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      54番 ふらりコタバル   2004年3月

    
    赤線が走った道路

3月5日 マレーシアの地図を見ていると、コタバルという東海岸の北にある町へ行く気になった。
    レンタモーターバイクホンダ100ccでふらりとペナン大橋を越える。
    10分走った所で現在位置不明、得意の勘であっちの方やろ、ということで走り続ける。
    30分程走ると、山道に入る。
    2時間程走っても未だ現在位置は分からない。
    通り過ぎるバイクを止めて
    ”べトンからコタバルはどっち?”
    オニイチャンは、丁寧に、Baling- Gerik-Kotabaruと順番を書いてくれる。
    そして道順を教えてくれるが、またまた迷子になる。
    周りは、ゴムの木とパームヤシ畑である。
    何回か人に聞きながら、見覚えのある町、タイとの国境の町にでる。
    時間は午後3時、今日はべトンで泊まる事にする。
    レンタバイクで国境を越えられるか心配だったが、マレー側もタイ側も何も言わないしハンコを
    簡単にポンと押して終わりである。
    今日は、何処を走ってここに来たかは定かでないが走行距離約150Km走行距離4時間位である。
    べトンまで山道を登ってきているので標高約800m位であろう。
    気候は爽やか、夜は冷水シャワーは厳しいのである。
 
 6日 朝、タイからマレーシアへ10分程で戻り、第一目標 Gerikの町を目指す。
    昨日、走った経験でガソリンスタンドがモスクより少ないというのが分かったので、チョット減っていても
    ガソリンスタンドがあれば満タンにして走る事にした。
    日本でいう道の駅みたいなモスクと簡単なレストランが何KM毎にあってさすがモスリムの国である。
    自動車運転中でも時間がくれば、モスクでお祈りをしなければならないのだろう。
    これでは、モスリムの人が日本へ来れば不便を通り越して、アッラーの神様の怒りをかう事になって
    出張も簡単にできないだろう。
    Gerikから分かれ道になり次の目標はJeliである。
    なだらかな勾配が続いた後、眼下に湖が見えてくる。
    Temengor湖 南北50Km程あるがどうやらダムでできた人造湖ではないだろうか?
    橋を渡った所にリゾートがあり、調査の為に中を覗いてみる。
    ここは、湖の中の島に建っていて、1泊 80rm位だそうである。
    日本の観光案内書にはPerak州の事は何にも書いてないが、自然を愛する人ならここらは最高であろう。
    湖を過ぎると、ダラダラと上り坂が続く。
    途中は、象やら牛の絵を描いた注意交通標識がある。
    道には、時々小動物のひき逃げ死体が転がっている。
    森を横切る道路を横断中の小動物は自動車のライトで目が眩んで轢かれてしまうのだろう。
    この道は50Km間は人家もガソリンスタンドも何も無い山道と森を抜ける道である。
    随分と高くまで登って来た様で、山並みが眼下に見える。
    勘で高度約1500mと判断した。
    峠を越えると今度はダラダラ下り坂である。
    目標のJeliに着き、昼ご飯を食べる。
    この辺まで降りてくると空気も少し生暖かくなる。
    べトンからここまで約160Km、ここからコタバルまで100Km程ある。
    マレーシアは町以外の所は人口が薄いというのが私の印象である。
    コタバルの町に入っていくと、時計台が道の真ん中に立っていて、これを目標にどちらに行ったかを覚えておく。
    一応、東海岸に出ようと、コタバルの町を通り越して30分程行くと南シナ海が見えてきた。
    海岸線は砂地が続き、屋台とリゾートが並んでいる。
    この季節はモンスーン風の為、波が荒く遠浅の為に波が立って海岸に打ち寄せてくるので、海水浴等、
    できる状態ではない。
    今日は、ここのPCBリゾートで泊まる事にする。
    夕食を食べに、ふらりと町へ出かけインド料理でも食べようかと細い道を曲がった所で偶然にも日本語で書いた
    赤ちょうちんに出くわした。
    普段、日本レストランに入った事が無いのに、これも縁のものと思い入ってみる。
    日本の人が経営していて、コタバルで8年になるという。
    ビール、お好み焼き、ざる蕎麦、たこ焼き、と食べて、20rm程で、価格は一般日本レストランに比べ良心的である。
       
     Temengor湖                峠からの眺め             マレーシア版道の駅
 
 7日 コタバルは博物館の多い所なので、朝から博物館回りである。
    最初は戦争博物館へ行く。
    コタバルは、日本軍上陸作戦が行われた所で、ここからタイからの部隊と合流してシンガポールまで行軍して
    攻めた様な事である。
    昨日、走ってきた道とか、ここから山裾を南下してクアラルンプールに向かう道を行軍して行ったのであろう。
    行軍は、歩きと自転車の為1日50Kmも行かなかったのではないだろうか?
    山道とジャングルで行軍するだけで大変な労力であったろう。
    マレーシアの人口の薄さを考えれば、進軍する所、敵どころか人もいないのだから征服したと報告し、
    事情の分からない日本国民は日本軍は破竹の進撃で何て強いのだろうと錯覚をおこし、喜んでいたのであろう。
    向かう所敵無しの字の如く、敵どころか、人がいないので進撃は比較的事を運びやすいが、補給線の確保
    拠点の確保となると、充分な兵器、物資もないのである。
    日本軍は現地調達物資を略奪と言うわけには、いかないので軍票なる貨幣を発行し、もし戦争に勝ったらお金に
    換金するという空手形ではなく空小切手で無理やり買い上げていたので、これは今の法律でも詐欺罪であろう。
    マレーシア人は未だにこの軍票をもっていて、私の友人アンクル クオも見せてくれた。
    この軍票の処理は、金持ち日本政府は考えているのだろうか?
    それにしても、お上の命令でこんな所まできて行軍させられた日本兵も哀れである。
    私の母方の父(祖父)もビルマのジャングルでマラリアに罹って、戦死ということになったようである。
    もっと、哀れなのは、占領した拠点をを死守せよと命令された兵士達である。
    当然、イギリス、オランダ軍は充分な兵器を準備して、再攻してくるので貧しい兵器+大和魂で向かう日本兵は
    殆ど全滅、捕虜は絞首刑等で若い命を無駄にしてしまったのである。
    多数の犠牲も考えないズサンな作戦を立てた大本営は、兵士を将棋の捨て駒のように動かしたのである。
    作戦を命令した大本営は東京にあって個人の痛みまで分かっていたのだろうか。
    日本人、一人一人は決して悪くない(むしろ御人好し)のだが、お上からの命令に絶対的に弱い
    という利点(お上から見れば)又は、欠点(一人一人の日本人から見れば)があるのである。
    大きな流れに飲み込まれやすく、良い方向に動けばとんでもない力を発揮するのだが、悪い方向へ向かうと
    一人一人は疑問に思っても文句も言えず流されるだけで歯止めが掛けられないのである。
    ここへ進軍してきた若い兵士、或いは、神風特攻隊皆同じように若い命を無理やり自分に納得のいく答えをだして
    散らしたのである。
    あるものは、お国の為、あるものは日本国民の為、日本に残る家族の為、大東亜共栄権の為、マレーシア開放の為
    等、と色々答えを出し自分に納得と諦めを強制し、或いは最後まで疑問を持ちながら、どちらにしても大きな流れに
    巻き込まれた個人が助かる道はなかったのである。
    命令の責任の所在をはっきりさせない日本システムはもう通用しなくなっているのに、日本政治は相変わらずの
    ゴタゴタ茶番劇である。
    次に、イスラム博物館を見学する。
    イスラムでは人と動物の絵を描くのは禁止らしく、中国の輸出品青磁やら七宝焼き等は、花とアラビア文字で書かれている。
    アラビア文字は色々に変化してこれで文字となしているのかと思われる程デザイン化されている。
    ここコタバルはモスリム色の強いところで、一般の警察以外にイスラム宗教警察というのがいるらしく、
    結婚前の若い男女が一つの部屋にいたりすると、踏み込んで逮捕されたりするらしい。
    マレーシアではモスリムが政治経済よりも上位にあるので、イスラム宗教警察には誰も逆らえないだろう。
    これは、怖い事である。
    ということで、やっぱり自由の風を感じるペナンの方が私には住み心地がよいという結論であった。
    この博物館の裏の屋台で、モスリムが被る男子用帽子が8Rmで売っていたので、モスリムの売り子の
    ニイチャンに選んでもらう。
    殆どが私の頭には小さくビッグサイズが、なかなか無いのである。
    日本人の私は特別頭が大きいとは思っていなかったが、気をつけてみてみると、マレーシア人は頭と顔が
    コジンマリとしていてその為バランスがとれて、スタイルが良く見えるようである。
    私の様に、頭でっかち、アンパン顔、出腹、垂れ尻 短足ではない。
    やっと大きなサイズの白のモスリム帽子を見つける事ができた。
    周りに刺繍がしてあり、その部分が透けて風通しが良く毛の無い私にはピッタリである。
    アッラーの神様を疑い、批判し、文句たれの私は神様にしては許せぬ奴と思われているので、怒りを避けるこの帽子が
    ヘルメット代わりになるであろう。
    次は文化博物館である。
    マレーシアのハンデイクラフトが展示されている。
    昔の人は根気のいる仕事をする事ができたのに、連なる私は何故横着モンなのかと考えさせられる。
    銀、錫 真鍮製品の彫金が細かくデザインも美しい。
    籐、椰子で編んだものも細かい所まで丁寧に細工されている。
    繊維製品ではバチック染め(ロウケツ染め)、纐纈染め(絞り染め)、絣織が見られる。
    インド、東南アジア、沖縄へと続いている海の道、絣ロードルートである。
    バチック(ロウケツ染め)は蝋を溶かし、小さな薬缶(チャンチン)に入れて模様を書いていく。
    書かれた蝋が防染をするので、次の工程染色ができ、色を定着させる為に熱いアルカリ湯で洗うと蝋も溶けて製品になる。
    纐纈染(絞り染め)は、糸で括った所が防染され模様になる。
    絣織は縦糸を整経し糸で括って防染した後、横糸を入れて織ると模様になる。
    沖縄の大島紬は縦、横糸共に防染し織る高度な技法で、海の道絣ロードを通って伝わったものと言われている。
    これらの展示品を見ていると、人間の手で作られた味があり、現代社会に溢れている大量生産された
    化学製品を使っている私から見ると、昔の人々は、貧しかったのか豊かだったのか分からなくなる。
    テレビやら自動車があるのが豊かであるという以外に、別の意味の豊かさがあった様に思えるのである。
    
    昔のマレー木造船装飾金具が素晴らしい

 8日 少し天気が悪いが帰ることにする。
     Jeriの手前で小雨がふってきたので、レインコートを買いに店に入る。
     オジサンは膝まであるレインコートを出して、12Rmを10Rmにまけてくれた上に、着方を教えてくれる。
     オジサンの講釈によると、袖を前後ろ反対に通すようにということである。
     背中が前に来るようにして後ろは開いたままなのである。
     この方法だと、雨は縫い目、合わせ目からも沁み込んでこないし何よりフリーサイズで誰でも合うのである。
     色々と知恵を働かすものである。
     途中、雨がきつくなると雨宿りしながら、山道を登っていく。
     霧雨雲が山を登っていき、ぼかし墨絵のように幻想的である。
     突然、子供の時に見た、黒澤映画蜘蛛の巣城の森が動く場面を思い出す。
     車の通行も少なく、厳しい道程であるが、ヨットで荒れた海を何時間も走る事を思えば まだ楽なものである。
     ただ、タイヤのパンクだけはしたくない。
     こんな所でパンクしたら、どうする事もできない。
     べトンの町まで戻ってきたので、天気も悪い事だし、今日はここに泊まって明日帰る事にする。
     タイ側のイミグレを通過しクネクネした坂道を走っていると、突然対向車線で大型トレーラーが道路分離帯に
     乗り上げ、横倒しになった。
     早速、バイクを止めてドライバー救出に向かう。
     ドライバーは車の中で上になったドアーからでようと、もがいている。
     私は、フロントガラスがもう壊れているので、そこを蹴りガラスを割ろうとした。
     ドライバーは何とか上のドアーから出てきて怪我は無い模様である。
     それにしても、こんな大きなトレーラーが簡単に横倒しになるものである。
     
     事故直後


 9日 今日は、昨日と違い良い天気である。
    帰りは、目標(Butterworse)がはっきりしていて道の標識にも書かれているので間違う事はない。
    途中、珍しく料金を取る高速道路になるが、バイクは車とは別に横にもう1本バイク専用道路があり料金は取られない。
    車が飛び込んでくる事も無く、安全で快適な道である。
    マレーシアもタイもそうであったが、道路は車とは車線を別にバイク専用車線があり、比較的安全で走りやすい。
    バターワースの町に入ると、懐かしいペナン大橋が見え、海が見えてくる。
    橋を渡った所に遊帆UFOが待っているのである。
    やっぱり、海の広さがいいなと思うのであった。
    
    柵の右側が車のハイウエイで左がバイクのハイウエイ

 今回、ふらりとコタバルまで片道約400Km、往復800Kmのバイク旅行であった。
 結局、良かったのは、町よりも途中の山道と景色がすばらしかったのである。
 もう少し大きなバイク250cc位を借りる事ができれば、山の中の高地(キャメロンハイランド)を通って、
 熱帯雨林国立公園(タマンネガラ)へ行ってみたい。

55番 ペナンで同盟軍を待つ