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       29番   タイ No.1  ランカウイ島からプーケット島  福井、ユキさん参加

5月3日 ここLangkasuka Boat Clubで、ヨットのブローカーの商売をしているケビンが、私に頼みたい事があると寄ってくる。
     彼は今、日本人のお客がついたが、チョット英語が通じないから手助けしてくれとの事だ。
     日本人は年の頃は30代半ば、タイの奥さんと子供が一緒だ。
     お安い御用だと引き受ける。
     彼は船に乗った経験は全く無いらしい。
     誰でも最初は、ヨットに乗った経験なんか無い。
     私の場合、顔がチョット怖そうだという事で、BCYCメンバーから、誰も声を掛けてくれる人もなく、
     大塚先生が時々傍を通り過ぎる時に”あんた、そこはこうしなはれ。”とアドバイスしてくれるだけだった。
     彼からも、ヨットの事を教えてくれとの事だが、これまた、暇な私には何の不都合も無いのでOKだ。
     この近海でクルージングするのなら、最高のロケーションだが、将来はヨーロッパに行きたいとの事、
     ”ダイジョウブ、誰でもチョット経験を積めば、世界中海が繋がっている所どこでも、行けるよ。
     船で、自動車の様に人を轢くのは難しいし、他の船に衝突するのも、なかなか難しいからね。
     また、ヨットは、なかなか沈まない様にできいて、安全だから心配無い。”
     隣で、聞いていたDave(彼の息子のお嫁さんは日本人なので親近感があるのかいつも私に話しかけてくれる)も、
     ”オメデトウ。君もヨットを始めるのか?”
     と、お祝いの言葉を言ってくれるが、周りのヨッテイーは、彼に”言うたらあかんがね”と言うように目で合図している。
     ブローカーのケビンが、今 進行中の商談を情報漏れで誰かに先を越されるのを心配して皆に口止めをしているのである。
     その為、この件はこのクラブでは秘密だそうだが、狭いヨッテイーの世界で秘密は守れない。
     何故かしら、秘密の事は全員が、秘密であるという事で知っているのがヨッテイーの世界で、
     我が日本のBCYCクラブでも外国でも、同じだ。
     彼は、オーストラリア夫婦テリーに、
     ”何故、船は”He”でなくて、”She”なんですか?”
     と面白い事を聞く。日本語には区別が無いが英語では船は、”She”だ。
     テリーの、奥さんが、
     ”それは、船が男の人を引き寄せ、離れられない様にしてしまうからよ。”
     テリーは
     ”船は女と同じでお金が掛かるだろう。手に入れた後も、色々と手をかけ、お金をかけないとだめだからさ。”
     二人のおしゃれな説明に、同感だ。

  4日 今日は、ここのクラブ(Langkaska boa club)で、各自持ちこみ鉄板焼きパーテイーの日らしい。
     私は始めてなので、肉はこのクラブでサーロインステーキ(8RM)を買って、解凍(外へ出しておくだけ)しておいた。
     ヨットクラブのオーナー、ジョンは、準備に掛かっているので、見学する。
     新聞紙をまるめて、ガソリンをかけその上に炭を置いて火を付ける。
     荒っぽいが、イッキに火がつく。
     鉄板は10mmはある、分厚いもので、この鉄板なら、お好み焼きが美味しく焼けるな、次回チャンスがあれば、
     お好み焼きを焼いて、日本食文化披露でもするか等と考える。
     今まで何回か、ヨッテイーにふるまう機会があったけれど、大変人気があった。
     ジョンの奥さんも、昔のアメリカのTVホームコメデイに出てくるような、親切なオバサンで私の為に、パンにチーズを
     挟んだのを焼いてくれる。
     ヨットに乗っているのは、殆どがカップルで、私の様にシングルは珍しい。
     奥さんも、いやいやヨットライフをしているのでは無く、一緒に楽しんでいるのが感じられ羨ましい限りである。
     世の中、全て自分の思い通りにならない事は、分かっているが。。。
     前述のDave夫妻も、ヨットに乗ってもう25年以上になるよといっていたから、彼の息子は船で生まれて船で
     育った事になる。
     息子はガムで日本女性と出会い、結婚し子供ができて、孫に会うのが楽しみらしい。
     ”孫は、ハーフでとっても可愛いよ。私とSundy〔奥さん)の事を、ジジ、ババと言うんだ。”
     そりゃそう、可愛いだろう、私だってもうじき、ジジになるかも。。。
     子供を育てる時は、いつも頑固親父で損な役割で通していたから、孫には、ムチャクチャ甘く何でもOKでいこうと
     今から密かに計画しているくらいだ。
     このクラブは、オーナーのジョンと奥さんのアニタ 息子夫婦と4人家族で、南アフリカからここへ来て、
     何年か前に、前の会社から、この権利を買い取ったそうだ。
     ”ジョン。この前のアンカーブイは数の制限があるのか?”
     ”それは無いんだ。けれど1つアンカーを増やすのに、近所の漁船をチャーターしなくてはならないので
     お金が結構いるから、少しづつ増やしているんだ。”
     今は、約30弱位で、空きブイが5〜6個はあるから充分なのかもしれない。
     
  8日 福井さんから、ランカウイ島到着時間の連絡を受けていたが、日本時間であろうと、かってに解釈していた。
     チョット早く行って、晩御飯でも食べながら待っていようと思い自転車で空港まで行く。
     ロビーへ入っていくなり、ユキさんが、ツルピカの私の頭を見つけて近づいてくる。
     挨拶は”やあ。やあ。”
     チョット、速めに行ってて良かった。
     そういえば、以前 フィリッピンのマニラ空港に出迎えに行ったときも、確か時間を間違えて、空港の出口で
     暑い中、待ちぼうけさせてしまった事があった。
     今回は10分位待っただけだったそうで無事合流した。

 9日 町(Kuah)へ、タイへの出国と、ポートクリアランスに行くのに、車を借りWayneが運転して行く。
     イミグレーションの係官は、セバナのイミグレーションで、ランカウイまでの許可書を貰ったかと聞かれる。
     同じマレーシアで何故いるのか、説明を求めると、マレー半島側とカリマンタン側の行政区画が違っているとの事、
     パスポートに入国ビザがあるのに、そんな事は知らん、というと、そうか分かったとあっさりOKだ。
     Wayneは、ここは時々人によって言う事が違うらしいと言っている。
     とりあえず無事終わって、モスリム料理を食べ、ドリアンに挑戦し、お買い物をして明日の出発に備える。
     ”皆さん、ドリアンって食べたことありますか?”
     福井さんは一度日本で食べたけれどまずかった経験があるとの事。
     ”ドリアンも、食べ頃があって熟した奴は一度食べたら病みつきになりまっせ。フナ寿司と一緒ですわ”
     と、百貨店の実演即売のような私の巧みな口上で皆さんその気になった。
     実際、ドリアンは今が食べ時で、熟したものは、コッテリして本当にウマイ。
     Wayne曰く、タイのドリアンの方がもっと美味いらしい。
     ”よし。タイへ行ったら試したるぞ。”

 10日 天気が悪いので、出港中止にする
      船でステーキ鉄板焼き、ゴルゴンゾーラ ビールを3人で乾杯。

 11日 9時半、エンジンスタートして、とりあえずタイの方に向かう。
     外はうねりが出ている。
     2時間も走ればタイの島(Tarutao島)が見えてくる。
     この島は自然保護の為か、開発は遅れていて、人家は見えない。
     東側の中間に湾がありそこを第一目標で進む。
     タイの漁船が碇泊していて、桟橋とか建物を建造中だ。
     アンカーを降ろし福井さんとユキさんが偵察に行くが、
     ”どうも、何にも無い見たいやで。ビールも無いで。”
     といって帰ってくる。
     私は、タイの漁船を捕まえて、カニにシャコを10匹程買う。
     ”ニイチャン。ナンボや?”
     手を振ってイラナイという。
     そんな訳にもいかんから、10RM渡す。
     マレーシアとタイは時間差1時間あり、まだ早いので、もう少し北へ行ってみようと言う事になり再度アンカーを揚げる。
     同じ島の北東にKoLaenという湾があり、南からの進入路は、サンゴ礁があり、そこへ乗り上げる。
     ボンボノンで仕入れた武器、竹竿を押して脱出し、大きく回って 北側から進入すると、湾内は、水深8〜10m位で、
     人家も無く、波も入ってこないので絶好のアンカリングポデイションである。
     船底を調べに潜ったついでに、貝を落とす。

 12日 プーケットに向かって、出港するが、風も無くスピードはでない。
     日が暮れてしまったので、Lanta島にアンカーをおろす事にする。
     湾内は、浅く人家の明りの見える所まで、寄って行けない。
     とりあえず、船を泊めて、テンダーを降ろし、タイ上陸第1歩に挑戦する。
     二人乗りのテンダーに3人乗り、2馬力の船外機なので着岸まで約20分はかかっただろう。
     上陸した所は、漁村のようで、近所のオジサンが出てきて、何か言っているが、全然通じない。
     オジサンは”ユー”だけしか言わないし、ユーだけしか知らないようだ。
     こちらはタイ語は全く分からない。
     例の、身振り手振り言葉しか、共通語はない。
     ”オジサン。腹減った。 何か食べるもん無いか?”
     一応、英語を声に出しながら、下手な役者の様に手で腹を押さえ食べる演技する。
     ”ユー。”付いて来いという意味。
     タイの時間で、夜9時近いので、どこも閉まっている。
     ”ユー。”もう一回付いて来いという意味。
     そこは、小さな雑貨屋さんの感じで、体格のがっしりしたオカアサン(約90Kgs)と娘(中学生位)と息子(小学生)が
     奥の部屋でご飯を食べている。
     ”オカアサン。それ。ご飯チョウダイ。 それにビール。鰯の缶詰と野菜の缶詰お願いね。”
     冷たいビールで乾杯後、かき込む様にご飯を食べる。
     今回、出港時にそんなに食料を積まなかったので、お腹が減っていたのである。
     腹が膨れて支払いになって、タイのお金が無いので、オジサンに相談する。
     ”ユー。”今から、バイクに乗って町まで両替えに連れて行くから後ろに乗れという意味。
     オジサンと二人で、バイクに乗ってデコボコ道を町らしき所まで行くが、何処も全部閉まっている。
     チョット、英語の話せる人がいたので、
     ”50RMは約500バーツ。支払いは300バーツやけど、おつりは結構です。”
     ”ユー。”意味は分かったから、バイクに乗れという意味。
     オカアサンの所へ帰り、皆さんにお礼を言って帰る。
     タイ上陸 第一歩に会ったここの人々はとてもやさしく、おおらかであった。
     有難うはタイ語では
     ”コップンカップ”
     と、いいながら両手を合わせお祈りするような格好で頭をさげる。
     最初にされた時は ”私は仏さんやないで。”一瞬とまどってしまったが 冷静になるとなかなか気持ちの良い挨拶だ。
     これから私も タイ式に両手を合わせ”コップンカップ”。
     どんな状況にも使える。

 13日 今日は Phi Phi Islandと言う所に向かう。
      この島は、プーケットの南東約20マイルに位置するリゾートアイランドだ。
     湾内は、東側が浅く、西側の断崖に沿って入港する。
     アンカーを降ろし、両替えをして、1泊400バーツの部屋を借りる。
     日本円で1200円程だが、長屋風で各部屋にはトイレシャワー扇風機付きで悪くない。
     幅約500m程の砂浜を挟んで北側にも湾があるが、こちらは遠浅でヨットには不向きだ。
     昼にピザを食べる事になり、ドイツ人が主人の店でピザを食べる。
     タイの店員が、自分達の料理を作って食べている。
     大きな豆のようなものを市場で見かけたが、それを皮をむいて食べている。
     ”それは、豆か?”
     ”これを食べたら、明日はピーピー下痢だよ。”
     と、私と同じスキンヘッドのドイツ主人が1粒くれる。
     こんな豆一粒位で 下痢をするようなやわい腹やないで、と高をくくっていた。
     味は、豆のような豆で無いような、結局分からない。
     が、この一粒、よく効いたのである。

 14日 朝から、ピーピー。(この島の名前と同じ)
      チョット 腹に力をいれると、私の制止もきかずかってにウンコが出てきそうである
      タクシーボートはいらないか?と若いオニイチャンが寄ってくる。
      値段交渉。3人で600バーツ〔1800円)で、Phi Phi Le島に島巡り観光をする。
      この辺りの島は、天に真っ直ぐ立つ岸壁になっていて人が簡単に上陸できるような所は少ない。
      この島は、ツバメの巣の洞窟があり、竹を組んだだけのはしごを登って取るのだそうだ。
      壁には、800年前の中国船の絵が書かれていて、そんな古い時代から中国人は食材を求めて、
      こんな所にまできていたのである。
      次ぎに、南に下がると小さな湾があり、水深1mも無い。
      タイの船は車のエンジンに長いシャフトを出してどんな浅瀬でも入れる構造になっている。
      四方を断崖絶壁で囲まれており、別世界にきたようだ。
      水はクリアーで、ユキさんと福井さんはシュノーケルを楽しみ、私は昨日の一粒のお陰で脱水状態で目もうつろ。

この後、コンピュータが故障の為、ホームページの記録は勿論、電子チャートも使えなくなる。
そのため、思い出しながら書くのだが、日付等は、全く思い出せない。

2日後位、プーケット湾の南、シャロン湾に船を入れる。
      水深は、5m位の所が、5Km位続くが、遊帆 UFO は海岸付近まで寄ってアンカーを降ろす。
      上陸して、プーケットの町まで、入国手続きに行こうとバイクを借りる。
      突然、フィリッピン ボンボノンで一緒だった、ステンレス製ヨットに乗った、フランス人とフィリッピーナのカップルが、
      声をかけてくれる。
      彼等も 同じコースを先に進んでいた様だ。
      プーケットの町は、そんなに大きくは無く、我々は、市場とロビンソンデパートの近くのホテルに、泊る。
      早速、市場の屋台でタイ料理を食べる。
      私とユキさんは、ラーメンがお気に入りで、福井さんはタイ米がうまいとの事だ。
      タイのラーメンは薄いエビだしで、自分で味は調節するのだ。
      各テーブルに 唐辛子 酢 ナンプラー 砂糖??が置いてあり、その全てを味も見ずにとりあえず鉢に放り込んで
      かき混ぜて食べる。
      かき混ぜた後、チョット味見をして足らないの追加して入れる。
      この方法が、正しいタイラーメンの食べ方のようだ。
      最初は分からなかったが、色んな屋台を食べ歩くうちにどこのラーメンが美味いか分かってきたので、
      この貴重な情報を本当はグルメ情報誌にでも投稿したいぐらいだ。
      と、言ってもこの市場の周りの屋台だけで非常にローカルな情報ではあるが。
      美味い上に、値段も安く、二人ともビックリされている。
      この後、食べた支払い金額を、当てる賭けをする事になる。

次ぎの日 レンタバイクで、島巡りをする。
      2台を借りて、福井さんは一人乗りで、ユキさんと私が二人乗りで、ユキさんが運転するが、ギヤ−が自分のバイクとは
      反対になっているとかと言う言い訳で、何度もシャクリながら走るので 私はムチウチ状態になる。
      最初は、市内を北に抜けて、博物館に寄るが、資料は無く期待はずれであった。
      途中、綺麗なタイの仏教寺院があるので、見学させて貰い、西側リゾートビーチに向かう。
      西側で大きなリゾートの町、バトンは、リゾートホテルに、おみやげ物ショップ、白い砂浜、ビキニ姿のオネエチャンと
      観光パンフレット通りの光景である。
      ユキさんは、バイクの運転も前を見ていない。
      海岸でトップレスのオネエチャンに視線は吸い寄せられている。
      このまま走っていては危ないから、 ここで昼ご飯と言う事にして、ユキさんは、調査をかねて見学に走る。
      ”白人のオネエチャン、メロンみたいなオッパイまるだしで、後ろはT−Backやったで。
      知ってるか?。T−Backいうのは、お尻の所紐一本だけやねんで。”
      と、ユキさんから 貴重な詳細情報を得る。
      ”う〜ん。T−Backに、メロンね。おいしそうね。うまい事言うね。”
      と、貴重な詳細情報を映像化して聞き入る。
      タイの新聞に、イスラム教の国マレーシアでは、白人旅行者のビキニが問題になっているとかいてあった。
      見慣れたユキさんでさえ、気分はハイ、目は吸いつけられるのだから、イスラム教で育ったマレーシアの純粋でまだ悟りの
      境地まで行っていない若い男性は目が点になるのはしかたがないだろう。
      イスラム教では、女性は、人前で肌を見せる事等、絶対に無いし、プールでも男女一緒に入る事は無い。
      目に余る白人女性のビキニ姿に業を煮やした、マレーシア政府は、女性と男性のプール&海岸を別にする事を
      立法化する事を検討中との事であった。
      この法律ができれば、マレーシアリゾートは、閑古鳥が鳴く事になるのは明らかだ。
      もう一つタイの新聞にヨットの入国税に関する事が書いてあった。
      タイ(プーケット)は、ヨッテイーの沢山集る所で、ヨット関連産業も盛んであったが、タイでヨットを売買する人が多く、
      輸入税をかける事ができないので、1ヶ月以内にタイを離れないヨットは、多額のお金を、政府銀行に預け、
      出国時に返還してもらうシステムであった。
      この法律を実行してから、タイに立ち寄るヨットは激減し、タイヨット関連産業は成り立たなくなってしまい、
      ランカウイ島(マレーシア)に移ったと言う事で、再度変更し6ヶ月間は、ヨットは無税でタイにおける事になったのである。
      どちらの記事も、面白い。

遊帆 UFO に戻って、プーケット島の北東側にあるヨットハーバー、Yacht Heaven Clubを目指す。
      風向きがよく、セーリングでハーバーの入り口まで行き、機走で入港する。
      手前の湾内で水深2mをきる所があり、コースを確認しながら進む。
      ここも、係留費は結構高く、次ぎの日に南にあるPortLagoonYacht Clubに向かう。
      入港するのに目印の杭が5Km位続いているが、それでも水深1mをきる所がある為、満潮時しか出入りできない船が
      多いと思う。
      ここも係留費は、Yacht Heavenよりまだ高く、貧乏ヨットは次ぎの日に出港するしかない。
      狭い水路を抜けた所に島があり、ユキさんと福井さんが調査しに行く。
      お客は私達の他誰もいないが、夕ご飯はできるとの事で、夕方に上陸する。
      我々だけのテーブルを海岸に出して、キャンドルライト(島の発電機が故障)で男3人雰囲気満点で
      私の誕生日パーテイーとなるが、途中で雨が降ってきて慌てて、各自料理を持って建物に戻る。
      

プーケット島も、ヘブン(私と遊帆UFOにとって)は無く、ランカウイ島に戻る。
      帰りは、ノンストップ約24時間で、到着する。
      その間風向きがよくセーリングを楽しんだ。

ランカウイ島に戻って、Kuhaの浜が干上がるので、船底塗装をする事にする。
      けれども、下は砂地の所と泥の所があり、泥の所は、足がズボズボと埋まりどうしようもない。
      泥は海草と混ざって異様な匂いがする。
      ”泥パックでお肌にええかもしれんで。”
      と、ユキさん。
      もう、やけになって泥の中に寝転んで、塗るしかない。
      お二人には、遊びに来てハードな仕事をさせられて、大変御苦労様でした。

ペナン島まで約60マイル、ジョージタウンの北側の、浅い所に泊めるが、条件が悪すぎるので、永らく船を離れる事が出来ない。
      お二人は、ここからクアラルンプールまで、バスで行き 1泊して、翌日関空に向かって飛び立つ事になった。
      その為、ここペナンでお別れとなる。
      今回は、思ったほどプーケット島も良くなかったが、風には恵まれセーリングは楽しめた。
      お二人は、楽しんで戴けたかどうか、分からない。

ペナン島の東側にマレー半島と結ぶ橋が架かっていて、通り過ぎた南に小さな島があり、風を避けるのにはいい場所だ。
      この近くの漁師を取り仕切っているUncle KUOというオッサン(私と年はほぼ同じだ)が、船と私の面倒をよく見てくれる。
      再び一人になった私は、普通は孤独を味わう事になるのだが、この場所を見つけて仲間ができた。
      他にもヨッテイー(カナダ人とフランス人のカップル。フランス女2人カップル。ドイツ人とタイ女性のカップル)が、いる。
      何日か後、バスでタイ国境を超え Hat Yaiという南部では結構大きな商業都市に5時間程かかって旅行をする。
      道はどこも整備されていて 振動は少なく快適な旅だ。
      着いた所は、さすがに賑やかで、町は露天商が並び、品物が豊富で呼び込みの声も賑やかだ。
      バックパッカーが多く、前後に大きなリュックを担いでいる。
      次は、Songkhlaというこの県の中心都市に行く。
      ここまで Hat Yaiから、普通のバスで一時間程の距離だ。
      ここへ来たのは、マレー半島の東側タイ湾側の海を見ておきたかったからである。
      大きな中海がありここは本船も入航している良港だ。
      町は、大きくもなく静かな町であった。
      今は、UFOをペナンに泊めているが、これから西に向かうか東へ行くかどこへ行くか決めていない。
      西に向かうと、インドから紅海をとおり地中海へ入るか、インドから南アフリカへ行くかどちらかだ。
      東に向かうと、再度マレー半島を北上してタイ湾に入り、カンボジヤからベトナムのコースになる。
      どちらも、政治要素が絡んで、ヨットで行くにはかなり制限を受けるようだ。
      行ければ、ベトナムとインドネシアの島々を行きたいが、インドネシアは今ヨットの航行にはかなり制限をしているらしい。
      カンボジヤとベトナムはヨットの仲間で、行ったという人がいなくて、情報は集まらない。
      帰国後、家族全員集まったところで、
      ”今後の計画、どうしようか?”
      と、躊躇しながら、お伺いを立てたところ、
      ”好きにしたら。”
      の、一言で終わってしまった。
      自分の影の薄さに喜んでいいのか、悲しむべきなのか。

      そこから次は、Uncle Kuoの親戚がマレーシアとの国境の町Bitonにリゾートを経営しているとか言うことで、暇な私は、 
      ”そいじゃ、ついでにチョット寄ってみるか。”
      位の軽い考え(いつも深く考えないが)で、Bitonがどこにあるかもわからないのに、とりあえずBiton行きのバスを探す。
      ミニバス6人乗りで3時間程、海岸やら山の中の道を走る。
      風景はツバメの巣の島と同じく 奇岩(もっと大きいのは奇山?)が続く。
      この Bitonの町は800m位の高原にあって涼しく又、Kuoオッサンの親戚のリゾートも川を跨いで建てられていて、
      なかなか涼しくてよいところだった。
      この町のはずれに、温泉が沸いているとの事で、温泉と聞いたら絶対に見逃さない私はレンタバイクで見に行く。
      バイクで30分、公園の中に温泉はあった。
      大勢の家族連れやら若者がそれぞれ弁当等を広げて輪になっている。
      けれど 誰もお湯に浸かっている人がいない。
      みんな足だけお湯に浸けている。
      私がいくら温泉好きでも、衆目の集まる前で裸になる勇気はないので皆様に見習い足だけつける。
      ”アチッチー。”
      約43度くらいはありそうで、暑さで痺れてくるようだ。
      源泉は横の池のようなところから湧き出していて、そのままでぬるめたりはしていない。
      温泉卵やら野菜をゆでて食べているのは日本でも同様だ。

      宿屋から、タクシーで5分行くと、マレーシアとの国境で降りて入出国、通関を済ませると、又 タクシーが待っている。
      ”どこまで行くか?”
      ”ペナンまで”
      ”150RM!”
      ”高い、50RMで頼む。”
      というような交渉を繰り返して、100RM(約3000円)で決まる。
      私は、勿論初めてのコースだから近くか遠くか、さっぱり分からない。
      料金相場など分からないから、適当な所で手を打つ。
      実の所、キョロキョロと周りを見ても、ここからはタクシー以外の交通手段選択肢はないのだ。
      いつも私の旅は 出たとこ勝負旅で案内書やら地図は持っていない。
      それで知らない町でどうやって安くていい宿を見つけるかというと、ヨーロッパのバックパッカー、中でも女の子の
      行く後をつけて行くのだ。
      彼女達は、英語のバックパッカー用、”るるぶ”あるいは”地球の歩き方”みたいな分厚い本を隅から隅までまで
      読んで検討しているからまず間違いない。
      とりあえず値段も決まり出発すると、運転手のニイチャンがまだ値上げの交渉しようとする。
      ちょっと コワメの顔と声で文句を言ってやったらおとなしくなった。
      けれど、ハイウエーのような道で、乗ること3時間。
      ”こんだけ乗れたら100RMは安いな。”
      おまけにこのニイチャン、スピードの出しすぎでマレーシアの警察に捕まってしまった。
      ”運のない人はかわいそうやね。”
      と、日本語で一人呟くのだった。

ペナンに戻った私は、ジョージタウンの町で、いつもバイクを借りるインド人の所に行く。
      彼は、洗濯屋と貸し本屋とレンタバイク屋をやっていて、歯が抜けているので一見年寄りに見えるが私より二才若い。
      何とはなしに、気が合うようになって、一緒にコーヒーやらお茶やらを奢ったり奢られたりするようになった。
      彼は、ヒンズー教徒でインド人だから、今のパキスタンとインドの紛争について語ってくれる。
      私の目からみたら、失礼ながらインド人もパキスタン人も同じようにみえるのだが、それだけに昔からカシミール
      地方に紛争が絶えなかったそうだ。
      神様の存在を信用しない私と違い、パキスタン人はイスラム教、インド人はヒンズー教で宗教は大変な問題らしい。
      けれど、本格的戦争になれば、両国とも消滅するから、そこまではならない。との見方だった。
      
      いつものように、インターネットと買い物に インド人洗濯屋により、話をしていると体長30cm位ありそうな大きな
      ネズミが店の中に入っていった。
      ”オッサン。見たか? 大きなネズミが店に入っていったぞ。”
      ”そのまま。そのまま。インドでは、ネズミが家に入ってくると福がくるんや。”
      ”日本では、天井に蛇がいたら、福がくるとか、招き猫などいるけど、ネズミは嫌われもんやけどな。”
      所変われば ネズミも喜ばれるんやなとカンシンする。
      勿論、船乗りにとっては、昔からネズミは疫病神で、猫は守り神だ。

      ある日、
      ”インドネシアはええとこやぞ。おまえ行ったことあるか?”
      と、インド人洗濯屋のオッサンが言う。
      ”ペナンから行けるんか?”
      ”隣の インド人旅行社でフェリーの切符を買うとええ。ジョージタウンからフェリーで4〜5時間程や。”
      と、紹介してくれる。
      普通は、160RMだが、洗濯屋のオッサンの友達という事で、130RMにしてくれる。
      なんでフェリーに色々な値段があるのか分からないけれど安い方がありがたい。
      次の日の朝 ジョージタウンの桟橋から、スマトラ島のBelawanへ行き、バスでMedanの町まで行く。
      勿論、出たとこ勝負旅なので、泊まる所は白人バックパッカーの後をつける。
      適当な宿屋をみつけて、どこに行ったらええか、彼らに聞くと、多数意見で Toba湖が良さそうなことを言っている。
      これで、行き先決定。
      ミニバスで約3~4時間どうやら 山の上の方に向かっているようだ。
      途中、一回レストランによって昼飯を食べる。
      インドネシアの料理は香辛料が効いていて、座ると注文もしないのに色々な小鉢をテーブル一杯に並べてくれる。
      横の客を盗み見すると、その中から自分の好きなものだけを食べ、後は回収されて又次の客に出されている。
      ”ふむ。ふむ。インドネシアの食堂はこういうシステムか。”
      と、一人で納得するのである。
      以前、サンダカンからコタキナバルへ行くバスに乗って、レストランで昼飯を食べていて置き去りにされそうになった
      経験があるので、ここでは注意して何度もバスをチェックしながら、又、サッカー中継のテレビを見る為に目はキョロキョロ、
      口はパクパク忙しく飯を食うのである。
      着いた所は、山の上で、真中に琵琶湖程の大きさがありそうな湖がある。
      二階建ての連絡船で島へ渡ると、リゾートではなく、島の人々の元住んでいた伝統的民家を宿にする。
      家の柱や壁面は伝統的模様が描かれている。
      インドネシア人は手先も器用だしバチック等みても、芸術的な下地がある。
      屋根は急カーブを描きそびえたって、床は高床式になって内部屋は中二階が部屋の前面にある。
      トイレと体を洗う所は下に降りたところをコンクリートで作ってある。
      トイレは勿論紙使用禁止なので 用便後は水でお尻を洗う習慣だ。
      ユキさんは、このお尻洗い装置(便器の下から水道管に繋いで使うのだが、シャワーの水の広がり具合がお尻の穴
      に丁度フィットして大変気持ちが良い。)を買って帰って日本で自分の家にセットするのだといっていた。
      ここは、1泊 300円程で食事はどれだけ食べても一日1000円にならない。
      そんな訳で、安いのを理由に何日も滞在し、別にする事もないので、サッカーのワールドカップを見るか本を読むかして過ごす。
      インドネシアの人々は、いつもニコニコして温和で、色々と話し掛けてくれる。
      体は小さめで、目はパッチリとして二重まぶたで、フィリッピン、沖縄の人々と同じ感じである。
      近くに、温泉が湧き出していると聞き、レンタバイクで一時間走って温泉を探す。
      道路は舗装されているところは少なく、穴の開いている所もある。
      橋などは幅1mも無い板が2枚架けてあるだけなので、高度運転テクニックが必要である。
      風を受けながら、湖面と対岸の景色を見ながらゆっくりとバイクを走らす。
      島の対岸の山裾が一部色の変わった所があり蒸気がたっている。
      バイクで急な坂道を登りきると、ひなびた温泉食堂といった感じの所があり、ここで裏の露天岩風呂に入ることができる。
      誰もいないので、裸でお湯に入る。
      湯は、透明で少し硫黄の臭いがするが温度は丁度良い。
      岩を組んだ湯船は山の中腹にあり、前はトバ湖とその中にある島が広がり薄墨を流したようで水墨画の景色だ。
      良い気持ちで浸かっていると、ドイツ人 カナダ人 インドネシア人 ?人が次々とやってくる。
      皆はパンツか水着姿で、温泉の達人を自称している私から言わすとパンツを履いて温泉に入る等邪道である。
      本当の所は、洗濯を減らす為に普段からパンツを履いていないので、この時もシャツとズボン以外は何もなかったのであるが。
      正しい温泉の入り方なるものを教えてやろかと思ったが、大勢は既にパンツ着用派閥に傾いているのである。
      多数決派閥民主主義には勝てず、何か対策を建てねばならない。
      即ち日本の政治お得意の妥協案なるものである。
      しかたがないので、トレードマークの赤のバンダナを褌代わりにあてて、皆一緒に仲良くお湯に浸かりビールを飲む。
      先程の確固たる信念はもう忘れて多数派の流れに身を任せる自分を情けなく思うのである。
      ”イ〜イ ユ〜ダナ、ア ハン ハ。”
      今年、始めてのお風呂に入ったのと違うかな。
      温泉からあがって、昼ご飯を注文し景色を見たり、話をしたりして情報交換する。
      静かで、涼しく、物価は安くて、人々はやさしく、もし、船がなければヘブン(天国)となる所だった。
      

7月に入りいよいよ7ヶ月ぶりに、一時帰国する日が近づいてくる。
      ”Kuo オッサン。二ヶ月程、日本に帰るけど、船は大丈夫か?”
      ”ダイジョウブ。ダイジョウブ。ここは、私の目が光ってるからダイジョウブ。”
      オッサン、夜は自分の家へ帰ってしまうが、自分のスキッパー達がこの横に住んでいるからダイジョウブということらしい。
      ダイジョウブを繰り返されるたびに、段段とダイジョウブな気がしなくなるから不思議だ。
      どうも BCYC木村さんの口癖、ダイジョウブ早口3連発とだぶるかららしい。
      いつもの様に、”運を天に任そう。”と、実はどうにでもなれと思い切り、遊帆UFOは、Kuoオッサンに頼んで見てもらう事にした。
      彼は、マレーシア海軍をリタイヤーして、近くの漁師をマトメ渡し船と貸し船の商売等しているようである。
      リタイヤー後一時名古屋で働いていた経験があるそうだ。
      ”Kuoオッサン。日本に帰るのにどのルートが一番安いかな? シンガポールがええのと違うかね。”
      ”ノー。ノー。バンコックが一番距離も短いし、安いエアーチケットも手にはいる。”
      言われてみると、なるほど、バンコックが近い。
      私は海のルートで考える癖がついていて、冷静に地図を眺めてみると空のルートはバンコックの方が北にあるだけ近い。
      ペナン島の対岸にButterworthという駅があり、ここからバンコックまでマレー鉄道20時間の旅なのだ。
      寝台車は、二段式で下段は高いがそれでも3000円までだったように思う。
      ”20時間も乗って寝台車でこの値段、日本ならもう一つ0が付くのとチャウか?”
      普通人は、料金は高くても時間のかからない速い交通手段を選ぶが、私のようにプ〜タロウのプロになると、
      長く乗った方が得した気分になるのである。
      エアーコンも効き、トイレも廊下も清潔で、ゆっくり走る為か、振動も少なく快適な旅だ。
      ラッキーなことに、上段の相客は、タイのお嬢さんで英語も良く話す。
      ”お嬢さん。バンコックまで行くの?”
      ”いいえ。ペナンの友達の所まで遊びに行って、今から親の家に帰るの。バンコックの中間で到着は今日の夜中です。”
      ”そうか。バンコックまでと違うの。残念やな。”
      何故残念なのかは、お嬢さんは勿論分からないけれど、私が勝手に残念なだけである。
      お嬢さんは、バンコックの大学生でいつもは大学の学生寮に住んでいるらしい。
      早速、お嬢さんからバンコックの情報をしいれる。
      この列車は止まる度に、物売りのオジサンやらオバサンが声を張り上げて入ってくる。
      列車の車掌さんも今晩の夕食と明日の朝食を予約を取りに来てくれる。
      午後9時ごろ、お嬢さんの降りる駅に列車は止まる。
      ”じゃ〜ね。さよなら。”
      なんだか暫らく寂しい気持ちだ。
      人一人もいない見渡す限り海だけの所にいると、孤独を感じないのに、どこか町に来て人ごみの中に混じると、
      孤独を感じるのは不思議である。
      明くる日午前11時ごろ、最終駅バンコックに到着する。
      車窓からの眺めは宮殿と寺院が建っていて、綺麗に見えたが、町は人と車が多く、私向きでない。
      お嬢さんからの情報を元にタクシーに乗ってカオサン通りのホテルを探す。
      この通りはバックパッカーが多数いて、ここはホンマにタイかいな?と思うのである。
      とりあえず、こんな大都会は私には合わないので、安いチケットを手に入れ速めに帰国だ。
      町は、ワールドカップであちらこちらで歓声があがっている。
      それにしても、韓国チームが勝つと韓国人が大勢どこからか出てきて通りを歓声をあげ太鼓をたたいてマーチングしている。
      ”デ〜ハンミング。ドドドドドン〜ドン。デ〜ハンミング。ドドドドン〜ドン。”
      今、国家と国民が一緒に一つの目標に向かっているという熱気を感じたのである。
      かっての、日本人にもこの様な熱気があったな〜と思い出しながら。。。
            
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