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前のページ(カンボジア旅行記)に戻る                            2002年
           32番      ペナン島にて

9月19日 ジョージタウンの町までバイクで行くが、市内に入ってからポツポツと雨が降ってきた。
       こちらの雨は、振り出したらバケツで天から撒いたようなどしゃ降りになるのである。
       よく行く得意の茶室の傍なので、ラーメンを食べながら雨宿りをする。
       ここのラーメンは米の粉で作った平べったいキシメンのような形である。
       ダシが牛肉の内臓の湯がき汁をベースに作っている。
       麺と一緒に、スジ肉 食道 胃等 いわゆる臓物を湯がいて切ったものをトッピングしてある。
       シコシコ、ニチャニチャしたものが好きな鍵さんがこれを食べたら、病みつきになるはずである。
       予想通り30分もしたら雨はあがった。
       雨上がりの道を楽団を先頭に派手な車が先導しながら行列が続く、中国系住民の葬式に出くわす。
       ワゴン車に遺体が安置されているのであろう、家族がワゴン車に取りついて泣きながらの行進である。
       その後に知人が続くがこちらはしゃべりながら笑い声混じりで、どこの国でもおなじである。
         
       葬式先導車             遺体に取りすがる家族

9月20日 ペナン島に戻って何か心の中に穴が開いたような気持ちである。
       次にどちらに行くか? 西か東か? 迷うからである。
       時間だけはタップリあるので、ゆっくりと考える事にする。
       今日、ベルギー人のカップルとフランス人家族4人のカタマランそれにもう1隻(何処の船か分からない)
       が新たにアンカーを降ろした。
       ベルギー人カップルはクオさんからバイクを借りたので、一緒にジョージタウンの町まで案内する。
       ペナンの道は複雑で私は何度も道に迷っている。
       一度、ペナン島の西側へバイクでツーリングしたけれども、結構ジャングル地帯なのである。
       道は登り坂が急で、民家は無く日が暮れて真っ暗な山道をバイクでドンドン走った事がある。
       町に出た時は、大資本系観光リゾート町並みの賑やかさにホットしながらビックリしたものである。
       今日は、旧御盆の前の日で月はほぼ満月である。
       太陽が沈むと東の空からほぼ真丸のお月さんが上がってくるのである。
       満月の夜追手の風を受けてセーリングは最高の気分である。
       何度かこんな経験があるが、生きている事の喜びを感じる事ができるのである。
       中国系住民の多いここペナンでは、町に月餅饅頭があちらこちらで売っている。
       私は、塩漬けした卵の入った月餅饅頭が大好きなのである。
       同じクラブのユキさんが私のヨットライフを言い当てた言葉がある。
       ”不自由の自由を楽しんでんねんやな。”
       まさにその通りであって、水 電気 ガス何でも全て不自由だが、自由な生活であるのは間違い無い。
       しかも、いつも町の灯を海を間に挟んで、距離を置いているのである。
       一体 何故この不自由で自由な生活を続けているのか?
       奥さんと一緒でカップルのクルージングなら、またそれなりの楽しみと苦しみもあるだろうし、今日アンカーを降ろした、
       フランス人の様に家族ならもっと楽しいだろう。
       フィリピンであったカタマランもフランス人で家族ぐるみでクルージングしていた。
       子供は小学生と中学生位だから、学校は行かずに親が勉強をみているのだろう。
       義務教育の日本では、そんな事とんでもないと言われるだろうが、フランスでは通信教育で卒業できて、
       又 上級クラスに進学できるシステムになっているのだろう。
       家族全員でクルージングできるなら、机の上だけの知識詰め込み教育だけではなく、他国の文化を肌で感じて、
       生きる楽しさと知恵を身につけ、りっぱな教育になっているのである。
       私のようなシングルハンドでは、その様な家族愛に、囲まれることなく取り合えず孤独との戦いである。
       その為、色んな趣味を始めて気を紛らわすのである。
       その一つはこのホームページを書くことにより、きっと沢山の人々が読んでくれていると考える事で
       私は孤独ではないんだと思い込む事である。
       また、もう一つはせっせと絵を書いて、知人 親戚に送る事である。
       私は、まだ生きてるぞ、というアピールである。
       貰った方は、処分に困っているかもしれないが。
       そんな訳で、このヨットライフもいつも何故?何の為に続けているのという自分との対話をしながら
       答えを見つけ様としているのである。
       人間孤独に打ち勝つ事が出来れば、南極でも山奥でも海の真中でも一人で住む事ができるが、
       果たしてこんな生き方が修行僧でも仙人でも聖人でもない、私のような凡人に可能なのであろうか?
       と、思う日であった。

  21日  またまたコンピュータの異常である。
       スイッチオンにしても画面に何も出てこないので、クオさんのレンタバイクで沢山店の集まっている
       コムスタービルに修理に行く。
       玄関にバイクを停めて、コンピューターショップへ行く。
       当然、日本のコンピュータなので部品が無くて修理が難しいが、NECならペナンに工場があるから
       そこへ行ったらどうかといわれる。
       バイクに乗ろうとしたらハンドルに青い紙が挟んである。
       良く見ると、警察の違反切符の様に見える。
       取り合えず、それを持ってクオさんの所へ戻って見せる。
       ”これは、バイクの駐車違反だよ。”
       ”ええ、バイクに駐車違反てあるのか。”
       ”道に縦に黄色の線を引いてある所はOKよ。それ以外はダメね。”
       ”どうしたら ええのかな?”
       ”今日は土曜日で、閉っているから、月曜日にお金、多分30RM位を持って行けばいいよ。
        ついでに私のも払っといて。”
       ”あんたもかいな。まあ、仕方ないか。マレーシアの警察て、どんな所か見学にいくか。”
       もう、負け惜しみである。
       コンピュータの方は、ヤツアタリでどっち道このままでは、使えないし壊れてもいいからと思い分解する。
       多分 スイッチ関係の接触不良か、CDドライブであろうと山勘で直す。
       2〜3日前から、CDドライブがおかしかったのである。
       スイッチの所を綺麗に磨いて(まるで船外機のキャブレター修理と同じ)問題ありそうなCDドライブを
       抜いて又組み立てる。
       オオ、動く。どうやら一応直ったみたい。
       多分、又故障すると思うけどそれまでこき使ってやるからな。
       コンピュータのお蔭でサンザンな目に会う日であった。
  
  22日 今日もフランス人カタマランがアンカーを降ろした。
       ”クオさん、ここもなかなか有名になってきたやないか。”
       とひやかす。
       ”オバタ、このお金日本に持って帰れ。家に沢山ある。”
       見ると、日本軍占領時発行したお金である。
       確かに、大日本帝国政府発行等と書いてある。
       物資調達と言いながら、何の価値も無い軍票で支払いしたのである。
       国をあげての詐欺か泥棒行為である。
       もしこの行為が、泥棒か詐欺でないとしたらこのお金を日本政府は責任を持って交換するべきである。
       この紙幣に書いてあるのは次の通りである。勿論これは、紙幣でなく軍票であると言う事らしいが、
       大日本帝国政府とかいてあって、大日本帝国軍とは書いていないのだから、やはり紙幣なのではないだろうか?
       ”THE JAPANESE GOVERMENT PROMISE TO PAY THE BEARE ON DEMAND TEN DOLLARS 
       大日本帝国政府”
       ”大日本帝国政府は持参人に10ドル支払う事を約束する”と書いてあるのである。
       大日本帝国軍は、補給ルートも確保せずただ進行作戦を実行したようで、始めから孤立無援玉砕覚悟の上
       と言う無茶苦茶で 無責任な作戦なのだ。
       その為に犠牲になった兵士は数知れず、現地調達の為の略奪、暴行は言うに及ばずと言う事である。
       私に対して何かと良くしてくれるクオさんでさえ、束にして20cmもあるこのお金の事をいう時は
       怒りが顔に現れるのである。
       個人レベルの怒りやら恨みは簡単には消えないはずである。
       その責任者は誰なのであろう。
       一握りの作戦決定者だけでなく、戦争の道へ進んで行くのを止める事が出来なかった国民一人一人にも
       あるのかもしれない。
       その時代を思うに、本当に恐ろしい事で、平和な時代に生まれた責任を痛感する日であった。
       お上のいいなりにならずに、しっかりと自分で判断し政治家をいつも厳しく選別する事が大変重要な事であり
       又、政治家は何よりも良心と良識を持って政治を行い、、大義名分で国民をごまかす事のないように
       してもらいたいものである。
          
       クオさん                 大日本帝国政府発行紙幣 或いは不渡り小切手?

  23日 ジョージタウンの中心に円筒形をした20数回建てのビルがあり、そこの三階に罰金支払い場所がある。
       クオさんの罰金チケットは私のチケットより大きく、30RMと書いてあるので30RM預かってきた。
       私のは分からないので、いくらと聞くと10RMと言う事である。
       ”あなた 速く来たから10RMですが、持ってこなかったら300RMよ。”
       なかなか厳しくていいじゃないか。
       法律は一旦作ったからには、特例(抜け道)無しの厳しい方が良いと思う。
       そうすれば、良い法律なら民衆平等に適用されて悪い事をしたのは悪いのであって納得できるので
       不平が出るはずは無い。
       どこかおかしければ民衆全体で一斉に不満が出るはずである。
       そうすれば制定時から真剣に取り組む必要があるだろう。
       法律作るのも官僚任せで儀式的に審議して終わり、後は所轄官庁が細部を決定する日本は国民の知らない所で、
       いつも制定されてしまうのである。
       所轄官庁は自分の権限の及ぶ様に制定するものだから困ったものである。
       そして、特例という抜け道をいつも用意しているのである。
       ”クオさん、色々世話になったけどぼちぼち動こうと思う。”
       ”何処へ、行くのか?”
       ”ランカウイからプーケットにヨットの友達が二人もいるから、そっちへでも行こうかなと思ってるし、
        ヨットでインドネシアは行けんから、ここからバリ島にも行ってみたいけどな。”
       ”ランカウイ行くのやったら、フェリーで行ったらすぐや。”
       ”ヨッテイーは船を動かさんかったら、何か心にポッカリと穴が開いたような気になってくるねん。”
       ”それやったら、自分の友達2人を乗せて、ペナン島を回ってきたらどうや。
        インドネシアは自分の友達が沢山いるし、スマトラ島からバリは2〜3日で行ける。”
       と、しきりに引き止めようとしてくれるのである。
       知らない土地でこうして友情が芽生え親切にしてもらうのは大変有りがたい事であるが。。。。
       結局、風任せにする事にした。

  24日 お金を引き出しに銀行へ行こうと思ってクオさんの奥さんにバイクのキーを貸りに行く。
       ”オバタ、あなたランカウイ行かないで。クオが毎日朝ここへ来たらあなたの船を一番に探して
       未だいるのを見て安心してるのよ。”
       ”クオさんが女の人やったら、そう言われたらどこにも行かんのにな〜。”
       そんなに気にしてくれるなんて有り難い事である。
       ここ船を係留している前は食堂が12軒程が固まって軒を連ねている。
       マレーシアのレストランは、飲み物専門店と料理専門店とに分かれており、料理専門店を大きく分けると、
       モスリム料理、中華料理、西洋料理とあるようである。
       このマレーシア方式はこの国にピッタリである。
       というのも、多民族国家で、多くの宗教と生活習慣が混在しているので、友達と食事に行こうとしても、
       宗教的な理由から食べられないものがあり、行くレストランが別々になってしまう。
       この様に、1箇所に色んな料理があれば、テーブルを囲んで好きな料理を注文してくれば良いのである。
       よく見ていると大抵のレストランは、1日の内に朝か昼か夜のどれかしか営業しないようだ。
       飲茶の店は朝だけで、お昼に行くと殆どなにもなく残り物だけである。
       今夜は、メインをモスリム料理(イカと野菜のスパイシー炒め&トムヤンクン&飯)にする。
       飲み物は、いつもテーオーアイス(紅茶+砂糖+アイス)である。
       食後のデザートにアイスカチャン(アイスクリーム+かき氷)を注文する。
       一口食べると、メンソレの味がするので、違和感があるが慣れると結構いける。
       モスリムの国での食事はアルコールが無い分あっけなく終わってしまうのである。
       これで、料金10RM(300円)でお釣りがくるのである。
       同じ並びにどう言う訳か、カラオケがあるので、夜中から日が昇るまで歌っている時がある。
       アルコール無しでカラオケをやったら、歌うのに真剣でこの様に終わらないかもしれないな等と思ったりするのである。

  25日  ”クオさん、ここを離れたらインドネシアは二度と行かないと思うので行って来るわ。”
       ”それなら、私の知人がメダンにいるので、是非行って私の住所と電話を伝言してきてくれんか?”
       彼は、手紙の束を持ってきて住所を見せる。
       ”OK。任しとき探して会って来るから。”
       今回の旅は、コンピュータも調子が悪いので、持って行かない事にする。
       そうすると、シャツ ズボン 手ぬぐい1枚ずつ歯ブラシ 歯磨き粉 剃刀 石鹸 紐 携帯用ツール 高血圧薬
       デジカメ フロッピーデイスク 絵描きセット パスポートとお金、以上で軽いものである。
       もしインドネシアのインターネットエクスプローラがバージョン5以上だと、日本語で書けて
       メモ帳で編集してアップロード出来るかもしれない。
       但し、文章だけになるが。試してみる価値はある。

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