みしながら 談笑しながらの、平和で穏やかな時間が流れている。
23日 船を泊めているBonbononの田舎にいて、今日は久しぶりにDumagueteの町まで、インターネットの接続と買い物に出かけてきた。
Bonbononでは、毎日何もない平和な日々を過ごしている。
予定では、4月始めに出港して、マレーシア カリマンタン島の北東にあるコタキナバルに行く予定だ。
距離は590マイルほど、今の季節風が北東の風なので絶好で、セーリングだけで5日程と考えている。
マレーシアではビザ無しで1ヶ月は、許可されるそうなので、1〜2ヶ月程 クルージングして、良い繋留場所がなければ
Bonbononへ再度戻る予定だ。 その時は 南西風に変わっているので帰りも楽になるだろう。
この次の日に コンピュータが故障してしまって HPの更新は勿論できないし メールも届かなくなってしまった。
3月25日から7月4日までに メールを送って戴いた人はお手数ながら再度
ufoboat@attglobal.net まで送ってください。
皆様の登録していたメールアドレスも消失してしまいましたので 再度送ってください。
従って これ以後は記憶を頼りに書く事になるが 今日の日付さえ分からない状態なので日付はいい加減になる。
28日頃 もうすぐ 満月で 夜は明るいし 風向きは絶好 波もあまりないので さて マレーシアに向けて出発しようと点検にかかる。
エンジンも調子が良いし、次は ドライブを降ろして前進スタートする。
ドカン! バキン!という嫌な音がした。
ドライブを見ると なんと 又 プロペラをサポートしているアルミの鋳物が割れている。
”もう 畜生 腹立つ ボロメーカーめ!!”
と さんざん 悪態をついても 後の祭り。
”あ〜あ これで 又 又 出発中止や。”
次の日 エンリケに 部品の輸入について相談する。
”フィリッピンへ 物を送るのに DHL FEDEX などは関税が50%位かかってあかん。 僕がDumagueteにP。O。BOXを
持ってるから そこへ郵便航空貨物で送ったら関税掛からんで”
エンリケの話しはいい加減なところがあるが、持つべきものは Good Friendだ。
早速 インターネットカフェから イギリスのシレット社に部品を発注する。
その後 壊れた部分をハズすのに 向かいのビーチに遊帆UFOを揚げる。カタマランだから どこでも簡単に陸に揚げられるけれど、
モノハルなら大変な事になる。
10日後位 郵便局に行くと 結構大きな荷物が届いている。
エンリケの話しの通り 1ペソも取られずに受け取る。
Bonbononに帰ると、ヨッテイ−達が
”どうや うまくいったか?”
と尋ねられる。
”エンリケのお陰で 1ペソも関税かからんかったで ”
その後 到着した部品を組みなおすが、新しい部品がサイズが少し違ってベアリングが入らない。
”畜生 クソ 腹立つ ボロメーカーめ なんで 点検して送ってこんのや。 日本のメーカ−やったら こんなこと絶対ないで”
と、 アイルランド人のロンに悪態を言う。
”メイド イン イングランドは こんなもや。 僕のエンジンはここ1年かからへん。”
私は アイルランドとイギリスは仲が悪いのを忘れていたので 火に油を注いだように イギリスの政治の文句を言い始めたのには、
閉口してしまった。
それでも 方法がないのでベアリングの外側をペーパーでこする事 約3時間やっとの事で修理を終える。
このドライブのアルミ鋳物は古い所が順番に割れていくので、次はベース部分だろう。
1ヶ月程たって 5月になって もう マレーシアに向かうには 風向きが変わり始めてきたので、フェリーで サンダカン(マレーシア)へ行く事にした。
私は 冷蔵庫無しの生活なので、野菜類は その日使うもの以外は全てキムチにして保存し、料理にそれを使うのだが、
横のアメリカ人夫婦のビルとダイアンは キムチが好きで作り方を教えてくれという。
お安い御用だと早速 白菜 葱 大根 ショウガ ニンニク 唐辛子 等を仕入れてビルの船で一緒に作る。
その間 ダイアンは手作りパンを出してくれる。
”ダイアン パンの作り方を教えてか?”
”簡単よ。私の自慢のオーブンはこれよ”
と、コールマンの組み立て式オーブンを見せてくれる。
”なるほど これがあれば カセット式コンロでもパンは焼けるし グラタンにピザがでけるな”
今度 どこかで手に入れよう。
その間に ラー3世 金田夫妻 暖流Rikimaru 横山リッキーさんが Bonbononに入港 。
ここBonbononは25隻程アンカーリングしている内 ホロホロ3と遊帆UFOとで4隻が日本の船がいるという状態になった。
今までは 日本語はマイナーだったのが、俄然 メジャーな言葉になってしまった。
エンリケは 日本軍に占領されたと憎まれ口をたたくし 一人者のジェリーは我軍の占領地域テーブルから少し離れて寂しそうに座っている。
と、いうような有様で、もっと 日本の船が入航すれば面白いのだが。
5月6日 ネグロス デュマグエッテイからマレーシア サンダカン行き、 Alison Shippingのフェリーに 午後5時乗船。
この船は中古船で、小豆島あきつ丸がLadiy Mary Joy2と名前を変えて運行しているので あちらこちらに日本語表示がされている。
午後10時 ミンダナオのDapitan入港 翌日 午後3時40分 Zamboanga入港。
同日 サンダカンへ出港予定がキャンセル 2日後に出港となった。
乗船中 操船ブリッジを 見学し海図を見て 位置を確認していると、フィリッピン人の船長が
”君も船をもっているのか。それで この辺をチェックにきたのか。 自分は 5年間 日本人船長の元で日本各地へ行った。
日本人船長は英語が話せないから いつも船長室で酒を飲んでたね。そのうち給料が高いから 韓国人船長に代わったよ”
と、懐かしそうに話してくれた。
予定外スケジュール変更の為、Zamboangaの町を見学できる事になった。
町は、やはり ちょっと雰囲気が違って、モスリム信者が多く、頭にはベールを被った女の人が多い。
”暑くないか?”
”これは かえって涼しいのよ”
”女の子は 何歳からつけ始めるの?”
”人により それぞれ違うけど 早い子は小学生から着るよ”
ハンバーガー屋へ行っても必ず 豚肉は問題ないか?と聞かれるので、無宗教の私は
”豚でも牛でもトカゲでも蛙でも何でもOKよ”
と、まるで 中国人のように答える。
10日 午前12時 乗船。
同じ船 同じ船長&スタッフとワッチしながら マレーシア サンダカンへ次の日午前10時頃入港する。
大きな船の為 岸壁20m位の所で 停船し そこからは もやいを放り投げて 巻き上げ機でゆっくり岸壁につけていく。
バウスラスターもついていて これやったら遊帆UFOより 楽だ。
ゆっくり 支度して 入国手続きをするが、入管の職員が少なく、ゆっくり やるのに加えて 割り込みが多く、3時間列に並んで
やっとマレーシア第一歩を踏む。
まずは 両替のお兄ちゃん達が寄ってくる。
周りの人に聞くと結構正直に商売しているらしいが、交換レートが分からないので、念の為 少しだけ換金する。
次は 腹ごしらえに屋台でマレーシア料理をつくっている一番太ったオバチャンの店に飛び込む。
蟹のテンプラ風 イカ墨煮 野菜炒め 等をとって食べるが、これまた ウマイ!
これからが 楽しみだが、物価はフィリピンの2〜3倍の感じがする。
特に フィリッピンのサンミゲルビールと違ってここのビールは日本並価格だ。
マレーシアはイスラム教が国教だから酒は禁止なのだ。
しかし、高くても売られているのは、まだ ましで お隣のブルネイへ行けば売っていないそうだ。
それで 市場で怪しげな葉っぱと木の実を売っていて オバチャンが口の中を黒くしたり赤くしたりしながら
ガムのようにクチャクチャとしがんでは ペッと吐き出している。
一種の酩酊状態になれるものを売っている。
イスラム教で酒を禁止されても 人間は知恵を働かして酒に代わるものをちゃんと発見するものだと感心する。
イスラムの神様も人間がこんなに知恵があるのを知らなかったのだろう。
未だ、イスラム教に馴染がないので 教義内容は分からないが、表面だけ目にしたり耳で聞いたりしたところでは、
一般生活のこまごました所に約束、禁止事項があって不便な宗教に思えるのは 私が無宗教で神様嫌いのせいだろう。
豚肉を食べるのは禁止等 どこからこんな発想がでてきたのだろうか?
マホメットは偏食家で、一度豚肉を食べてひどい腹痛を起こしたかなにかだろう。
また 女性と男性を区別&差別?しているように思うのは私だけだろうか?
女性は、結婚する相手の男性以外は 肌を見せられないし 結婚してからも夫婦関係で女性が拒否すると正当な離婚理由に
なるような事をマレーシアの新聞に書いてあった。
それでも 全世界の多くの人々が信じているのだから、何かいい所があるのだろう。
また マレーシアの新聞に 家を建てるときは礼拝室がなければならないようなことが書いてあった。
私のような神様嫌いは広い世界ではマイナーな存在なのだ。
11日 サンダカンから バスに乗って コタキナバルへ 向かう。
バスは大きく座席も幅があり トイレも着いていて 冷房も効いて おまけにビデオまで放映してくれる。
昼食の為にコタキナバル山(高度 約4000m)の麓の町 Ranau(高度約1000m)町の インド人経営モスリムレストランに止まる。
インド系の顔をしたオニイチャンが 薄いパン(多分 ナン)を焼いている。
娘さんらしき女の子が注文を取りにくるがサッパリ英語が通じない。オジイチャンが少し英語ができるだけだ。
皆さん ぞろぞろと降りて 適当に昼食を注文しているので、人のを見ながら例の指差し注文方式を採用して食べる。
英語は フィリッピンのように 一般的でないため なかなか通じない。
私は ゆっくりと食べてトイレに行っていると バスが私を置いてけぼりにして出発してしまった。
レストランの主人は 指差してこちらの近道を走って バスを捕まえろ、と教えてくれる。
必死に走って やっとバスを捕まえる。
”ちょっと ニイチャン よう確認してから 出発してや”
と言おうと思ったら、ここで 運転手&助手は全員入れ替わっているのだ。
そんな ちょっとした失敗などあったが、バスから見る景色は素晴らしい。美しい山だ。
12日 コタキナバルの町、朝 6時 魚市場へ行くと フィリッピンと違って 魚貝類が種類が多く、新鮮なものが揃っている。
これは 漁法に差があるのだろう。市場の2階へあがって 屋台の朝食(マレーシア風やきそば Mee Goren)を食べるがウマイ。
エンリケ & ジェり−と 私の 船外機部品を買いに町へ行く。
マレーシアはフィリッピンと違って、小型の船は殆ど船外機を着け 高速で走っている。
その為 各メーカーの代理店があり 部品は殆ど手に入る。
ついでに ヨットハーバーも見学するが、ここは上品で良すぎて私には合わない。
マレーシアは広東人が多く 小さな中国レストランはあっさり味で日本人向きだ。
13日 早朝 町の道路を歩行者天国にしたかと思うとたちまちのうちに 屋台が並び始めいろんなものが並び珍しいものがあり面白い。
食材 日用品 薬 布 服 CD おもちゃ 亀 ウサギ 植木等 ないものは無い位になんでもある。
マレーシアは多民族 多言語だが 広東人が目立っている。
私の弟分のような 氾さんも最近香港からマレーシアへ引越したらしい。
多分 どこかで出会うだろう。
14日 来た道を逆コースでサンダカンへ向かう。
キナバル山の麓から 日本人青年が一人バスに乗り込んできた。
袖をすりあうも何かの縁と思い声をかける。
東京から 会社の休みを利用してキナバル山登山をしてきて 今からPoling温泉に行くのだという。
それだったら 私も一緒に行くかと予定変更する。
Poling温泉はRanauでおりて バスで行くのだが、ここは日本軍が侵攻してきて温泉を見つけて設備をつくったそうだ。
こんな所まで 戦線を伸ばして一体どうするつもりだったのだろうか?
日本軍は現地調達主義で 紙切れの軍券で殆ど略奪同然で、補給路線等 考えず前進あるのみだったのだろう。
しかし、まさか 温泉を見つけにはるばる日本からきたのではないだろう。
軍隊組織では 各自思考能力は働かず命令に服従するだけでただ前進してきたのだろうか?
日本人は集団で行動しトップの命令を実行するのは得意だが、臨機応変に対応しなければならない戦争等は不向きだろう。、
と、その当時の事を想像しながら 貯め湯式温泉につかる。
余り 長く居過ぎてバスが少なくなくなってきた。
彼は飛行機のスケジュールの都合上どうしてもコタキナバルに帰らなければならないそうだ。
とりあえず ボロボロのバスがコタキナバルへ行くというのでそれに乗って行った。
短い間の 一緒の旅行だったが気持ちのいい青年だった。
私はというと 急ぐ旅でもないのでRanauの町で一泊する事にした。
15日 サンダカンの両替店で円を交換すると、店の親父が目の前で数えて見せて渡してくれる。
受け取って 今度は私が親父の目の前で再度数えて見せると中に1枚500リンギット紙幣が感じか違う。
”親父 この札はなんや?”
”新札や”
”そうか。 お〜い ポリス。”と外に向かって喚く。
”待て待て その札 交換するからこっちへ渡せ”
”こら 親父 なめたらあかんで。 こちとら 経験豊富やさかい そこらの俄か旅行者のようにはいかんで”
全く 店構えはよくても油断できない。
次の日位 懐かしいLady Mary Joy2が桟橋で待っていてくれる。
上陸 第一歩で食べた屋台の一番太ったオバちゃんの店に再度いく。
船内で食べる夕食を買いこむ。
オバちゃんは 注文しないものまでサービスだといって色々といれてくれる。
オバちゃんの心温まるお弁当を持って 船に乗りこむ。
ブリッジに上がると、船長が
”どうやった。 マレーシアは?”
”町と自然は 綺麗やけれど 人懐っこさはフィリッピンの方がええな。
それにしても 今日は沢山の乗客やな。会社からボーナス貰えるのと違うか?”
”いやいや 乗客は200人程で、あとの500人位はお客と違う。マレーシアにいるフィリッピン人不法滞在者の強制送還や”
おじいちゃん や おばあちゃん 子供も沢山いる。
若いお姉ちゃんが乗ってくるとみんなで拍手している。
不法という後ろめたさはあまり感じられない。
船員も重い荷物は運んでやっている。
マレーシアは最近不法滞在者摘発キャンペーン中のようで 警察官が市内をパトロールして道行く人にパスポートの提示を求めるのに
私も出くわした。
フィリッピンとマレーシアの国境線は海亀の生息地で美しい島々(タートルアイランド)が連なっていて小さなバンカーボートで
行き来可能だ。
今 人質拉致&アメリカ人の首切り事件で世界のマスコミに売りだし中のアブサヤもこの国境線の諸島を根城にしているらしい。
この辺りは、フィリッピンでも一番危険地帯なのだ。
フィリッピンは全人口の90%はカソリック教で、南のミンダナオ島とこの辺りのモロ諸島はモスリムが多いが、フィリッピン全人口の
10%にも満たない。
ということは 民主主義の制度は正常には機能しなくて、長年この地方の人々は貧しい生活を甘んじてきたようだ。
次の日の朝 Zanboangaに到着。 ここで Lady Mary Joy2は又 Dumagueteに行かず Sandakanへ戻るのだという。
全く スケジュール等あってないが如く 気ままな定期船だ。
一泊して 他の船でDumagueteに戻る。
港に到着すると 女子供たちが泳いだり 小さな小船に乗って船に近寄ってくる。
下から お金を海へ放り込めと言っている。
お金が放り込まれると すばやく海に飛び込みコインを掴んで浮き上がってくる。
子供は10歳いかない位だが ほとんどコインを掴んであがってくる。
日本人の尻尾がまだついている私は この光景を見て複雑な思いになってしまう。
一体 どのように咀嚼すればよいのだろうか?
ただ 彼女&子供達フィリッピン人の底抜けの笑顔が救いだった。
6月の或日 ニ−ルのガールフレンドのビクトリアの両親が ハワイに帰るというので、パーテイに招待された。
ニ−ルもビクトリアの両親に一度も会った事がなかったので是非この機会に会いたいと財布をはたいて
子豚の丸焼きをプレゼントしたらしく、テーブルの中央に、こんがりと火焼けしてグラマーで真っ裸姿で寝転ばっていた。
いつものように、皿をもって 火焼けしてこんがりとあめ色になった子豚チャンに舌なめずりをしながらナイフを入れて食べる。
これが中々美味なのだ。
同じ簡単な料理方なのに どうして味の差があるのか不思議だ。
親戚だけのパーテイでも30人位はあつまっている。
ビクトリアのオジイチャンは、90才以上で、オバアチャンは去年なくなったそうだ。
何組かの子供夫婦家族が 同じ敷地内にいるのでオジイチャンの面倒を見ているようだ。
日本と違って オジイチャンを盥回はしないようだ。
腹もふくれてきたので カラオケ大会となった。
オジイチャンが マイクを持って私に来いと言う。
オジイチャンは日本の歌を突然伴奏無しで歌い出した。
”アナ〜タ ト ヨベ〜バ
アナ〜タ ト コタ〜エル
ヤマノ コダマ〜ノ ウレ〜シサヨ”
この フレーズだけ覚えていて、約55年ぶりに日本語をしゃべったというか、歌ったのである。
勿論 ビクトリア以下 親戚一同オジイチャンが日本語を覚えているのを知らず唖然としていた。
もう オジイチャンとこのフレーズだけ合唱を何回しただろう。
この時 私は 次に続くフレーズをどうしても思い出せなかったのが残念だった。
”あな〜た”
”な〜んだい”
”??????〜?”
”ふたりは わかい”
とか なんとか だったと思う。
後で ニ−ルの話しによると、オジイチャンは戦争中ボホールの日本軍が作った臨時政府のガードマンか何かしていたらしい。
その為 終戦時 周りのフィリッピン人から攻撃されジャングルの中を逃げ回ったそうだ。
誰もが不幸な時代だったのだ。
今 こうして アメリカ人ニ−ルと日本人の私と55年程前へ、タイムスリップして、この地で会っていたら、逃げるかピストルの
打ち合いをしなければならなかったろう。
一緒に ビールを飲みメシを食って笑って寝ること等できなかったろう。
あらためて 平和な時代に感謝。感謝。
6月の或日 一時帰国中のラー3世の金田夫妻がセブに到着。
私は台風非難の為 タグビララン港の奥に遊帆UFOをまわしていたので、スーパーキャットで来てここから一緒に
ボンボノンへ帰ることにした。
途中 日も暮れてきたので ネグロス島のダーウィンにあるリゾート、エルドラドのブイをとり 食事だけ食べに行く。
近くの村が バカに賑やかなので見学に行く。
私の好きなというか好かれるというか、ミスター ゲイ コンテストが行われていた。
各 近くのバランガイ(村)代表ゲイで もっとも女らしい人に100ペソ賞金 二等に50ペソ賞金が貰えるらしく、それなりに
衣装をつけ 厚化粧をして 香水を振り掛け 五人ほどが出場している。
その中の二人はオジイチャンで 見るからに化け物ゲイだが、一人は 帽子のかわりに 使用済みカップラーメンをかぶっている始末だ。
司会のオネエサンが 日本人の私を見つけてマイクで紹介し、ゲイ達に何でも質問してくれという。
”ドンナタイプの男が好きね〜?”
と 聞くと 化け物ゲイがさっと手を上げ 私を指差してくれる。
つかつかと前にきて ほっぺたにキスをせいとおっしゃる。
私も もうやけくそ なんでもええか とあきらめてキスして抱擁してやる。
化け物ゲイは 体を震わせ 腰を振り振り帰っていくので観衆からやんやの喝采を受ける。
しかしながら 私がキスしたこの化け物ゲイは さすがに1等にはならなかったが、りっぱなエンターテナーだった。
前回 村人全員地引網漁の事を書いたが この村の人達だったのだ。
貧しくても、どこか遊びを持つ余裕があり 底抜けに明るく 人に優しい村人達なのだ。
7月4日 帰国の為、セブ空港へ朝7時に行くと、成田と関空行きが殆ど同じ時間帯で、乗客の殆どが日本人だ。
久しぶりに見る若い日本人オネエチャンは、どこか病的な感じがする。
ダイエットのせいかヒョロヒョロと痩せていて、肌が白く 厚化粧をして目の回りはパンダの様に隈取があり、
唇は黒いルージュを塗っているので 何か肝臓でも悪いように見える。
それに加えて話し方が気に入らない。
”エ、 エ、 ウッソ〜 マジ〜 シンジラレナ〜イ”
仲間内では、この数少ない語彙と キャハ、ハ、ハのバカ笑い声で 殆ど意味は通じているらしい。
”バッカモン。 おまえの頭の中身こそ シンジラレナ〜イだ。”
こちらプータローオヤジとしては、後ろから 頭でもはたいてやりたくなってくる。
いつも 帰国して暫くは 頭の中はフィリッピンモードになっているので、うどん屋に入っても円をペソに換算してしまう。
そうすると、1杯のうどんが フィリッピンの1日分で おしながきを見て食べられなくなってしまう。
喫茶店へ行ってコーヒー等とんでもない、という感じだ。
自分も、こんなに物価の高い国に住んで生活していたのをあらためて実感&痛感し 私はえらい人だったのだなと思ったりする。
日本ではお金が財布の中から さっさと飛んで行く。
こういう時こそ オネエチャンの言葉がぴったしだ。
”エ、 エ、 ウッソ〜 マジ〜 シンジラレナ〜イ”
こんな オヤジの様変わりを見て、娘に
”オトウもケチになったな〜”
等と、なじられながらも耐え忍ぶ日々を過ごさなければならない。
あ〜あ、 あれやこれやで、しばらくは又 ストレスが溜まりそうだ。
ミザル キカザル イワザル シンダフリ と。。。
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