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         33番   インドネシアすし詰バスの旅        2002年9〜10月

9月26日 朝7時 クオさんから昨日借りたテンダーで上陸を、試みるがエンジンがかからない。
       テンダーは潮に流されてドンドンと離れて行くのである。
       ”こりゃ、まずい事になったで。出だしからこれでは、今回の旅、先がおもいやられるな〜。”
       エンジン始動を諦めて、手で遊帆UFOの方へ必死に漕いで行くが、手ではなかなか前に進まない。
       後ろから、カタマランのフランス人が、見かねてカヌーに乗って助けに来てくれる。
       私も、オールを持ち出して引っ張って貰いながら、二人で漕いで桟橋まで行く。
       ”オバタ、朝から良い運動ね。”
       スキッパーのインさんが、ニタニタしながら憎まれ口を言う。
       ”クオさん。あんたの船外機、エンジンかからないね。”
       ”昨日は、かかったのにな。友達から貰った奴やからな。直しとくね。”
       出だしから、ドタバタ、アタフタとしながら、ジョージタウンのフェリー乗り場までクオさんの車で送って貰う。
       ”オバタ。メダンに着いたら、私の教え子(ベロニカ)がいるから、これを渡してくれ。”
       と、言いながら住所と電話番号のメモと100RMを差し出す。
       ”OK。メダンに着いたら、探して行くわ。”
       今回のフェリーはカタマランである。
       約25ノットで4〜5時間で、ジョージタウンからスマトラ島べラワンに到着である。
       入国と通関を終わって出ると、ガイドが群がってくるのを、避けながらフェリー会社無料バスで
       メダンまで行くのである。
       メダンはスマトラ島の中では一番大きな町で、インドネシアではジャカルタに次いで
       2番目位の町の様である。
       ”取り合えずビールでも飲むか。”
       と、適当なレストランに飛び込む。
       ”オニイチャン、ビールね。 ツメタ〜イ奴ね。”
       持ってきてくれたのは、ビンタン(BINTANG)ビール、インドネシアで作っているビールである。
       緑のビンに赤い星のラベルで、味はホップが効いていないようでまあまである。
       インドネシアもモスリムの国の為、やはりビールは割高で、殆ど飲んでいる人は見ない。
       ふと、テレビを見ると、何かどこかで見たような顔が映っている。
       ビート、タケシとキヨシのタケシと遊ぼうとかナンとか言うゲームものである。
       タケシも若い頃の顔で今とは随分と違って見える。
       何か、タイムスリップしたような気分になる。
       言葉はインドネシア語に吹き替えてあるので分からないが、なかなか面白いのである。
       アニメ、(ドラエモン、その他見たことはあるが名前は分からない。)ウルトラマン、格闘技等、
       日本のTV放送の物が多く放映されている。
       喉を潤したので、クオさんから依頼された件を片付けにタクシーに乗る。
       運転手のオジサンに住所を見せてここへ行く様にお願いする。
       最初は、快調に目的地に向って進んでいたのが、途中から怪しくなってくる。
       オジサンは何度も降りて、住所を聞きに行っている。
       首を振って”分からん。分からん。”と言うのである。
       ”分からんでは、あかん。 もう一回聞いて来て。”
       等と、やり取りしながら、目的地に着いたのである。
       大きな道から小道に入ったまだその奥の枝道を歩きながら、名前を呼びながら行くのである。
       小学生6年生位の子供が、手を引っ張って案内してくれる。
       この子の家が、探している人の弟の子供(ベンデイック)だったのである。
       どうやら、クオサンがこちらに電話してべラワンまで迎えに行くようにしたそうで、
       紙にOBATAと書いてあるのを頭の上に載せて見せてくれる。
       ”そりゃ済まなかったね。ガイドを振り切るのにサッサとバスに乗り込んだから分からなかったよ。”
       クオサンもそれならそうと一言いってくれれば、探したのである。
       取り合えず、無事用件は済ましたので、明日、夕食に子供達を招待するから何が良いか聞くと、
       ケンタッキーフライドチキンがいいという事で、約束してホテルまで送ってもらう。
       
       やんちゃ坊主のベンデイック

  27日 夕方6時、ベロニカの弟トホマンが、バイクに乗って迎えに来てくれる。
       メンバーは、ベロニカ(御腹に8ヶ月)と女の子(4歳&6歳)、トホマンの子供(ギオ男15歳
       & ベンデイック男12歳) トホマンの兄貴の子供エリクソン20歳 その他、関係はよく分からないけれど、
       昨日、通訳してくれた隣の女の子サラ とセルビアの8人でケンタッキーフライドチキンに出かけて行く。
       トホマンは奥さんが今日、御腹を手術するというので付き添っているのでこられないらしい。
       みんなで御腹一杯食べて、167000ルピア(約1100円)である。
       食後、いたずらだが優しいベンデイックが自分は力があると細い腕を見せてくれる。
       ”よし、オジサンと腕相撲をしよう。オジサンは1000ルピア賭ける。君は何を賭ける?”
       彼は、自分のゴムの腕輪を賭けるという。
       ”よし、ショウーブ!”
       私が、勝ってゴム輪を貰う。
       ”ベンデイック。次ぎはどう〜するね?着ているT−シャツでも賭けるか?負けたら裸のままよ。”
       彼は、勿論やる気である。
       周りみんなでワイワイガヤガヤ大変な騒ぎである。
       子供達と一緒に遊んで、一人 ホテルへ帰るのである。
       
        ベンデイックと腕相撲

  28日 今回の旅は、ガイド御用達チャーターバス(バックパッカー用)ではなく、一般の路線バス(公衆バス)
       の旅をする積りである。
       朝、トホマンが迎えに来てくれる。
       昨日、奥さんが御腹の手術をしたそうなのでお見舞を渡す。
       彼は、紙に書いたメモを見ながら、
       ”オバタ。アナタノコトハワスレマセン。”
       ”有難うね。メダンへ戻ったら又連絡するからね。子供達によろしくね。”
       行き先は、前回行ったトバ湖の町 Parapatを通り過ぎて、インド洋に面した町Sibolgaである。
       約8時間、高度約2000mの山を登って降りるのである。
       車はバン、乗員10人、椅子のスプリングはへたっているしおまけに凸凹道やらクネクネ道やら、
       変化に富んでいるのである。
       ドア−を閉めたら、もう運転手のなすがままである。
       乗客は、ただヒタスラ安全に到着する事を祈るだけである。
       運転手のオニイチャン、前の車の車間距離を1〜2m位まで 詰めて追い越しのタイミングを狙っている。
       その時が来たら、ひょいと右に出たかと思うなり、ブオーとアクセルをふかして追い越すのである。
       けれど、エンジンもへたっているのに加えて、坂道なので思ったほどスピードがでない。
       対向車が近づいてきて、
       ”おい。ニイチャン 危ないがな。”
       と、思ってもニイチャンに命預けた状態なので、前の椅子を握り締める位なものである。
       まあ、そんな事もあろうかと思い、一番後ろの座席に座っているのである。
       この様な、スリリングな時間が8時間ほど続いて、眼下にインド洋が開けてくる。
       ”何か、穏やかで琵琶湖より波もなく、明るい海やな。”
       これが、インド洋の第一印象である。
       無事、Sibolgaの町に着くと、ガイドのニイチャンが群がってくる。
       ”今回、徹底してガイド抜きの出たとこ勝負旅にするもんね。”
       と、変に意固地に思っている私は、インターネットカフェを見つけて、取り合えずメールチェックをする。
       インターネットカフェの若者にどこか良いホテルか、ゲストハウスは無いか聞く。
       ”この町で、一番良いのはXXXXで、次ぎが、Prima Hotelかな?”
       ”オニイチャン、電話で予約してくれる?”
       日も暮れて良く分からないが、結構、安くて良いホテルだったのである。
           
        Prima Hotel              Sibolgaの女の子

  29日 朝、町を散歩する。
       鳥の声が、あちらこちらから聞こえる。
       Sibolgaは、背中を高い山にした港町で天然の湾になっている。
       が、湾内は浅瀬が多そうである。
      子供達は、泥のような細かな白い砂浜と遠浅の海で遊んでいる。
       500m程沖合いに小さな子供2人が、寄せる波に乗ってふざけあっている。
       随分と長い距離の遠浅の為に波が立って押し寄せてくるのである。
       60マイル程西にある向いの島(Niasu島)は、サーファーが沢山行く所らしい。
       お昼になったので、町のレストランに入る。
       ここは、珍しく中華料理の店である。
       酢豚に野菜のカキソース炒めとご飯とお茶を注文する。
       インドネシアは高原地帯が有る為お茶の産地である。
       お茶に砂糖を入れて持ってきてくれる。
       ゆっくりと、食事をしていると、近所からモクモクと黒い煙が出て、人達がワアワア言い始めた。
       店のオネエチャンに、何事か聞くと、私の手を引いて駆け出す。
       店の二つ筋向こうで6軒程家が燃えている。
       町中の人が出て来たのではないかと思うくらい人だかりである。
       けたたましくサイレンを鳴らしながら消防車1台やってきて、少し水をかけたかと
       思うまもなくまた、けたたましくサイレンを鳴らしながら帰ってしまった。
       後は、破壊消化法である。
       みんなで、家を壊して類焼を防ぐのである。
       こちらは、オネエチャンに手を引かれてまた店に引き返しお茶を飲むのである。
          
       けたたましい消防車          火事現場

  30日 対岸の島Niasu島に行く事にして、切符を買う。
       エコノミーとキャビンの2通りがあるので、キャビンにする。
       出港時間は夜8時、明日の朝に到着である。
       それまで、時間はタップリとあるので近所の滝を見に行く事にする。
       幹線道路から山道を登って、30分程で川にでる。
       川の上流に滝があるので、また 這い登って行く。
       滝は約20m程の落差でタップリの水量で落ちてくる。
       勿論、誰もいないので裸になって滝壷で泳ぐ。
       水はひんやりして口に含むと甘く最高の気分だ。
       突然、若者が一人登って来て、同じ様に泳ぎだす。
       ”オニイチャンはインドネシア人か?”
       ”そうです。メダンの大学院生で年は26歳、オカアサンがこの町にいて会いに帰ってきました。”
       そんな事を話しているうちに携帯電話が鳴る。
       ”オカアサンが、昼ご飯できたから帰ってくる様に言っています。”
       ”どこの国でも、オカアサンはみんな同じやね。”
       ”オジサンは、どこへ行くの?”
       ”今日の夜、船でNiasu島に行こうと思っている。”
       ”サーフィンをやるの?私もサーフィンをやるけど、兄貴はNiasuで有名なサーファーで賞を貰っている。
       オジサン、Niasu島は、マラリアが流行っていて、それも熱帯型で悪性のタイプ。
       ジュウブン、蚊には気をつけてね。それと予防薬を飲んだ方がいいよ。”
       ”エエー。オジサン、そんな事全然知らんかったわ。”
       私の場合、子供と犬と蚊には大変好かれるタイプなので、Niasu島に上陸するなり
       蚊の歓迎キスを貰ったりすると、この世とおさらばである。
       私の母方の父も、ビルマでマラリアで亡くなったという因縁めいた思いで弱気さえ出てくる有様である。
       取り合えず、考えられる防衛対策をする事にする。
       薬屋でマラリアの予防薬を買う。
       ドイツのバイエル製と書いてある。
       副作用も心配だが、緊急事態なのでそんな事考えていられない。
       錠剤で1日1錠 食後に飲みなさいとの事である。
       次ぎに、蚊が寄ってこない塗り薬、勿論蚊取り線香に携帯用蚊帳、以上が私の防衛武器である。
       完璧に防衛準備も終わって、船に乗り込む。
       船は、長さ25m程で2階建て木造船で、エンジンは2基 速度12ノット位か。
       この船だと、2mの横波だと、浸水沈没の危険性がある。
       この船でも、定期船として運行しているという事は、この海域は普段はめったに波がたたないのであろう。
       キャビンは1部屋4人で2段ベッドになっている。
       見たところ、外国人は、同じキャビンにドイツ女性バックパッカー1人だけである。
       彼女も、マラリアの事全然知らないでこの島へ行く切符を買ってしまった事をしきりに後悔している様子だ。
              
       水の甘い滝

10月1日 不安一杯の船旅も出港してしまえば、後は運に任せるしかないわい、と開き直ると快適な旅である。
       波の無い静かな海を月と星を見ながら、夜風に吹かれていると、最高である。
       インド洋のセーリングいつの日か楽しむ事になるだろう。
       朝4時、Niasu島 Gunungsitoliに入港である。
       入港と同時にガイドが群がってくる。
       外国人は、ドイツバックパッカーオネエチャンと私だけである。
       私は、今回ガイドのお世話にならない旅を心がけているので、ガイドはたった一人のお客獲得に必死である。
       こちらはコーヒーを飲みながら、ドイツ人とガイドのやり取りを耳をそばだてて情報収集するだけである。
       サーフィンする場所は、ここからマイクロバスで3時間南に下がったLagundiと言う所にあるらしい。
       私はサーフィンにも全く興味がないから、適当に頷いているだけである。
       ガイド防衛法は、
       ”何処へ行くのか?”
       ”Not Yet(まだ、決めていない)。”
       ”XXXXにいい所があるが、行くのか?”
       ”Maybe(多分)”
       この2つしか 言わないと彼等もこりゃあかんわと 相手にしなくなる。
       もっと、上級者ガイドは、いきなり
       ”ハ〜イ、マイフレンド。私、ハナチャン。”
       等といいながら、手を出し握手を求めてくる。
       この上級者ガイドには、こちらももう少しきつめの奴をぶちかます事にしている。
       ”私は、あんたとフレンドじゃない。”
       と、手も出さず横を向いてしまうのである。
       これで、大抵のガイドは退散してしまう。
       さて、ドイツ人バックパッカーはガイドの案内でミニバスで行ってしまった。
       暫らく、港のカフェでコーヒーを飲みながら夜明けを待つ。
       雲が黄色から赤に変わり、空が黒からダークブルーからブルーに変わっていく。
       雲の間から、光が走る。
       湾内に、カヌーに乗った漁師が網を上げている。
       海岸は 砂浜と椰子の葉がのびている。
       素晴らしい絵になっている。
       ここインドネシアに来て、色んな工芸品やら、絵画を見て感じるのは、中国工芸品のような洗練された
       美しさではなく、原始的生命力と力強さを感じるものが多いのである。
       夜明けを楽しんだ後、適当にバイクタクシーに乗る。
       ”ニイチャン、何処か行ってか。”
       ニイチャンは、全く英語が通じないが、どうやら、古い家へ行くらしい。
       山道をバイクで走ると、小学生が沢山歩いて学校へ行くのに出会う。
       ”ハロ〜。ハロ〜”
       あまり、返事が返ってこない。
       ドライバーのニイチャンは、
       ”ヤッフウ〜”
       と言うと、子供達も
       ”ヤッフウ〜”
       と言っている。
       成る程、ここは ”ヤッフウ〜”かと、それからは誰彼かまわず”ヤッフウ〜”である。
       20分程走って、バイクは古い家の前に止まる。
       この島の子供達に会って、感じた事は、肌が白く顔立ちが日本人によく似ているのである。
       スマトラ島では、南方系で小柄で肌は少し黒く、目はパッチリとして二重まぶたの人が多い。
       この古い家も50年前のものらしい。
       高床式で屋根の形は、縄文時代の絵等に出てくる形であるが、ニッパ椰子の葉で葺いてある。
       中から日本の農家で会うようなオジサンが出てきて、家の中に入りなさいと言ってくれる。
       部屋は4部屋に仕切られていて、窓は跳ね上げ式になっている。
       家の中心は、屋根の中心が来ているので、ここに、囲炉裏等あれば日本の古い家と同じである。
       家の御主人は、お茶を出してくれる。
       床下で子犬が、兄弟喧嘩をしているのか片方が負けてキャンキャンと泣いている。
       ひる頃に、Guhungitoliの町に入り、昼休みの為にホテルにチェックインする。
       マラリア蚊に噛まれないうちに、この島から逃げ出さなくてはと思い、夜8時出港の切符を買う。
       帰りの船のキャビンは独り占め状態で、ホテルより快適である。
         
        夜明け
       
        50年経った古い家

次ぎの日 朝6時 Sibolga到着。
       さて次ぎは何処へ行くか?
       インドネシアへ来る前は、今回は赤道を越えて、どこかで風呂桶の水を抜いて渦が左巻きになるか
       どうか、調べる宿題を鍵さんにたのまれているので、その為にPadanという町に行く積りだった。
       けれども、ここからPadanまでバスで12時間かかるらしい。
       お尻の皮が持たないのである。
       船なら、何時間でも大丈夫だが、ここからは2週間に1度しかでていない。
       という事で、もう一度トバ湖に行く事にする。
       ここから、路線バスに乗り込む。
       急カーブの細い山道をクネクネと登って行く。
       途中で、車が崖下に落ちたらしく人が集まってガヤガヤ騒いでいる。
       私も、運が悪いとあの崖下にいたかもしれないのである。
       乗客の半分以上は、車酔いで袋の中でゲロゲロとやっている。
       私達のバスは幸運にも、無事に坂道を登ってくれた。
       車内はエアコン等はないが、音楽を流している。
       インドネシアの音楽は、ハワイアンのようなメロデイーで非常に心地よい音楽なのである。
       突然、先ほどまでゲロゲロやっていたオバチャンが、テープの音楽に合わせて歌いだす。
       年と顔(は関係無いか)の割には、結構いい声であるが調子に乗って段々と大きな声になってくる。
       左手に金の指輪をいくつもしていて、その指輪でステンレスパイプをたたいてリズムをとりだす有様である。
       段々と耳障りになってくるが、他の乗客も同じ思いらしい。
       そのうちに、運転手はテープを止めてしまった。
       オバチャンは、何か前の方にお願いしているので、きっと”音楽流してよ”位のことだろう。
       子供連れのオトウサンは、あきらかにうんざり顔である。
       私は、耳栓をして寝る事にする。
       インドネシアは、モスリムの為、お酒は基本的に禁止なので、ビール等は非常に割高である。
       その代わり、タバコはOKなので、男の90%はプカプカどこでもタバコをふかしている。
       バスの中でも平気でプカプカやるので、タバコを吸わない私は頭が痛くなるのである。
       この様な、悪条件の中、半ば諦めてじっと我慢する事3時間、ドライバーがここで降りろと言ってくれる。
       無事、トバ湖に到着である。
       Parapatでも沢山のガイドが親切を前面に押し出して寄って来る。
       ”ここは、前に一度来たからよくわかっているもんね。”
       渡し船でSamosir島に渡り、前に泊まった伝統的民家に泊まる。
       前回もいた Yantiちゃんが、驚いたような顔をして歓迎してくれる。
       彼女は、年は21歳で掃除やら料理、受付と接客は全部こなしているのである。
       今回は、それに3ヶ月位のシェパードに似た子犬のリッキーもいる。
       家は全部古い木で出来ていて、高床式で入り口は狭く、内部は前面だけ中2階になっている。
       料金は一日10000ルピア(150円)で、ビンタンビールの半額である。
       ここは、夜になると全くの無音になる。
       トバ湖は高度2000m位の山が噴火して真中の山頂が沈んで周りが湖になったカルデラ湖(?)である。
       赤道直下にもかかわらず、非常に涼しく、蚊も少なく私には天国のような所である。
       島の道路は凸凹で橋が落ちていたりする為バイクしか走っていない。
       ここで、ゆっくりするといつもリラックスしている私でさえ、体の中のネジが反対に回ってほどけていくようである。
       近くを散歩して、お茶を飲んだり、絵を書いたりしてダラダラと過ごす。
       インドネシア人はここトバ湖を心の故郷か、文化発祥の地のような感情を持っている様である。
       この島の人々は手先が器用で木彫りや絵に独特の形と色を持っている。
       お昼に、リゾート系ホテルに昼ご飯を食べに行く。
       ここは、今いる伝統的民家と違って、設備は勿論近代的である。
       メニューもしゃれていて、オニオンスープとサンドウイッチを注文すると、大変いい味なのである。
       ぼんやりと景色を眺めていると、一人のヨーロッパ系の御年寄りが近づいてきて話し掛けてくる。
       ”アナタは日本人ですか?”
       ”ハイ、そうです。”
       ”あなたも ここに何か特別な思い出があるのですか?”
       どうやら、私のツルピカ頭を見て日本軍人を思い出した様で、ポツポツとしゃべり始めたのである。
       ”私はオランダ人で、若い時にここへ戦争に来ました。日本軍が撤退した後、大変苦労しました。
       けれど、この島の住人は家族みたいなものです。沢山の思い出があります。
       この向こうの山、煙っているでしょう。霧ではありません。カリマンタン島の山火事の煙です。”
       遠くの山を見つめている目は、自分が若い時に見た山を見つめている様である。
       彼の話を聞いてから、この国はどんな歴史があったのか興味がわいてきた。
       この為、メダンへ帰ってから戦争博物館なる所へ行き大まかな所を調べたのである。
       インドネシアは350年間オランダの支配下にあった。
       1942年日本軍進攻。オランダ撤退。
       1945年オランダ、英国連合軍再度進攻、日本軍が撤退。
       1949年インドネシア独立軍にオランダは攻撃されて撤退。
       と、言うような感じである。
          
        この家1軒借り切る       

         
       Yantiチャン              リッキー君

何日か後 ボチボチ動きますか、と言う感じで次ぎに何処へ行くか考えるのである。
       Yantiちゃんに、相談すると
       ”もう行くの? 何故、もっと長くいないの?”
       と、言ってくれる。
       行くのだったら、Brastagiが良いらしい。
       純朴な娘さんの Yantiちゃんに 
       ”又、来るからね?”
       ”いつ、来るの?”
       無い後ろ髪を引かれる思いである。
       渡し船でParapatの町に戻り、バスを待つ。
       9人乗りのバンに14人乗るのである。
       運賃が安い分、数でカバーしないと計算が合わないのだろう。
       ここから、2時間程でPematangsiantarと言う町まで行き乗り換えるのである。
       今度は、ミニバスである。
       経験上、後ろの座席のドア辺りが良い席だろうとアタリをつけて座る。
       客はドンドン乗ってくる。
       お客は肩を互い違いに入れ替えて、4人座る所を5〜6人すわるのである。
       もうこれ以上は座る事はできんでと思うと、やっとバスは動き出す。
       しかしながら、途中道で待っている人がいると、乗せるのである。
       奥目のよくしゃべるオバチャンが乗ってくる。
       お尻を座席の隙間約20cmに入れて、2〜3度お尻を振ってチャンと座ってしまうのである。
       奥目のオバチャン、私にも話し掛けてくれるが勿論分からない。
       周りの人が”そいつは、日本人やで”というような事を教えているようで、
       すると、このオバチャンニッコリ笑って、みかんを出して食べろといってくれる。
       次ぎに、オバアチャンと、子供連れが乗って来る。
       子供は、足を隙間に入れて立ったままである。
       オバアチャンは、奥目のオバチャンが膝に座らせている。
       優しいインドネシアの人々は助け合うのが当たり前といった感じである。
       そんな訳で、私の経験は浅かったのである。
       ドア−の近くの席は最悪なのである。
       もう、乗ることできんで、と思ってもバスは止まって乗せるのである。
       どうすのかと見ていると、若い男を指差して、
       ”オマエ、天井!”
       若者も、心得たもので席を譲ってさっさと天井に登ってしまう。
       ”私に御指名がかかったらどうしよう?”
       等と、心配するのである。
       バスはお茶畑が続く高原の坂道をゆっくりと走り、凸凹道で天井に頭をぶつけない様に注意しながらの旅である。
       勿論、外国人は私一人で、異様な風体の私は日本人であるということが、バスの乗客全部が知っている
       様子である。
       ”おはよう。” ”こんにちわ。” ”ありがとう。”
       等という日本語が、ときたま聞こえてきてにっこり笑ってくれるのである。
       日も暮れかかって、バスの助手のオニイチャンがここで降りろと言ってくれる。
       言われた通り降りるが、町らしい感じがしない。
       後ろからきた、バンに乗れと言っているので取り合えず乗る。
       バンのオニイチャンは、英語は通じないようである。
       30分走っても町らしいものは無く、日もとっぷりと暮れて、こりゃ ちょっとやばいかな。等と思うのである。
       ”Brastagiという町にホテルもなかったら、どうしよう?何処でも寝てしまうか。”
       ”ここは、高地やから結構冷えるしな。”
       一人あれこれ考えていると、それらしき町に入っていく。
       ”あ〜あ、よかった。”
       と、安心すると、腹が減るのである。
       取り合えず、モスリム料理の店に飛び込む。
       モスリム料理の店は、メニューを見る必要が無い。
       店で作った料理を全種類皿に入れて持ってきてくれる。
       その中から、好きなものだけを食べればそれだけ計算してくれるのである。
       又、料理は右手で掴みながら食べる。
       慣れると、手で食べるのがおいしくて病みつきになりそうである。
       それにしても、何処の町に行ってもメニューがワンパターンである。
       日本の様に、店独自の創作料理など無く、他の店との違いを売りに出す事などないのである。
         
       中はすし詰天井にも乗る

次ぎの日 朝、町を散歩する。
       馬を引いた小学生が、馬に乗れといっている。
       1時間ほど、馬の背に乗って散歩である。
       彼は、学校に行かずこうやって儲けて家計を助けているのだろう。
       馬から降りて、山道を登って行くと、リゾート系の大きなホテルがある。
       敷地内にショートホールのゴルフ場やら、プールにカラオケ デイスコにサウナと何でもありだ。
       価格は、スタンダードで1泊400,000ルピア(6000円)もするのである。
       もうすっかりルピアに慣れてしまった私の頭は、換算しなくても、0が一つ多い気がする。
       こようなホテルは、インドネシアのお金持ち家族の保養地になっているようである。
       メダンの市内にも高級住宅街があるが、各家敷地は200坪位有り、車は2〜3台はある。
       貧富の差は大きく、お金の無い人は、一生働いても貧乏なままなのである。
       ここBrastagiの町にも、中華料理の店が1軒あるが、入ってくるのは中国人系家族ばかりである。
       たまに、インドネシア系女の子が一緒にいると思ったら、ベビーシッターなのである。
       彼女達は、中国人系家族の食事が終わるのを赤ちゃんを抱いて立って待っているのである。
       家族の食事が終わると、残った料理を一人で食べている。
       インドネシアで時々起こる暴動も、宗教上の問題に加えて経済的格差に対する不満が多く、
       その為中国人系スーパー等が襲われたりするのである。
       資本主義は、お金を持っている人が得をする社会なのである。
       日本は、資本主義と言いながら、世界で始めて社会主義が成功したといえるのかもしれない国である。
       
       小さな馬の為カワイソウ

次ぎの日 今日は、近くの温泉に行こうと、バスに乗る。
       バスのドライバーは峠の分かれ道で、ここで降りろといってくれる。
       細い山道を歩いて行けと、手で方向を指してくれる。
       山道を歩いて行くと、静かになってくる。
       道は所々、大きな溜め池の様に山水が沸いている。
       かまわずバシャバシャと水溜りの中を進む。
       山の水はひんやりして気持ちが良い。
       道端でオバチャンが、トマトを山盛りにして選別している。
       ”オバチャン。トマトいくら?”
       オバチャンはお金はいらないと言っている。
       4つほど貰って1000ルピアを置いて行く。
       ”う〜ん。うまい トマトの味だ。”
       3つはぺろリとたべてしまって、1個は、温泉へ行って何にも無かったら食べる事にして取っておく。
       山道を歩く事約1時間。
       山肌から、湯煙が立っている。
       温泉を引いてタイルで湯船を作ってある。
       この温泉に 似た感じは、マレーシアのサンダカンからコタキナバルに行く峠の町の温泉に似ている。
       あの温泉は、確か日本軍が作ったものらしい。
       似ているので、ここもひょっとすると、日本軍が作ったものではないかな?
       早速、パンツ1丁で温泉に入る。
       硫黄泉で少し白く濁っていて温度は暑くも無く、ぬるくも無く最高である。
       ゆっくりと風呂に入り、店でミーゴレン(ヤキソバ)を食べて、今度はバスに乗って帰る。
       バスといっても、バンで今回は前のドライバーの横に座る。
       ギアが調子が悪いらしく、時々自動的に抜ける。
       登り坂でギア−が抜けると、そのままずるずるとなすすべも無く坂道をバックで下がって行く。
       下がりきった所で、ドライバーはアクセルをふかし、今度は一気に登る。
       下り坂の底は、来る時バシャバシャと歩いてきた大きな水溜りである。
       乗客の、一人が”オオ、トバ湖”とうまいジョークを飛ばす。
       バスは、来る時に降りた所で、反対方向へ行くらしいのでここで乗り換えの為に降りる。
       茶店みたいなのが1軒ポツンと立っているので入ってお茶を注文する。
       店の主人が、
       ”日本人ですか?”
       と、日本語で話し掛けてくる。
       ”はい、そうです。おじいさんは今いくつですか?”
       ”76歳”
       ”他に、知っている日本語は何ですか?”
       ”アトニツイテ ツケ”
       ”ニダンニ ツケ”
       ”チョウカン カッカドノニ  ケイレイ”
       ”コレハナニカ?”
       後は忘れたらしい。
       全部、物騒な言葉である。
       彼は、キャプテンイノイの事をしきりにいっているが、言葉が通じないので良く分からない。
       後日、メダンに帰って戦争博物館で調べた結果、ここBrastagiが攻防の要所であったようで、
       日本軍は、町の入り口のこの峠を押さえて、オランダ軍と戦ったようである。
       戦争博物館で見た日本軍の兵器は、オランダ&英国連合軍の兵器装備と比べると差は悲しいほど貧弱である。
       それさえ知らされていなかっただろう。
       こんなに差のある兵器で、日本軍の若者は何を思って戦っていたのだろう。
       ある者は、天皇陛下の為、大日本帝国の為、或いは 大東亜共栄圏の為 或いは 
       インドネシア独立の為等 きっと立派な大義名分の為に人を殺し自分も死んで行ったのであろう。 
         
       道端でトマトを買う        ベラスタギ温泉           温泉の食堂のおばあちゃん

         
       茶店のおじいちゃん        湯煙を吐く山

       町に帰って Brastagiからメダンまで、同じくすし詰バスである。
       天井に乗った若者は、途中からのどしゃ降りにもめげず、頑張って天井に張りついていた。
       道路は、川に変わっていて、水の中を車が走っている。 
       バスの終点でタクシーに乗り換え、ドライバーに80000ルピア以下で綺麗なホテルへ行く様に頼む。
       ”インターナショナルホテルで、80000ルピア以下ね。難しいね。”
       けれど、しきりに無線で他のドライバーと話し合って聞いている。
       ”アナタ、日本人ネ。車 バイク 何でも90%は日本製ね。”
       ”そうか、日本人はインドネシア人の為に忙しく働いているのやね。
        その割に、お金持ちでもないのにね。
        そうやな、メイドイン アメリカとかヨーロッパの国の名前のついた物は、見ないな。”
       ヨーロッパの国やら、アメリカは、どこでお金を儲けているのだろう。
       例えば、鞄の工程を考えるとどうだろう。
       鞄を作るのに資本と技術と原料と労働力がいる。出来た後、マーケッチングと分ければ、
       資本と技術とマーケッチングは、先進諸国が握っていて、原料と労働力をアジアが提供している状態である。
       全ての工程の、決定権は先進諸国が持っている。
       果たして靴の価格中の利潤配分は、適正配分になっているのだろうか?
       それに加えて、為替のトリックに落ちていないのか?
       ちょっとお金が溜まったかなと思ったら、為替のトリックで根こそぎ食い尽くされたりするのである。
       何年か前にタイバーツから暴落が始まって マレーシア シンガポール インドネシア 韓国とIMF危機といわれる
       ヘッジファンド嵐の為にアジア各国はパニックに陥ったのである。
       通貨の暴力といえるかもしれない。
       その為、生産者と消費者の両方のパートを受け持って生活しているのが普通の国であるが、
       アジアでは、どちらにも属さない社会からドロップアウトした人達が沢山いるのである。
       こんな事を考えていると、ドライバーが降りてホテルのフロントに聞きにいってくれる。
       ”ここは、安いね。45000ルピアよ。”
       ”有難うね。”
       前に、大きなモスリムの寺院があって、定期的に聞こえてくるお祈りのスピーカの声さえ
       我慢すれば、部屋はタイル張りで、清潔なホテルである。
        
       貧乏なメダンの市内       300〜500坪はあるメダン高級住宅街

帰る日が近づいて、クオさんの奥さんに頼まれたお土産もの、香水にバチックパレオを買いにメダンショッピングモールへ行く。
       このショッピングモールは、中にヤオハンのスパーマーケットがあり、ピザにモスリム料理 中華料理 西洋料理と
       ショッピングとレストランは何でもある。
       フェリーの切符を買いに行くと、どうやら2つの会社があるようで、しかも同じ時間で運行している。
       片一方の会社のフェリーは、明日は満席らしいので、もう一方の方へ行く。
       価格も同じ、片道90RM=231000ルピアである。
       
       コウモリ(食用? ペット?)

帰る日   朝8時に、切符を買った事務所から無料バスが出ている。
       市内を何箇所か回ってお客を拾ってBelawan港まで行く。
       出国手続きをしていると、Niasu島で一緒になったドイツ女性バックパッカーと会う。
       ”ネエチャン。その後 大丈夫やったかね?”
       ”まあ、なんとかね。”
       バックパッカーは、体格のいいヨーロッパ系人達向きである。
       後ろに自分の背丈の半分位のリュック、前に普通サイズのリュックを背負い、未だ手にプラスチック袋等を
       持っている。
       日本の女の子がこの荷物を背負えば、荷物が歩いている状態で見ていられない。
       しかも、彼等の精神はタフなようである。
       フェリーに乗ってもなかなか出港しない。
       ドカドカと団体で若いインドネシア女性が入ってきて、満席すし詰めバスに似た状態になってしまった。
       フェリーもお客が一杯になるまで、出港しない方式なのである。
       隣の若いインドネシア女性達は、殆ど英語は通じないので、筆談やら絵を書いてコミュニケーションをする。
       彼女達は、インドネシア各地 バリやらジャカルタから集団出稼ぎに来て、バック工場で2年間働くそうである。
       年は、20〜21歳らしく、ペナンの工場では、毎日働いて休みがないらしい。
       これから毎日苦労が待っているかも知れないのに、顔は明るくニコニコとしている。
       隣の3人の女の子の写真を取って、
       ”オジサンが、君達の似顔絵を書いて実家に送ってあげるからね。下手だけどね。期待しないでね”
       上の操舵室へ行く。
       エンジン2基、GPSを見ると、速度25ノット 残り30マイル程でペナンの島影は見えている。
       後1時間とチョットで到着である。
       ラットの上に漏斗が指してありオイルを補充してあるので、ラダ−パワーステアリングの
       何処かでオイル漏れなのであろう。
       操舵室のスタッフとしゃべっていると、インドネシアは海賊がいるから危ないとの事だ。
       漁船が海賊に速変りするらしい。
       ペナンに入港して入国手続きを済ませて町に出ると、夜8時になっている。
       今から、船のある場所に戻っても、テンダーがないし、クオサン達もいないだろうから、
       ジョージタウンに泊まる事にする。
       リトルインデイアで、よく行くインド料理の店で、カレーにナン(メリケン粉を薄く焼いたパン)を食べる。
       辛い後は、甘いデザート、もち米に黒砂糖を入れて蒸したものにココナッツをつけて食べる。
       やはり、船の置いてある所が我がホームタウンという気分になるから不思議である。
       途中で日にちが分からなくなったが、帰ってきたのは10月9日である。
       2週間の旅であった。
       
       集団就職の為マレーシアに渡るインドネシアの娘達

今回 旅費概算
       1.宿泊費 1,000、000ルピア   15,000円
       2.交通費 1,000,000ルピア   15、000円
       3.食費   1,000,000ルピア   15,000円
       4.通信費  300,000ルピア     5、000円
        5.雑費   700,000ルピア    10、000円
           以上      合計60、000円

*インドネシアの銀行は、大きな都市(メダン等)以外は銀行での円交換は出来ない。
  闇のマネーチェンジという事になると、レートは10%位悪くなる。
*国際電話はどこの小さな町でも、Wartel という所があって可能である。
*インターネットは、地方の町に行くと、速度が非常に遅くなるのと、日本語を表示を望むなら
  エンコードしなくてはならない。
*町での交通手段は、ミニバス(路線が分からないので乗りにくい) 
            タクシー(乗る前に行き先を言い、交渉すれば大抵希望価格でOKである)
            バイクタクシー(乗る前に交渉必要、エンジンは音の割にパワーが無く坂道になると
                     ドライバーは自転車のようにペダルをこぎだす)
            トライショウ(乗る前に交渉、自転車の三輪車版。クッションもよくエンジンもないので静かで快適)


  
ペナン島ーべラワン港−メダン−シボルガ−ニアス島−トバ湖−ブラスタギーメダン−ベラワン港−ペナン島
   

以上

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