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41番 やっぱりコーチンへはいかない。 2003年4月
1日 切りの良い所で今日出港する事にする。
珍しく、良い友達が出来ない国になってしまった。
もう1歩踏みこめば良かったかもしれない。
そんな中でも、同じ桟橋に泊っている木造船のインド人ジイチャンクルー(Ramjee Malan)とは、
会って良かった一人である。
媚びるでもなく、威張るでもなくいつも淡々として、72年間の生き様を顔と体全体で現しているような感じである。
8人程いるその他インド人若手からも一目置かれている様子である。
そして、この船(Sanjeeda号)のオーナーイギリス人も非常に良い感じの人であった。
朝9時にGACの事務所へ行き、午後1時出港を告げる。
午後1時になって、パスポートとポートクリアランスをもってニューワンがやってきた。
”それじゃ、世話になったね。 バイバイ。”
”いや、まだ 海軍のチェックが残っているから、彼等が来るまで出港できません。”
”もうタバコも、ビールも何も無いといっておいてくれ。”
2時ごろになって、軍服を着た若者が4人程ボートに乗ってやってきた。
やっぱり、タバコはないか?である。
最後までおねだりである。
舫いを解いて湾内に出ると、スリランカ海底工作船の船長達が手を振っている。
進路305度、風は向かい風である。
エンジンをかけ、4ノット位で進んで行く。
19時30分、またまたフィルターのエアー噛みの為エンジンストップ。
修理して、帆走にする。
沖まででると、南西の風が吹いて何とか4ノット位で帆走できる。
この頃はいつも新月近くにセーリングとなり、お蔭で星が綺麗である。
向い波の為、波が船腹を叩くがまあまあのセーリングである。
2日 南西から西風に変わり、風力20〜25ノット波も4〜5mはある。
漁師の海に関する情報は、間違い無い。
コーチンへ向うには登り一杯の為波に叩かれて乗り心地は悪いのである。
遊帆UFOは、向かい風、向い波で乗るのは間違いの為、コース変更目的地変更である。
角度を落とし、C-Mapで港を探してみると、Tuticorinという港がインドの最南端から東側の位置で、
スリランカと北部で繋がりそうになる少し南側で丁度進行方向である。
夜2時、益々風も強くなってきたので、ワンポイントリーフする。
3日 この状況では、コーチンは7月まで行く事が出来ない。
エンジン1800回転+帆走で7〜8ノットスピードが出ている。
17時、Tuticorinの港が見えてきた。
浮きブイもあり入港は簡単である。
商業港なので、大型船が入っている。
VHFでハーバーオフィサーを呼び出すと、入り口クレーン船に横付けする様に指示がある。
沢山の人が出てきてまるでスターの到着の様である。
税関は、船内をざっと見て、OKである。
”タバコはないか?”は、言わないのである。
”今日は遅いし、外に出たくないから、イミグレーシヨンは、明日でもいいよ。”
という事でインド初上陸、初日である。
やっぱり、ヨットマンの予定はあてにならないのである。
4日 Imigrationの係官は、午前10時ごろやって来て、同じ質問を繰り返す。
インドは、何もビールもタバコも請求はしない。
逆に、パスポートコピーを渡すから迎えの貨物船まで一緒に来いという事でついて行くと、
冷たい缶ビールをくれるのである。
お昼にピザを遊帆UFOで作って、昼寝の後、一度町を見に行く事にする。
パイロットハウスの係官に相談すると、親切にバスの乗り方を教えてくれて、ゲートまで
船舶代理店のオニイチャンのバイクに相乗りする様に頼んでくれる。
インドルピーが無いというと、50ルピーを呉れるのである。
バスに乗ると、不思議な事に前が女性と子供、後ろが男性と綺麗に分かれて座っている。
決して男女相席はしないのである。
両替をするとインド46.5ルピー=US$1.00である。
1ルピーが日本円2.5円程である。
町は道幅が狭く、スリランカより、牛が多い。
インドの牛は角が立派に生えている。
勿論、道は牛のウンコがアチラコチラに落ちている。
インターネットを探すが、何故か繋がらない。
携帯電話のICチップを買おうと思ったが、価格は200ルピーと安いけれど、外国人の場合
パスポートと現地保証人が要るとの事で、日本と同じ制度である。
結局、国際電話は、町のあちこちに公衆電話があって簡単なのでICは買わない事にする。
市場を見学していると、側にいつも同じオッサンが着いて来て、何やかやというので、
鋭く眼を飛ばして、
”何か用事か?”
というと、あっさりと消えてしまった。
インドはスリランカより人の身分がハッキリと区別(差別?)されている様である。
インド公務員は、仕事に忠実過ぎるくらい書類重視主義であるが変にたかったりしない。
町のレストランで、カレーとチャパテーと、ミルクテイーを食べる。
これは、ベジタリアンフードのようで、野菜ばかりの味の違うカレーが、四種類位でてくる。
値段は安く30ルピー程である。
帰りもバスに乗るが、4ルピー(10円)で港のゲートまで戻ってくる。
ゲートでは、許可書を見せて、荷物検査まである。
”ここから船まで遠いので何か方法はあるか?”
”チョット、待っていなさい。”
どうやら近くまで行くトラックを捕まえてくれて、それに乗れという事である。
ここは、買い物に大変不便な為、マドラスに行こうかと考えている。
5日 朝7時ドライブとラダ−の点検をしていると、パイロットハウスのお金を貸してくれたオニイチャンが
”今日は、この港のフェステイバルで市長からあなたに何かプレゼントがありますから、タグボートの
後に付いて行って下さい。”
何をくれるのか分からないが、悪い話ではなさそうなので素直についていく。
桟橋には、貴賓席が設けられていて、胸に花輪とリボンを付けたエラソウな方々の横に座れと言われる。
隣の席は、Tuticorin市長さんらしく、ここへ来た理由と、航海の様子を聞かれる。
今日は、40回目のTuticorin海の記念日であるとの説明がある。
気さくなオジサンである。
9時、ゲームが始まり、男性が目隠しをして棒を持って、ロープに吊られた素焼きの壷を割るのである。
”市長サン、これは、日本では同じようなゲームがありますがスイカを割ります。”
市長サンは隣の人に説明している。
女性&子供のゲームもあり、それぞれ何か賞を貰っている様である。
進行係のオジサンは、次ぎに綱引きゲームがあるから出てくださいと言ってくる。
進行係のオジサンは市長からあなたに栄誉のプレゼントがありますからその積りでとの事である。
マイクで私の紹介をしたあと、市長サンは、マフラーを首に架けてくれる。
このマフラーは、両端を縫って例のスカート風ズボンにする物ではないかと思う。
次ぎに、テレビ取材チームと、新聞記者がやってきて、色々質問責めである。
ヒョットしたら、インタビューされ、カメラも回っていたのでテレビ放送されるのかもしれないし、
新聞に載るのかも知れない。
台湾で取材されて2度目の出来事である。
思いもしないのにイベントのヒトツの花になってしまった。
全く何が起こるか分からない出た所勝負の連続である。
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