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    59番 チェンマイでリタイアー生活案内  2004年6月4日〜6月20日

6月4日 1週間後に大西&村田さんがチェンマイにリタイヤー生活の可能性を探りにくる予定である。
    独身者である大西さんは、物価の高い日本で暮らさなくてもこちらでリタイヤー生活をすれば
    余裕のある生活が出来るはずである。
    チェンマイは高地にあるため涼しく暑さも厳しくないし、京都に似た古い文化都市で日本人に馴染易い筈である。
    沢山の日本人がリタイヤー生活をしていて、友人もできるだろうし、日本食材は手に入れるのに不自由は無い。
    いくら口で説明しても本人が現地の空気を吸って判断するしか方法がない。
    その為に、あちらこちらを案内しようと思ったのであるが、私は未だシャロン湾に浮かんでいるのである。
    一度アンカーを降ろすと、動かなくなるといういつものパターンでダラダラと日を過ごしている。
    当初は、団体ツアーコンが終れば、ペナンまで遊帆UFOを戻し、マレー鉄道でチェンマイまで行く積りが、
    遊帆UFOはここシャロン湾に置いたままチェンマイまで行こうと思っている。

 8日 私のビザの有効期間が今日までなので、ミャンマーとの国境の町ラノーンへいき、30日の更新をしてから、
    チュンポン、バンコック、チェンマイというコースを取る積りでプーケットのバスターミナルでラノーンまでの
    バスの切符185バーツを買う。
    切符売り場のオネエチャンがビザの為に行くのかと聞いてくるので、そうだと答えると、クイックビザという
    ビザサービスの船チケット300バーツを要求される。
    午前10時、バスで出発するが、途中 何度も止まるのでおかしいと思い始めた時は、気づくのが遅すぎたのである。
    同じ路線バスに間違えて乗ったのである。
    午後1時、お昼御飯の為にバスは止まる。
    どうやら、昼食付きの値段のようである。
    オカズは3品、御飯はお代わり可でなかなか美味しいのである。
    バスに乗ろうとすると、ラノーン行のエアコンバスが横に止まっている。
    オネエチャンに切符を見せると、頷いているのでここで正規のバスに乗り換える。
    午後3時半、 ラノーンにつくと、クイックビザのオネエチャンが車で迎えに来てくれている。
    早速、タイ側イミグレに行、パスポートを出すと、付き返されて、
    ”あなたは、船のキャプテンだから、プーケットに戻って、イミグレに行って手続きしなければならない。”
    ”え〜。 そんな。 何故?”
    といっても、取り合ってくれない。
    クイックビザのオネエチャンに事情を説明し、明日出直す事を告げる。
    午後5時 プーケット行のバスに乗り、7時間掛けて、逆戻りである。

 9日 プーケットのイミグレに行き、何故ダメなのか説明をしてもらう。
    去年と同じように、船をタイに置いて船長が出国するときは、20000バーツの銀行保管証明がいるのである。
    銀行で保管証明を貰い、イミグレにそのオリジナルを預け、手続きOKである。

10日 再度同じコースでラノーンへ行、ボートで15分程乗って、ミャンマーでスタンプを押してもらい、タイに戻るのである。
    これで、1ヶ月間のタイ滞在が出来るのである。
    ラノーンからバスでチュンポンまで3時間90バーツである。
    チュンポンの町はコジンマリしているが地方では大きな町になるのである。
    ここから、東海岸のサムイ島等フェリーが出ている。
    この辺り(クラ地峡)はマレー半島の中で最も幅が狭く、且つ、平地である為第2次世界大戦中この地域を
    侵略占領した日本軍はここに運河を掘りインド洋とタイ湾を結び、航路の近道を作る事を真剣に考えたらしい。
    戦後もこのアイデアは生き残り、水爆を使って一気に掘るという案が検討されていたという。
    いつの世にも大義名分の為、とんでもないことを考えるものである。
  
11日 朝、10時30分 エアコンバスで出発、270バーツ7時間でバンコックに着く。
    南バスターミナルに入ったのは、午後5時半、バンコックのファランポーン駅へタクシーでいってもバンコック市内
    渋滞の為、1時間はかかりそうである。
    午後6時出発の夜行寝台列車に乗りたいのである。
    ファランポーンの次の駅、サンセン駅なら近いし、市内に入らないので間に合いそうな為、タクシーを
    そちらに向かわせる。
    午後5時50分思ったとおり間に合い、エアコン下段寝台切符(780バーツ)を買って、乗り込む。
    この寝台列車は快適である。
    明日朝7時にチェンマイ駅に到着予定である。

12日 日本からの両名は昼頃待ち合わせのDaiamond River Side Hotelに到着する筈である。
    私は、前回泊まった近くのゲストハウス250バーツ/日にチェックインを済ましている。
    12時タクシーで、両名到着、チェックインを済まし、情報を仕入れがてらに日本食堂サクラに出かける積りが、
    ”無理して聞く事もないんじゃないですか?”
    という、大西さんの意見で変更し、夜はタイスキを食べて帰る。
    そうなると、これと言ってする事もないので、ユックリ本でも読んで過ごす事にする。

13日 時間があるので、トランプをやろうと言う事になる。
    ドボンというゲームで、私は始めてである。
    手札5枚を配り、切ったカードの数字か印が同じなら1枚を捨てる、無ければ1枚をとっていく。
    但し、2のカードを切られると、下手は2枚取らなければならない。
    8のカードは何でも使える。
    ジョーカーは0か30でこれもいつでも使える。
    切ったカードが手持ちの数字に合えば”ドボン”といって上がりである。
    その時に持っている数字の合計が負けである。
    以後、3人揃うと、ドボンが始まるのである。

14日 折角チェンマイまで来た事だし、一度位市内観光をしようということになり、タクシーを借り切って、クラフト工場
    染色工場、お寺等を見て回る。
    タイシルク工場では、村田さんだけが御土産を買い込む事になった。
    チェンマイに来たという証拠写真も写し、しなければならない事は終了である。
    2人はホテルの部屋でタイマッサージをしてもらう為に呼ぶ事にして私はゲストハウスに帰る。

15日 朝9時頃、携帯に大西さんから電話が入り、
    ”えらいこっちゃ。村田さんが下痢で10分おきにトイレへ行ってるし、腹も痛むらしい。”
    ”OK,タクシー呼んで直ぐ病院に行こう。”
    案内書にはチェンマイラム病院が日本人スタッフもいて、安心なようなことがかいてある。
    行ってみると、大きく綺麗な総合病院で、受付で症状を話すと、日本語のできる、オネエチャンが来てくれる。
    村田さんは、医者に症状を話たあと、便の検査である。
    私は、看護婦さんが血圧計を持っていたので、チョット計って貰うと、
    上が200、下が105で、看護婦さんは医者にかかるようにアドバイスしてくれる。
    ついでやから、私も見て貰い薬を貰うはめになったのである。
    ホテルに帰って暫くすると、村田さんの財布が無いと騒ぎになる。
    大西さんが機転を利かして部屋のゴミ箱とエレベータのゴミ箱を探しに行くと、掃除のオネエチャンが
    ”何か言うとったから、マネージャが来るらしい。”
    暫くすると、ビニール袋に入れた財布2個を持ってきてくれる。
    中を確認するように言われ、村田さんがチェックすると、日本円20万円程は抜かれていず無事であった。
    部屋のゴミ箱に捨ててあった報告を、掃除のオネエチャンから受けていますとの事である。
    早速掃除のオネエチャンにお礼を渡し、何故、ゴミ箱にあったか推理するのである。
    村田さんは、昨日のマッサージ説、私は、村田さんの寝ぼけ説で考証していく。
    仮に、村田マッサージ説であれば、取った財布をお金も取らず何故足の着きやすい部屋のゴミ箱にすてたか、
    もし、盗った時に良心が働いたとしたら、元のカバンに直すだろう。
    行動に筋道が立たないのである。
    私の、寝ぼけ説には、
    ”わざわざ、カバンの中から引っ張りだして、自分でゴミ箱にいれるか? そこまでボケてないで。”
    との村田さんのなかなか説得力ある説明である。
    その後、マッサージのスタッフに問い合わせしたが、長年働いていて信用はあるけどねと、首を傾げていた。
    結局、犯人は分からずじまいだったが、幸いにも被害がなかったので、今度は下の金庫ロッカーに預ける様にいう。

16日 昼間は3人で飽きもせずドボンである。
    3人の実力伯仲の為、平均して勝ったり負けたりである。
    怠惰な3人には珍しく、今日の夕食は、チェンマイ伝統料理カントークにしようと言う事にする。
    建物は木造2階建で、太い柱が立っている。
    床板もチークの古い材である。
    一応、カントーク料理なるものを注文し、ショーが始まるのを待つ。
    百人以上は楽に収容できる所に、お客は我々3人に他は3組程である。
    午後8時、ショータイムである。
    若いオネエチャンが民族衣装を着て、指先を外側にそらせるしぐさで静かに踊っている。
    次は、恋人同士の掛け合いのようで、これまた動きの少ない、指先と顔の表情で意思を表しているようである。
    次は、サルの縫いくるみを着た男と、獅子舞のように、2人組みで動物を表す踊りである。
    この動物、頭には角があり、首に鈴をつけ、全身が白い毛で覆われている。
    3人で、これは何の動物か賭ける。
    私は、羊説、大西さんは牛説、村田さんはヤギ説である。
    ひとしきり踊りが終ると、サルがこれをつれて客席に回り、50バーツ札を口で咥えて食べてみせるのである。
    ウエイターのオネエチャンに聞いたところ、これは、鹿だと言う事で全員はずれである。

17日 別段これをしたという事もなしに、明日帰国である。
    では、今日は思い切ってインドカレーを食べてみようと、ホテルの直ぐ近くのインド料理店に行く。
    結局、怠惰な3人は、近くの店なら何でも良かったのである。
    大西さんはインドカレーは抵抗無いといっている。
    私は、前から一度水タバコを試してみたかったのが、二人のヘビースモーカーがいる為に実現した。
    食後、高さ80cm位、ガラスで出来ていて、底に水があり、一番上にタバコを乗せ、その上にアルミホイールを
    置いて、炭を乗せた水パイプが出てくる。
    まず、大西さんが試しに吸うが、煙が出てこない。
    インドのニイチャンは、もっと深く長く吸いこまなあかんと見本を見せてくれる。
    成る程、ニイチャンが吸うと、鼻から煙が機関車のように2筋になって勢い良く出てくる。
    ”私は、肺活量がないからな。”
    と、言い訳する大西さんであった。
    ”味はどうや?”
    ”全然、タバコの味がせん。アップルの味がするわ。”
    私も、一口吸ってみるが、これはタバコというより香料を吸い込んだようである。
    夜は、日本料理店へいき、そこでマスターをしている親切なオジサンから退職者ビザの情報を得る。
    ”いやあ、この頃は日本から来る退職者の方が多いんですわ。今日も夫婦二人連れでいらっしゃいました。”
    と、親切に教えてくれる。

18日 朝9時、二人はホテルからシャットルバスで空港へ向かう。
    大量の本の置き土産の為、身軽なリュックは急に重くなる。
    プーケットに残してきたユキさんは、バンコックから3時間位チェンマイよりのナコンサワンというところにいて、
    同じ汽車に乗り込む積りが、1日遅らせるとの事である。
    頂いた本を片っ端から読んでいく時間は充分過ぎるくらいある。
    チェンマイ午後4時発 バンコック19日午前6時着、エアコンバスに乗り換え12時間でプーケットへ戻ってきたのである。

   以下は、要点を書き止めるが、領事館で調べたわけではないので間違っているかもしれない。
    1.退職者ビザは 80万バーツを銀行へ入金しその証明書と、警察の無犯罪証明書等を持って
      タイ領事館に持って行くと、1年間の滞在がゆるされるが、3ヶ月に一度タイ国外にでる必要があるらしい。
    2.年金受給者ビザは、その証明書を持っていけば良いらしく、こちらは1年間は滞在できるらしい。
        親切なオジサンのアドバイスでは、来た時に取敢えずタイの銀行で預金口座を作っておきなさい。
        そうすれば、2度手間で行ったり来たりする必要は無いからとの事であった。
        もっともなアドバイスである。


   チェンマイには日本人向けのマンションがあり、エアコン、トイレ、バスタブ、シャワー、流し、机、クローゼット等が
   備え付けで、月に5000バーツ程で借りられる。
   チェンマイ市内で50坪に2階建ての家(庭付きガレージ付き)が300万円位で買えるらしいが、最初は
   借りるのが良いだろう。
   生活費は使い方によるだろうが、人によると、円の10倍という人もあるが私は円の5倍位と考えるのが妥当な
   線ではないだろうかと思う。
   勿論、バーツと円の交換比率ではなく、例としてチェンマイで10万円を使うとすると日本で50万円位を使う様な
   物価であると言う事である。
   日本食堂は、あちらこちらに数多くあり、そこへ行くとチェンマイで発行してる日本人向け情報紙が各種ある。
   スーパーでは、殆どの日本食材が入手可能である。
   やはり、日本人には住みやすい所ではあるが、何といっても海外生活になる。
   長期滞在日本人を見ていると、いつまでも日本と比較して次第にフラストレーションを溜めていく人が多い。
   結局、どこに住むにしても、退職後 如何に生きるのかという思い切り以外にないようである。
   退職すれば、肩書きも何もない個人になり、今までの仕事上の友人関係は切れてしまうのである。
   その点、奥さんは個人として近所付き合いの方が多く、夫の退職後も何も変わらないのが強みなのかもしれない。

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