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31番 カンボジア旅行記
9月5日 プ〜タロウ またまた旅立ちの日である。
今回、京都から関西空港へ行くのに、タクシーのミニバスを利用した。
一人3000円で、基本的に家の前まで迎えに来て、関西空港の出国フロアーまで
行ってくれる。
お客は 私以外は三人の女性グループだけである。
運転手さんに
”高速代だけでいくらかかります?”
と、聞くと、往復7000円程だそうだ。
私には便利だが、なかなか 厳しい商売のようである。
50分程で釜山へ到着すると、いつもの様に 釜山ヨットハーバーへ行く。
ノミ3は、問題無しである。
チョンさんの奥さんから、今 ボンボノンにいるIssacの近況情報を聞くと、
Issacの奥さんが、ホームシックにかかっていて、韓国に戻りたいとの事らしい。
私もそうだが、あまり長く同じ場所にいすぎると、そのような気持ちになる。
ヨッテイーは、どうしようもない浮き草プ〜タロウであるのは間違い無いのである。
6日 釜山でインターネット電話をテストしに行く。
個人のコンピュータが普及している日本ではインターネットカフェはなかなか見つけられないが、
海外ではどこにでもあるのである。
今回日本出発前にインターネット電話の追加サービスを頼んできた。
早速接続して、家に電話してみる。
国際電話番号を使用しないといけないのではないかと考えていたら、なんと、日本国内電話と
同じ番号でかかるのである。
これはグードだ。
これからはマイクロフォンとイアフォンのセットを持って行けば国際通話が格安でできるのである。
今回、もう一つテストするのは、ホームページ転送フリーウェアーソフト(FFFTP)で、
インターネットカフェからアップロードする事である。
今まで AT&Tブロバイザーと契約して、現地国のアクセスポイントに接続してアップロード
していたのである。
この方法だと、同一国で長期間使用すると、現地でもう一つ現地国アカウントを取るように
クレームがくるのである。
また、電話回線が必要な為高級ホテルに泊まらなければならないが、私の場合そんな事は
めったに無いのである。
フロッピーデイスクに転送ソフトと更新ファイルを落としてインターネットカフェへ行けば良いのである。
これで、世界中インターネットカフェさえあればOKである。
8日 Incheon国際空港からBangkokまで6時間ほどで到着である。
タイ航空もお客は少なく、座席に横になっての寝台席に変えて楽な旅となった。
空港から出て、市内リムジンバスで適当な所で降りる。
その適当な所とは、ラーチャダムリ通りというそうでワールドトレードセンターがある。
いつもの様に、勘と運だけが頼りの旅だから、出たとこ勝負であるが RoseHouseという
コジンマリとした清潔なホテル(490バーツ約1500円/日)を見つけて取り合えず泊まる。
Bangkokの通りは狭い道の両側に屋台を出し色んな物を売っている。
人とすれ違い、ぶつかりながら、跳ね飛ばされないように歩いて行くのである。
こんなに混雑した通りをざるに饅頭のようなものを持って歩きながら売っている人々もいて
大変なエネルギーに圧倒されるのである。
早速屋台のタイラーメンを食べに行く。
9日 カンボジヤの大使館がホテルから歩いて行ける所にあったので、自分でViza申請に行く。
観光Viza3ヶ月間1000バーツで、その日の内に発給してくれる。
ついでに、大使館職員にヨットの入国はOKか否か聞くと、まず ダメであるとの事である。
次に、近くにベトナム大使館もあるので、こちらも様子を聞きに行くが、ベトナムは個人の船
(ヨット)での入国禁止ですとの事である。
両国ともヨットでの入国を拒否されがっかりで、陸地からの入国も興味を失ってしまった。
この辺りの海域で、行ける所は フィリッピン、マレーシアとタイだけで、ミャンマー インドネシア
カンボジヤ ベトナム 中国は全て難しいと言う事である。
広い海を狭い海に変える国のエゴに腹立つばかりである。
ホテルに帰る道にそごう百貨店があるので寄ってみる。
残念ながらというか、当然というかお客より従業員の数の方が多い。
私の親友がそごうに大半の人生をささげて働いてきたので、よその百貨店より気になるのである。
私が気にしても始まらないが、一時は多店舗展開でこの業界のトップに踊り出ようかという勢いだったのに、
今は見る影も無い。
その会社に働いている親友は、勿論個人の力でどうしようもない。
荒れた海で大嵐に会い、転覆を繰り返した船の中にいるようなものだ。
そごうの横に小さい広場があり、寺院になっているのか、熱心な信者が供え物を持って地べたに
平伏して拝んでいる。
建物の中では、若い女性が民族衣装を着て、笛と太鼓に合わせて踊っている。
タイは町の喧騒の中に、この様に忽然と時間を超越したような不思議な世界があるが、そう感じるのは、
私が無宗教日本人だからで、タイ人にとっては、日常信仰の当たり前の事なのだろう。
そごうの入り口の広場にあるお寺
10日 バンコックの北バスターミナルまでタクシーで20分120バーツ(360円)、バンコックから
Aranyaprathet国境の町まで、バスで5時間140バーツ(420円)、ここからカンボジヤ国境側
の町(Poi Pet)まで、バイクで5分40バーツ(120円)、Poi PetからSiemReapまでマイクロバスで
7時間490バーツ(1500円)で到着である。
国境ははっきりとした境界線はなく、人々は旅行者以外は、行ったり来たりしている。
カンボジアに入国すると、地雷で足や手を無くした人々、ストリートチルドレンが多く集まってくる。
内戦の傷跡が未だ生々しく残っている。
バンコックから国境まで300Kmと国境からSiemReapの町までは150Kmと距離は、半分でも時間は
1.5倍もかかるのである。
道は全く舗装がされていないし、2m間隔で凸凹がありスピードを出す事ができない。
橋は、大きな穴が開いている所を鉄板を架けて、そこを踏み外さない様に行く。
おまけに、雨の為道はぬかるんで、何度も泥に捕まりそうになる。
運転手も必死にアクセルを踏み、摩擦の為タイヤから煙が出てゴムの焼ける臭いが立ちこめる。
乗客も、ぬかるみを抜け出る度に歓声と拍手をして、時間がたつにつれて運命共同体的連帯感が
生まれてくるのである。
日本道路公団も日本では解体してカンボジアで公共奉仕活動をやってもう一度基本から
やりなおしてみたらどうだろう?
山田長政以来のグッドニュースになり、イメージも変わるのと違うかな。
既に日本道路公団には海外で競争できる何物さえ残っていない状態かもしれないが。。
途中何度か停止して、トイレに行く所があるが、子供達がバケツに飲み物を入れて売りにくる。
”コーラ? ビール? ジュース?”
”コーラ、いくら?”
”40バーツ”
”高いな〜。”
”20バーツにまけとく。”
子供の時から、これでは将来どうなることやら大変である。
カンボジヤの第一印象は、
フィリッピンよりも貧しいのではないか?
見渡す限り平地で行けども行けども同じ田園風景で、山が見えない。
カンボジアの貨幣リエールより、US$ 次に タイバーツの方が信頼されている。
という3つの事である。
ゲストハウスは1泊US$5(600円)で、部屋は大きくベッドも大きく2つありシャワーも完備、
インターネットまであるのである。
夕食を終わるとカンボジア時間で午後11時、日本では日付が変わって午前1時(2時間早い)である。
今日は、1日中バスで揺られっぱなしで、体中痛い。
カンボジヤ初日なかなか厳しい日だった。
泥んこ道を行くバス
11日 朝6時、Siem Reapの町を散歩する。
お寺に読経の声が聞こえてくるが、イスラムのお経と違って、どこか聞いたような節である。
無宗教の私は仏教の事もよく知らないが、タイ カンボジヤの仏教は小乗仏教である。
お寺の中は、勿論お坊さんが住んでいるが、一般の人々も一緒に住んでいるようである。
又、お寺が学校になっているらしく、大勢の学生が朝早くから勉強している。
ベンチに座っている少女3人がいた。
”君達はいくつ?”
”13歳です。”
英語を勉強しているのか、うまく話す。
けれど、3人とも体が小さく小学生低学年にしか見えない。
日本は葬式仏教になってしまったが、ここのお寺は、庶民の生活に密着しているようである。
朝飯に、レストランで牛スネ肉のピリカラスープにフランスパンを食べていると、
子供のお坊さん2人が托鉢に来た。
レストランの入り口でじっとたったままで、一体どうなるか興味をもってみていると、店の
オーナーがお金をお布施にして
靴を脱いで丁寧にお辞儀しているが、お坊さんの方は、
簡単にお経らしきものを唱えて、さっさといってしまう。
なるほど、お坊さんにしてみれば、慈悲の心を目覚ましてやったという事のようだ。
私は、チップを払うのも、ストリートチルドレンにお金をあげるのも、どこか心の奥に
引っかかるものがあり苦手であるが、お金をあげるのではなく、あげさせてもらうという様に
心を切り替える事ができればもっと心のストレスは無くなるに違いない。
SiemReapのお寺 朝のお勤めの後の朝食
托鉢に来た小坊主 小学生にしか見えない少女
カンボジアに来て、アンコールワットを見ないと何をしに行ってきたか?と言われるので行く事にする。
レストランのオーナーがくれたガイドブックによると、”Angkor”とは首都 或いは
聖なる町というような意味らしい。
AC9〜12世紀、クメール王朝期が栄えていた時期だそうである。
世界文化遺産に指定されていながら、近くで中を見ると荒廃の酷さに驚く。
入場料はUS$20/日 で結構割高だが、修復資金に使われるのなら、納得できる。
内戦の時、殆どの仏像の首は切られたり、削り取られたりしている。
素材が砂岩のようなので柔らかく崩れやすいのだろう。
長い間の風雨と高温多湿に傷みが激しく所々に苔が生えているのである。
仏像の姿はどこか女性を感じさせ肉感的でインドヒンズー教の影響を感じるのである。
昨日、カンボジアの平坦さに驚いたが、アンコールワットは、大きな人口池が前面にあり
町の繁栄に大きな役割をはたしていたようである。
これだけ平坦な土地であれば、貯め池の効果はいうまでもないだろう。
門の前に立っている獅子の顔と姿は沖縄のシーサー(?だったか)にそっくりで、文化の
繋がりを感じるのである。
アンコールワットの内部は急な石段(勾配角度約60度以上)を這う様に上って行かなくてはならない。
壁面と天井にも仏像やら文様がほどこされている。
ふと、昔は一体トイレは如何処理していたのか心配になって、あちらこちらにトイレの穴らしきものを
探してみたが見つからない。
考え悩んだ結果、壷の中に事を済ました後持ち出して処理したのに違いないという事に思い至ったのである。
フランスの宮殿では、庭の木影で用を足したりした為ひどい臭いだったそうで、あるいは宮殿の窓から
したものを投げたというような事をテレビで見たような気がする。
今の日本で考えるなら10階建てのビルにトイレが無い場合どうするかという事を考えているのと同じである。
下水設備完備の日本ではこんな事を考える必要もないだろうが、水が不足するか電気が切れれば、
ビルにトイレが無いのと 同じ状態になるのである。
地震が起こればこのような状態になるが、文明の発達した国民程、ひ弱になっているのではいだろうか?
”トイレは水洗でなくちゃできな〜い。”
なんて事をいっていると、
”生きてなんか行けな〜い。”
てなことに成りかねないのである。
アンコールワット正面入り口 北側 肉感的神様
首を切り落とされた仏像 崩れかけ顔のBayon遺跡
13日 オールドマーケットという町の中心部を覗きに行く。
宝石が沢山おいてある。
”ルビー、お土産にどう?”
”私は、宝石は本物か偽物か分からないよ。”
こちらの 言う事はおかまいなしで、どんどんとルビーを並べて、器具を出して見分け方と
重さを教えてくれる。
一番大きそうなのを3個選んで、いくらか聞いてみる。
”US$160”
こちらは、値段なんて分からないので半分で押し切ってみると、OKになるのである。
15年位前、未だ開放前の中国で仕事をしに行っていたが、その時の状態とよく似ている。
外部からの情報が入らないのと、共産主義で市場原理が働かない為、原価計算が出来ないので
価格決定が困難なのだ。
その為何でも他国と比べて価格を交渉すると言う状態であった。
いいように言うとこうなるが、悪い様にいうと、とりあえず高めに言ってみてうまく行けば儲けモンと
いう商売である。
とても安かったり時々とんでもなく高かったりするのである。
カンボジアにいると何か心が休まる気がしないので、ベトナムも行く気がしなくなってしまった。
同じコースをバンコックまで戻る事にしたのである。
途中、ついに バスが道路の穴に捕まってしまった。
狭い道を塞いでしまったので、勿論その他の車も交通遮断だ。
カンボジアの人々は、じゃ、昼飯にでもするか。という感じで、車の上やら田んぼの畦道で何かを
食べている。
自転車に乗ってアイスクリーム屋もやって来る。
そのうち動くだろうと簡単に思っていた我々旅行者達は、段々と深刻な状況に戸惑いを見せ始める。
男はみんなで、押そうという事で泥の中を頑張るが動かない。
そのうち反対方向から、同じ会社のバスがやってきたので、そちらに乗り換えである。
バンコックに戻ると、何かホットするのであった。
カンボジアでは、他の国より多く日本の若者にあった。
大抵2〜5人グループで自分達の旅行をしている。
ヨーロッパ、アメリカ系バックパッカーが多い中、日本の若者も、なかなかやるやないかという
思いがして嬉しかった。
が、仲間だけで会話をして他人としゃべろうとしないし、会話のない時は無表情におとなしくして
いるだけである。
せっかく、知らぬ国に来たのだし、周りは色んな国の人がいるのだから、もう少し心を開いて
語りかけるべきである。
”どっから来た? 何処がよかったか?”
など情報は何でも仕入れる方がよい。
じっと、おとなしく無表情で目は半分死んでいるようではもったいないではないか。
勿論、言葉の壁の為に遠慮しているのかもしれないが、言葉は道具でありしゃべれないからといって、
バカではないのだから、どうどうと、こちらから日本語をぶつけてもよいと思う。
ボンボノンで会ったトリマランヨットに乗ったフランス人ヨッテイーは、年齢は60才以上と思うが、
英語は分からず、何でもフランス語で しゃべっていたが、それでも何だか分かったような
気持ちになるものである。
私は、心が通じるのは言葉だけではなく、態度、表情 雰囲気なども重要な要素であると思っている。
このトラックの横をバスが通る 泥に捕まる我々のバス Siemreapの町で見かけた唯一の信号
14日 カオサン通りの裏のマーケットの屋台に朝食を食べに行く。
豆腐にニッキ&生姜の黒砂糖蜜をかけたものにカリントウが入ったものを食べる。
タイでも沢山のお坊さんが托鉢をしている。
ここでは、黄色の袈裟を着て大きな托鉢鉢を首からぶら下げたお坊さんと、周りで色々とする
介添え役(こちらは普通の服)とが、セットで町のあちらこちらにいる。
人々は、マーケットで売っている食料を買ってはお布施をするが、ここでも人々は履物を脱ぎ
拝みながらお布施をするのである。
一方、お坊さんは受け取ると簡単なお経をあげて介添え役の人にお布施を渡してまたじっと
立ってるだけである。
人々は1日善行をしたすがすがしい気持ちなるだろうし、この善意のお布施はお寺では、
神様仏様に誓って、平等にストリートチルドレンやら 生活困窮者に回っているなら、素晴らしい
社会福祉システムである。
政治家、官僚が行う日本福祉システムはどこかで破綻するのであるが、このシステムだと
きめこまかく本当に福祉の必要な所に回るに違いない。
金よりも、社会奉仕と善意の心が基本にあるからである。
無宗教の私でもこの光景には、いつも感動するのである。
日本の神社、仏閣が拝観料に参拝料 祈祷料等をとってもこのような話は聞いたことがないのは、
私の耳が悪いからなのか?
カンボジアでも、こんなに心優しい人々が何故内戦で多数の人々を殺せるのか理解できない。
他人の価値観を認めないという事は、恐ろしい事になるのである。
15日 大都会は嫌なので、早速ペナンの船に戻る。
快適マレーシア鉄道を利用しようと思ったら、マレーシアの学校が休暇で満席との事である。
それじゃ、違うルートでバスで帰る事にする。
バンコックからスラーターニーまで2階建て寝台バスで約600Km夜7時ごろ出発して、朝4時ごろ到着である。
途中何度もトイレの為やら 食事の為に停まってくれる。
スラーターニーからハートヤイまでミニバス約約300km朝6時頃乗り換えて、午前11時頃到着である。
スラーターニーで1人の大阪から来た日本の若者に出会った。
彼はおとなしそうな青年で、私が話しかけると安心したのか小さい声でぼそぼそと話しだした。
”スラータニーの乗り換えの時、マレーシアのお金を持っているかと聞かれて、持っていないというと、
この先、マレーシアのお金が500リンギット必要だから交換してあげると言われて、25000円渡しました。
レートはいくらぐらいでしょうか?”
”1リンギットは30円位やったと思うけど。”
”今まで、バンコックからチェンマイ、スラータニーと2週間楽しかったのに、騙されて嫌な事にあったな。”
”さっき、このオッサン見たときなんで、聞かへんのや。”
と、純粋な青年は親切そうにしながら騙したタイ人の心に怒っているのである。
ハートヤイで、又 ミニバスに乗り換えである。
ここでのスタッフの対応も悪くお客とも思わない対応で大変横着であるので、大きな声でウルサク文句を言ってやる。
同情のマレーシア人も、アメリカ人も一緒になって文句を言い出す。
担当スタッフのネエチャンは、私の顔を睨むけど私は一向に気にしない。
”ネエチャン。我々は荷物と違う人間やぞ。ちっとは、反省したか?”
私の感じでは、旅行社でネットワークが出来ていて、分岐点までお客の数に合わせてバスを配車するので、
いつも満席状態で走る。
次に、旅行者によって値段がバラバラである。
同乗者のマレーシア人は同じペナンまで1500バーツしたというし、私は900バーツだった。
接続の業者がその時々によって違うので、とんでもない悪徳業者もいるようである。
このルートは900バーツ(約2700円程)で、時間にして約20時間距離約1200kmである。
タイはカンボヂアと違って道路は何処でも舗装されていているのに加えて
この値段は、距離からすると日本では考えられない価格である。
どうしてこんなに差があるのか、この差は今から、将来に渡って日本の大きな病巣になるのである。
文化文明の発達の尺度を情報と物の流れで測るとすれば、日本は物流にコストがかかりすぎるので、
他国に競争できない。
物の流れをスムースにする為道を作るがこのコストが高くつき利用する料金もバカ高いのである。
物を流す為のエネルギー、ガソリンが2倍もする為、コストが高くつくのである。
人間で例えれば、高血圧に中性脂肪過多と言う状態でまるで私のようである。
よく考えてみると、ガソリン価格の差は殆ど税金の差がである。
その税金は、やはり道路の為に使われているとしたら、どこかで大変大きな無駄遣いが発生している筈である。
作らなくてもよい物を作ったり、直さなくてもよい所をなおしたりして、上手に税金を無駄使いし、
公共事業促進とおっしゃているのである。
いつも、大義名分で一般大衆を騙すのである。
とにかく、無事ペナンに着いたのは、午後4時だった。
船を見てくれている、クオさんの奥さんがタクシーから降りる私をいちはやく見つけて笑顔で手を振ってくれる。
クオさんは、まあ取り合えずビールでも飲めと言ってくれる。
遊帆UFOは場所を移動しているが、クオさんによると、アンカーがスリップしたので、コンクリートの大きな
アンカーを打って係留しなおしたとの事である。
船は問題無しである。
”クオさん、今日は近くのレストランでカムバックパーテイにしよう。”
クオさん、奥さん、スキッパーのインさんと4人でビールを飲みなおし夕食をとる。
船に戻って一息つき、やはりここが一番良いなと思う私なのである。
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