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                 旅の思いで写真 川柳入り2


         インドネシア文化伝統を守るトバ湖

トバ湖の渡し場Parapatでも沢山のガイドが親切を前面に押し出して寄って来る。
”ここは、前に一度来たからよくわかっているもんね。”
渡し船でSamosir島に渡り、前に泊まった伝統的民家に泊まる。
前回もいた Yantiちゃんが、驚いたような顔をして歓迎してくれる。
彼女は、年は21歳で掃除やら料理、受付と接客は全部こなしているのである。
今回は、それに3ヶ月位のシェパードに似た子犬のリッキーもいる。
家は全部古い木で出来ていて、高床式で入り口は狭く、内部は前面だけ中2階になっている。
料金は一日10000ルピア(150円)で、ビンタンビールの半額である。
ここは、夜になると全くの無音になる。
トバ湖は高度2000m位の山が噴火して真中の山頂が沈んで周りが湖になったカルデラ湖(?)である。
赤道直下にもかかわらず、非常に涼しく、蚊も少なく私には天国のような所である。
島の道路は凸凹で橋が落ちていたりする為バイクしか走っていない。
ここで、ゆっくりするといつもリラックスしている私でさえ、体の中のネジが反対に回ってほどけていくようである。
近くを散歩して、お茶を飲んだり、絵を書いたりしてダラダラと過ごす。
インドネシア人はここトバ湖を心の故郷か、文化発祥の地のような感情を持っている様である。
この島の人々は手先が器用で木彫りや絵に独特の形と色を持っている。
お昼に、リゾート系ホテルに昼ご飯を食べに行く。
ここは、今いる伝統的民家と違って、設備は勿論近代的である。
メニューもしゃれていて、オニオンスープとサンドウイッチを注文すると、大変いい味なのである。
ぼんやりと景色を眺めていると、一人のヨーロッパ系の御年寄りが近づいてきて話し掛けてくる。
”アナタは日本人ですか?”
”ハイ、そうです。”
”あなたも ここに何か特別な思い出があるのですか?”
どうやら、私のツルピカ頭を見て日本軍人を思い出した様で、ポツポツとしゃべり始めたのである。
”私はオランダ人で、若い時にここへ戦争に来ました。日本軍が撤退した後、大変苦労しました。
けれど、この島の住人は家族みたいなものです。沢山の思い出があります。
この向こうの山、煙っているでしょう。霧ではありません。カリマンタン島の山火事の煙です。”
遠くの山を見つめている目は、自分が若い時に見た山を見つめている様である。
彼の話を聞いてから、この国はどんな歴史があったのか興味がわいてきた。
この為、メダンへ帰ってから戦争博物館なる所へ行き大まかな所を調べたのである。
インドネシアは350年間オランダの支配下にあった。
1942年日本軍進攻。オランダ撤退。
1945年オランダ、英国連合軍再度進攻、日本軍が撤退。
1949年インドネシア独立軍にオランダは攻撃されて撤退。
と、言うような感じである。





         音のない島トバ湖

ここシボルガから、路線バスに乗り込む。
急カーブの細い山道をクネクネと登って行く。
途中で、車が崖下に落ちたらしく人が集まってガヤガヤ騒いでいる。
私も、運が悪いとあの崖下にいたかもしれないのである。
乗客の半分以上は、車酔いで袋の中でゲロゲロとやっている。
私達のバスは幸運にも、無事に坂道を登ってくれた。
車内はエアコン等はないが、音楽を流している。
インドネシアの音楽は、ハワイアンのようなメロデイーで非常に心地よい音楽なのである。
突然、先ほどまでゲロゲロやっていたオバチャンが、テープの音楽に合わせて歌いだす。
年と顔(は関係無いか)の割には、結構いい声であるが調子に乗って段々と大きな声になってくる。
左手に金の指輪をいくつもしていて、その指輪でステンレスパイプをたたいてリズムをとりだす有様である。
段々と耳障りになってくるが、他の乗客も同じ思いらしい。
そのうちに、運転手はテープを止めてしまった。
オバチャンは、何か前の方にお願いしているので、きっと”音楽流してよ”位のことだろう。
子供連れのオトウサンは、あきらかにうんざり顔である。
私は、耳栓をして寝る事にする。
インドネシアは、モスリムの為、お酒は基本的に禁止なので、ビール等は非常に割高である。
その代わり、タバコはOKなので、男の90%はプカプカどこでもタバコをふかしている。
バスの中でも平気でプカプカやるので、タバコを吸わない私は頭が痛くなるのである。
この様な、悪条件の中、半ば諦めてじっと我慢する事3時間、ドライバーがここで降りろと言ってくれる。
無事、トバ湖に到着である。





         古代卑弥呼が出てきそうな家

ここインドネシアに来て、色んな工芸品やら、絵画を見て感じるのは、中国工芸品のような洗練された
美しさではなく、原始的生命力と力強さを感じるものが多いのである。
夜明けを楽しんだ後、適当にバイクタクシーに乗る。
”ニイチャン、何処か行ってか。”
ニイチャンは、全く英語が通じないが、どうやら、古い家へ行くらしい。
山道をバイクで走ると、小学生が沢山歩いて学校へ行くのに出会う。
”ハロ〜。ハロ〜”
あまり、返事が返ってこない。
ドライバーのニイチャンは、
”ヤッフウ〜”
と言うと、子供達も
”ヤッフウ〜”
と言っている。
成る程、ここは ”ヤッフウ〜”かと、それからは誰彼かまわず”ヤッフウ〜”である。
20分程走って、バイクは古い家の前に止まる。
この島の子供達に会って、感じた事は、肌が白く顔立ちが日本人によく似ているのである。
スマトラ島では、南方系で小柄で肌は少し黒く、目はパッチリとして二重まぶたの人が多い。
この古い家も50年前のものらしい。
高床式で屋根の形は、縄文時代の絵等に出てくる形であるが、ニッパ椰子の葉で葺いてある。
中から日本の農家で会うようなオジサンが出てきて、家の中に入りなさいと言ってくれる。
部屋は4部屋に仕切られていて、窓は跳ね上げ式になっている。
家の中心は、屋根の中心が来ているので、ここに、囲炉裏等あれば日本の古い家と同じである。
家の御主人は、お茶を出してくれる。
床下で子犬が、兄弟喧嘩をしているのか片方が負けてキャンキャンと泣いている。
ひる頃に、Guhungitoliの町に入り、昼休みの為にホテルにチェックインする。
マラリア蚊に噛まれないうちに、この島から逃げ出さなくてはと思い、夜8時出港の切符を買う。
帰りの船のキャビンは独り占め状態で、ホテルより快適である。




         幻想的ニアス島の夜明け

10月1日 マラリア蚊の不安一杯の船旅も出港してしまえば、後は運に任せるしかないわい、と開き直ると快適な旅である。
波の無い静かな海を月と星を見ながら、夜風に吹かれていると、最高である。
インド洋のセーリングいつの日か楽しむ事になるだろう。
朝4時、Niasu島 Gunungsitoliに入港である。
入港と同時にガイドが群がってくる。
外国人は、ドイツバックパッカーオネエチャンと私だけである。
私は、今回ガイドのお世話にならない旅を心がけているので、ガイドはたった一人のお客獲得に必死である。
こちらはコーヒーを飲みながら、ドイツ人とガイドのやり取りを耳をそばだてて情報収集するだけである。
サーフィンする場所は、ここからマイクロバスで3時間南に下がったLagundiと言う所にあるらしい。
私はサーフィンにも全く興味がないから、適当に頷いているだけである。
ガイド防衛法は、
”何処へ行くのか?”
”Not Yet(まだ、決めていない)。”
”XXXXにいい所があるが、行くのか?”
”Maybe(多分)”
この2つしか 言わないと彼等もこりゃあかんわと 相手にしなくなる。
もっと、上級者ガイドは、いきなり
”ハ〜イ、マイフレンド。私、ハナチャン。”
等といいながら、手を出し握手を求めてくる。
この上級者ガイドには、こちらももう少しきつめの奴をぶちかます事にしている。
”私は、あんたとフレンドじゃない。”
と、手も出さず横を向いてしまうのである。
これで、大抵のガイドは退散してしまう。
さて、ドイツ人バックパッカーはガイドの案内でミニバスで行ってしまった。
暫らく、港のカフェでコーヒーを飲みながら夜明けを待つ。
雲が黄色から赤に変わり、空が黒からダークブルーからブルーに変わっていく。
雲の間から、光が走る。
湾内に、カヌーに乗った漁師が網を上げている。
海岸は 砂浜と椰子の葉がのびている。
素晴らしい絵になっている




         プーケットラフテイング

6月25日 朝7時半、今日は象乗りとラフテイング、滝壺泳ぎツアーであるが約束の時間になっても迎えの車が来ない。
1時間遅れ8時半にマイクロバスに乗って、プーケット島からマレー半島側の山の中へ行く。
昨日からの雨で水量は増え、水は赤土の泥が混じって濁流となって絶好の川くだりとなるだろう。
最初に象乗りでジャングルと川を越えていくのだが雨で下は滑り象も歩きにくいのか何度も立ち止まり思案している。
像使いが耳の後を蹴るとイヤイヤながら足場を探りながら歩いて行く。
象にバナナをやり、次はメインエベント ラフテイングである。
1つのゴムボートに前後がインストラクターが乗り、真ん中に4人か3人が乗る。
太田夫妻と蕎麦打ち名人が組み、k先生、ユキさん、イッちゃん私が1組である。
ボートは、でるなり激流である。
k先生恐れをなしてボートの内側に体を持ってこようとするので、私がオールで体を衝いて外に出してやる。
出来るだけ乗り手は外へ体を出すとボートは安定しヒックリかえることは無い。
距離は4kM程約20分、途中5箇所程落差のある所があり、なかなかスリル満点である。
太田奥方、もうハイテンションを越えプッツン状態である。
一人の行方不明者も無く、昼御飯である。
皆さん、寒い、寒いと震えている。
昼御飯後滝壺スイミングであるが、殆どの人が震えながら見てるだけの中オーストラリアから来た若い太ったオネエチャン3人元気組がはしゃいでいた。
夕食は海鮮レストランである。
姿の立派なイセエビ風の刺身がメインで渡り蟹に、肉、野菜 焼き飯、焼きそば、仕上げにアイスクリームというメニューである。
シャロン湾に帰ると午後10時、今日も長い1日であった。



       バンガー湾でのオカマショー(胸のふくらみは2個の風船

6月24日 天気は昨日と同じで悪いが今日シャロンへ帰らなければ後のスケジュールがこなせない。
デインギーで先発隊(Nさん、イッちゃん、ユキさん)を遊帆UFOまで運び、残り4人を積み、デインギーで快調に走っているとガス欠でストップする。
”奴隷1号、2号、3号 オール持て。”
オールは一つしかないので プラスチックの棒と掻い出し桶で漕ぐ事15分遊帆UFOに到着である。
アンカーを引き上げ外海へ出ると、向かい風 向かい波の為、船足4ノットでない。
進路を目的地シャロン湾より北へ向け、プーケット島影へ入り、波を避ける。
約、3時間程走った所あたりから、何とかキツイ向かい波が治まってくる。
午後5時シャロン湾に入るが、西の空に雨雲がでて今にも雨が降りそうである。
ギリギリのタイミングで無事遊帆UFOクルージングを終えてホットする私であった。
上陸すると、サウナとタイマッサージ、夕食に行かねばならない。
ピックアップトラックの後部部屋にしたタクシーを見つけバトンビーチまで行く。
8人で1台なので前4人、後部座席は4人の配置である。
”後は、どんだけ暑い。酸欠で死にそうやった。”
ドライバーが後の窓を開けるのを忘れていたらしく、死ぬ程大したこと事はないが一応大変やったねと慰める事にする。
オーシャンプラザのタイスキ屋へ行く。
k先生は、タイスキウエートレスが注文を聞きにくると、玉じゃくしを目に当てる得意のポーズで笑わせている。
味は、韓国コチュジャンタレでカラミが効いて旨い。
k先生は私の説明を聞いていないので、具を直接タレにどっぷりつけて
”この料理、辛いな。辛いな。”
と、涙目である。
無事、食事終了、次はオカマショーである。
入るとショーの間の繋ぎで、ムサクルシイ男が舞台の上で腰をくねらせて踊っている。
”k先生、あんたも服脱いでパンツだけで舞台に上がり。”
そうこうすると、ショーが始まる。
マイクを持って口パクで踊るのであるが、お客を惹きつけているオカマはオヒネリを貰えるのである。
蕎麦打ち名人が歯抜けお化け化粧のオカマに50バーツのオヒネリを持っていくとオカマは大げさに手を合わせて目を大きく開き頭を何度も下げて喜ぶのである。
こうして、今日も長い1日が無事終ったのである。


         バンガー湾洞窟

23日 8人と荷物、食料、果物、氷を遊帆(UFO)に積み込むのにデインギーが大活躍で2回往復する。
この季節インド洋からの西風が吹き波高3mだが、シャロン湾からピーピー島へは追手で走れる。
辺り一面白波が立っているが、風は15ノットまでで快適なクルージングと言わなければならない。
昨日まで、雨が降らなかったが今日から本格的雨季の天気に入りそうである。
”明日帰ってくるときは、もっと揺れるかな?大丈夫?”
と、太田奥方がテンションの上がった顔で心配そうに尋ねられると、明日までいらぬ心配をしないように、
”ダイジョーブ、ダイジョーブ、ダイジョーブ。”
と、口で安心させるしかない。
蕎麦打ち名人とイッチャンが船酔い気味で、太田奥方は船酔い止めの薬を飲んできたので何とか大丈夫との事である。
その他、オッサン達は問題無しである。
昼は近くで仕入れたオカズと御飯を、ビールで流し込む。
果物は朝市で買ってきた、マンゴー、マンゴースチン、ランゾニー、パイナップル、ドリアン、もう一つは名前が分からない。
”ドリアンは臭いな。 頭が痛なるな。”
との、太田主人のクレームにより早目に皆さんの胃袋の中に処分する。
6時間後、鋸歯のように切り立ったピーピー島岩壁を回り込むと嘘の様に波静かになる。
スペースが無い所にアンカーを打つがどうも危ない様なのでアンカーを引き上げる。
ウインドラスはチェーンを噛む可能性があるので、奴隷1号(K先生)以下7号まで豊富な人力を使う事にする。
ピーピー島上陸も2回に分けなければならない。
ピーピー島のメインロードは幅3m長さ3Kmも無く両側にダイビングショップ、レストラン、土産物と並んでいる。
両替を済まし、土産物屋をヒヤカシながら今日の宿を探しに行く。
エアーコン、ホットシャワー付きバンガロー型ゲストハウス(850バーツ)に決めるが気が付くと一人行方不明である。
蕎麦打ち名人がいない。
”チェックインして一息ついたらレストランまで来てか。”
と、言い残し一人先に蕎麦打名人捜索である。
道は3Km、他に道はそんなに無いからと思い、デインギー上陸場所まで戻るが見当たらない。
もう一度レストランの方へ戻ってしばらくすると、不安そうな顔をしながら蕎麦打名人が歩いてくる。
”ああ、会えて良かった。どこか浜ででも寝なあかんか思ってた。”
暫くして、本隊到着すると椰子の木陰に顔を隠す蕎麦打名人である。
もう、皆さんから散々酒


        バトンビーチ  

レンタバイクで、島巡りをする。
2台を借りて、福井さんは一人乗りで、ユキさんと私が二人乗りで、ユキさんが運転するが、ギヤ−が自分のバイクとは反対になっているとかと言う言い訳で、何度もシャクリながら走るので 私はムチウチ状態になる。
最初は、市内を北に抜けて、博物館に寄るが、資料は無く期待はずれであった。
途中、綺麗なタイの仏教寺院があるので、見学させて貰い、西側リゾートビーチに向かう。
西側で大きなリゾートの町、バトンは、リゾートホテルに、おみやげ物ショップ、白い砂浜、ビキニ姿のオネエチャンと観光パンフレット通りの光景である。
ユキさんは、バイクの運転も前を見ていない。
海岸でトップレスのオネエチャンに視線は吸い寄せられている。
このまま走っていては危ないから、ここで昼ご飯と言う事にして、ユキさんは、調査をかねて見学に走る。
”白人のオネエチャン、メロンみたいなオッパイまるだしで、後ろはT−Backやったで。
知ってるか?。T−Backいうのは、お尻の所紐一本だけやねんで。”
と、ユキさんから 貴重な詳細情報を得る。
”う〜ん。T−Backに、メロンね。おいしそうね。うまい事言うね。”
と、貴重な詳細情報を映像化して聞き入る。
タイの新聞に、イスラム教の国マレーシアでは、白人旅行者のビキニが問題になっているとかいてあった。
見慣れたユキさんでさえ、気分はハイ、目は吸いつけられるのだから、イスラム教で育ったマレーシアの純粋でまだ悟りの境地まで行っていない若い男性は目が点になるのはしかたがないだろう。
イスラム教では、女性は、人前で肌を見せる事等、絶対に無いし、プールでも男女一緒に入る事は無い。
目に余る白人女性のビキニ姿に業を煮やした、マレーシア政府は、女性と男性のプール&海岸を別にする事を立法化する事を検討中との事であった。
この法律ができれば、マレーシアリゾートは、閑古鳥が鳴く事になるのは明らかだ。
もう一つタイの新聞にヨットの入国税に関する事が書いてあった。
タイ(プーケット)は、ヨッテイーの沢山集る所で、ヨット関連産業も盛んであったが、タイでヨットを売買する人が多く、輸入税をかける事ができないので、1ヶ月以内にタイを離れないヨットは、多額のお金を、政府銀行に預け出国時に返還してもらうシステムであった。
この法律を実行してから、タイに立ち寄るヨットは激減し、タイヨット関連産業は成り立たなくなってしまい、ランカウイ島(マレーシア)に移ったと言う事で、再度変更し6ヶ月間は、ヨットは無税でタイにおける事になったのである。



           ピーピー島

13日 今日は Phi Phi Islandと言う所に向かう。
この島は、プーケットの南東約20マイルに位置するリゾートアイランドだ。
湾内は、東側が浅く、西側の断崖に沿って入港する。
アンカーを降ろし、両替えをして、1泊400バーツの部屋を借りる。
日本円で1200円程だが、長屋風で各部屋にはトイレシャワー扇風機付きで悪くない。
幅約500m程の砂浜を挟んで北側にも湾があるが、こちらは遠浅でヨットには不向きだ。
昼にピザを食べる事になり、ドイツ人が主人の店でピザを食べる。
タイの店員が、自分達の料理を作って食べている。
大きな豆のようなものを市場で見かけたが、それを皮をむいて食べている。
”それは、豆か?”
”これを食べたら、明日はピーピー下痢だよ。”
と、私と同じスキンヘッドのドイツ主人が1粒くれる。
こんな豆一粒位で 下痢をするようなやわい腹やないで、と高をくくっていた。
味は、豆のような豆で無いような、結局分からない。
が、この一粒、よく効いたのである。

14日 朝から、ピーピー。(この島の名前と同じ)
チョット 腹に力をいれると、私の制止もきかずかってにウンコが出てきそうである
タクシーボートはいらないか?と若いオニイチャンが寄ってくる。
値段交渉。3人で600バーツ〔1800円)で、Phi Phi Le島に島巡り観光をする。
この辺りの島は、天に真っ直ぐ立つ岸壁になっていて人が簡単に上陸できるような所は少ない。
この島は、ツバメの巣の洞窟があり、竹を組んだだけのはしごを登って取るのだそうだ。
壁には、800年前の中国船の絵が書かれていて、そんな古い時代から中国人は食材を求めて、こんな所にまできていたのである。
次ぎに、南に下がると小さな湾があり、水深1mも無い。
タイの船は車のエンジンに長いシャフトを出してどんな浅瀬でも入れる構造になっている。
四方を断崖絶壁で囲まれており、別世界にきたようだ。
水はクリアーで、ユキさんと福井さんはシュノーケルを楽しみ、私は昨日の一粒のお陰で脱水状態で目もうつろ。



          タイ西海岸の奇島

12日 プーケットに向かって、出港するが、風も無くスピードはでない。
日が暮れてしまったので、Lanta島にアンカーをおろす事にする。
湾内は、浅く人家の明りの見える所まで、寄って行けない。
とりあえず、船を泊めて、テンダーを降ろし、タイ上陸第1歩に挑戦する。
二人乗りのテンダーに3人乗り、2馬力の船外機なので着岸まで約20分はかかっただろう。
上陸した所は、漁村のようで、近所のオジサンが出てきて、何か言っているが、全然通じない。
オジサンは”ユー”だけしか言わないし、ユーだけしか知らないようだ。
こちらはタイ語は全く分からない。
例の、身振り手振り言葉しか、共通語はない。
”オジサン。腹減った。 何か食べるもん無いか?”
一応、英語を声に出しながら、下手な役者の様に手で腹を押さえ食べる演技する。
 ”ユー。”
付いて来いという意味。
タイの時間で、夜9時近いので、どこも閉まっている。
”ユー。”
もう一回付いて来いという意味。
そこは、小さな雑貨屋さんの感じで、体格のがっしりしたオカアサン(約90Kgs)と娘(中学生位)と息子(小学生)が奥の部屋でご飯を食べている。
”オカアサン。それ。ご飯チョウダイ。 それにビール。鰯の缶詰と野菜の缶詰お願いね。”
冷たいビールで乾杯後、かき込む様にご飯を食べる。
今回、出港時にそんなに食料を積まなかったので、お腹が減っていたのである。
腹が膨れて支払いになって、タイのお金が無いので、オジサンに相談する。
”ユー。”
今から、バイクに乗って町まで両替えに連れて行くから後ろに乗れという意味。
オジサンと二人で、バイクに乗ってデコボコ道を町らしき所まで行くが、何処も全部閉まっている。
チョット、英語の話せる人がいたので、
”50RMは約500バーツ。支払いは300バーツやけど、おつりは結構です。”
”ユー。”
意味は分かったから、バイクに乗れという意味。
オカアサンの所へ帰り、皆さんにお礼を言って帰る。
タイ上陸 第一歩に会ったここの人々はとてもやさしく、おおらかであった。
有難うはタイ語では
”コップンカップ”
と、いいながら両手を合わせお祈りするような格好で頭をさげる。
最初にされた時は 
”私は仏さんやないで。”
一瞬とまどってしまったが 冷静になるとなかなか気持ちの良い挨拶だ。
これから私も タイ式に両手を合わせ
”コップンカップ”。
どんな状況にも使える。



         ランカウイ島 クア湾

ここランカウイ島は、DutyFreeなので、あちらこちらに大きなショッピングセンターがある。
中はクーラーが効いて涼しい。
お土産様工芸品がなかなか手が込んでいて面白いものがあるが、プータローはミテルダケ〜だ。
5時ごろ船に戻ろうと思ったら、潮が引いて500m位砂浜が見えている。
Wayneのテンダーは無いのでもう帰ったのだろう。
ゆっくり飯でも食って帰ろうとビーチの露店レストランに入る。
(入るという表現は露店なのでおかしいかも、とりあえず椅子に坐る)
オニイチャンが、魚介類を薦めてくれるので、ワタリガニ20cm位のをチリニンニク唐辛子炒めを注文する。
鍋を振っているのは、スカーフをしマレー民族衣裳を着たオネエチャンだ。
ここマレーシアは、マレーの民族衣裳を着ている女性が多い。
服はカラフルで、なかなかおしゃれだが、モスリムの為スカーフを頭にしている。
日本の民族衣裳は、もはや冠婚葬祭位しか着られない。
今や、若い日本女性は、雑誌のファッションを追っかけ、誰も彼もが同じような格好と化粧をし、それが、個性的だと勘違いしている。 
ファッションはもっと自分の考えが表現されるべきで、カタログの広告塔みたいなのがファッションではない。
全て、海外(特にアメリカナイズ)のものに替えないで日本の伝統的文化も守るべきだろう。
というような事を、感じながら、ワタリガニをかじる。
身は卵を抱いていて、味付けも旨い。
食べ終わって、オニイチャンに、
”私のテンダーあんたの店の後ろ、あそこの海岸にあるでしょ。水際まで運ぶの手伝って。”
”アイヨ。”
という感じで気軽に請け負ってくれるが、本当は大変なのだ。
一番水に近いところでも300mは運ばねばならない。
”オニイチャン これでジュースでも飲んで”
と、イラナイというのを、無理やり5RM渡す。
本当に、助かりました。



          ランカウイ島 白頭鷲

25日 午前9時、アンカーを揚げて Langkawi島に向かう。
港の入口手前 7マイル位の所で、突然エンジンストップ。
この止まり方は、燃料系統トラブルだ。
オイルフィルターを外し、パイプを直結してみるが、すでに高圧パイプまでエアー噛みのようなので、エンジンンはかからないので、セーリングで入港する事にする。
南の入口は島と島の狭い間を通って行かねばならず、尚且つ水深が浅いらしいがこちらは問題無い。
アビームの風が吹いてきたので、4ノットのスピードで、海峡を進んでいく。
狭い島影になると、風は落ちる。
結局そこから5時間程かかって 入港し、アンカーを降ろすと夜中の11時になっていた。
”Peter。あんたの苦労良くわかるよ。”

26日 朝、Wayneと上陸して、町を見学に行く。
といっても、ショッピングセンターとインターネットを探すだけだ。
途中、Wayneが道を後戻りして看板を見に行った。
”ここは、ゴミをほかしたら罰金2000RM(8万円)らしい。パナイ島は500RM(2万円)やったけど。”
その為か、町は綺麗で本当にゴミは見当たらない。
罰金もこれくらいハッキリしていると、徹底されて良いかもしれない。
法律は、作るときは、官僚に任せず政治家が自分の責任で、作り、議論する時は建前ばかりいわず、本音で例外or 特例の無い、一度作ったら、国民平等に厳格に守らなければならないようにすれば、国民もええカゲンに政治家のする事をミテルダケというわけにはいかなくなるから良いかもしれない。

この島 Langkawiは古くから存在を知られていて、色々な伝説があるらしい。
名前の由来は、Langとは白頭の鷹か鷲の事で、Kawiは赤茶色という意味らしい。
この鷲が、島へ宝物を持ってきたのだという。
現代の鷲(飛行機)は、やはりこの島に宝物〔観光客)をもたらしている。
遊帆 UFO はその町の象徴の鷲のモニュメントの前にアンカーを降ろした。
Wayneと別れて私は、ランカウイヨットハーバー見学に行く。
施設は、揃っていて素晴らしいが、料金は安くない。
遊帆 UFO で月に2万円程掛かりそうだ。
この近くにジェッテイーポイントという、島の出入口のターミナル桟橋があり、ここから
タイ、ペナン シンガポール等へ、船が出ている。




       ペナン リトルインデイア

船を泊めている前が The Gurney Hotelという。
なかなか、立派なホテルでここでインターネットの接続をお願いする。
相手してくれたのは、インド人の若者で、打てば響く受け答えと、サービスだ。
ガイドマップを貰い数件のレストランと、見所を教えてもらう。
ガイドブックでは、町の中にリトルインデイアがあるので、晩御飯を食べるついでに見学に行く。
成る程、インドのCD、神様グッズ、服、雑貨。etc。
インドのTV チャネルで見た映画は、歌と踊りが延々と続く。
ストーリと関係有るのか無いのか分からないが、出てくる全員がダンスをし、何処でも歌いダンスするのだ。
服を売っている店で、男者のインド服を買う。        
この服は頭から被って、足の膝辺りまでのズンドウの形で、腹の出ている私には理想的で、締まる所がないので着心地が良い。
速く言えば、入院した時に着る服と同じ格好だ。
生地はインドの細番手綿糸を使った縦縞の織り方で、少し透けた良い生地を使っている。
私のスタイルは大抵半ズボンにシャツ、頭には椰子の葉で出来た帽子、赤のバンダナにサングラス。
背中にリュックを背負い、出っ腹の短足にスリッパを履いて何処でもウロウロしている。
こんな格好だから、大抵一発で日本人と当てる人はいない。
        
次ぎに、インドレストランに入る。
”カレーで、オイシイカレーを頼みますわ。”
”OK。野菜カレーとチキンカレー。ライス。とナンいるか?”
”私は、麺好きだから、ご飯とナンの2つともチョウダイ。”
出てきた野菜カレーが旨い。
野菜だけでこんなにコッテリと美味しく味付けができるのかと感心する。
ナンがパリとしながらモッチリとしていて味があり、セブのイタリアンの店パウロが焼くピザ生地そっくりだ。
インド人の若い夫婦と3歳位子供連れの家族が、よこにのテーブルにいて、自分達の注文したものをチョット試しに食べてみろとしきりに薦めてくれる。
”アリガトウネ。今はこんなに沢山食べて腹1杯だから、名前をメモしておいて明日食べてみます。”
インド人もフレンドリーで親切だなと感じてレストランを出る。
私の場合、陸に揚ると自分の短い足だけが頼りだから、テクテクと船のある方向へ向かって出きるだけ直線的に進む。
道路の真ん中に公園があったので、勿論ショートカットで抜け様と歩いていると泥濘に入ってしまった。
”チクショー(ニールなら シット&ファックを3回位は言っている)。このスリッパはよく泥に入るヤッチャな。”
自分の不注意を棚にあげて、スリッパのせいにする。
とりあえず、洗わないと気持ちが悪いが、こちらでは水道が外に出ている事はないので洗えない。
道路に先程降った雨溜まりがあるからそこで足を洗いながら、進んでいく。
まるで小学生にかえって、雨上がりの水溜りを選んでは、ジャブ ジャブと靴のままで入って家に帰って怒られた時のようだ。
どこからか、マイクで何か懐かしい歌が聞こえてくるが、歌詞は全然分からないのですぐに思い出せない。
暫らく一緒にハミングして、”柳が瀬ブルース”の現地語版であるのが分かる。
”暑い国で演歌もええがね”とマタマタ 感心するのだった。




         ペナン ジョージタウン

午前3時雷とどしゃ降り雨と風が出てくる。
この調子だと予定より速く着くので、Pinang島の西側外海を走る。
夜明けに島の最北端の岬を回る。
島は高度800m位の山と綺麗な海岸線が続く。
船からみると島の北側にあるマーメイドビーチは私好みだが、とりあえずGeorgetownの近くまで行って見る。
Georgetownの北側に湾になっていて町からも近いし波は入ってこないが水深が2mを表示していると言う事は3mだ。
暫らく昼寝をして、上陸。
お昼ご飯を食べに行く。
町の建物は、イギリス風(行った事はないが、写真で見た)の、前庭がありどっしりとした建物があちらこちらにあり、リース或いは売りに出されている。
Pangkor島ではマレー料理が多かったので、中華、といっても例の屋台の麺類を食べる。
ここも食べる所はxxx茶室となっていて、店の前に3台車着き屋台がでている。
3軒とも麺だけしか作らないのだが、味付けが違う。
ワンタン麺 炒河粉 伊府麺 歯麺(日本語にはこの文字は無く意味は”煮詰める”とい感じ) 福建蝦麺 炒果(これに言ベンがついた漢字)麺 福建炒 とこれだけの種類を3軒で分担している。
この内の違う種類三つを注文し豆乳とコーヒーで10RM (約400円弱)にならなかった。
ここもやはり隣はインド人モスリム料理の店で、お客はこのxxx茶室で食べている。
この屋台の収支計算シュミレーションしてみる。
どう多く見積もっても、一日100杯は無理だろう。
平均単価を2RMとすると200RMの売上、利益を50%として100RM(約4000円弱)の商売をオカアチャンと2人でやっているわけだ。
それでも、オトウチャンもオカアチャンも実に愛想よく、料理を作るのが楽しくてしょうがないといった風情だ。
これを、日本で始めるとなると、警察で露店商の許可を貰わなければならない。
この許可は、建前はおりる事になっているがまずおりないらしい。
からはじまって、食品衛生保健所の許可、消防の許可等 、スタートまでに沢山クリアーしなければならない。
中国人の場合、どんなに綺麗に店を装飾してあっても、旨くなかったら流行らないし、非衛生的だと客はパッタリと途絶えてしまうそうだ。
お客自身が厳しい判断をしていることになる。


          パンコール島 夕日と遊帆(UFO)

今日の碇泊地は、Pangkor島あたりにした。
この島は緑で被われいたる所に湾ときれいな海岸がある。
第二次世界大戦では、日本軍は勿論マレー半島を南下したのでこの島も一時占領下にあったようだ。
といういのも、パンコール島戦記という名前が、図書館の本棚で見た記憶があるのだ。
エメラルド湾という名前がついている様に、海の色はグリーンだ。
私は、マラッカ海峡に入ってからは海の色はずっと鶯色だと感じている。
エメラルドグリーンまではいかなくても、黒潮の藍がかったブルーとは違う。
塩辛さも薄いように思う。
小さな湾(ニッパ湾)にアンカーを降ろし、上陸すると、大資本リゾートではなく町のリゾートが並んでいて、食事も出してくれる。
今日は、モスリムの店に入り、赤ダイを唐揚して甘酢アンカケにしてもらう。
それに、スープがわりに、ビーフン湯麺 ライス アイスレモンテイー 全部で15RM(約550円)。
昨日は寝不足だから、今日はゆっくり寝ダメをしよう。

この綺麗な湾が気に入ってしまった。
砂浜は細かい白砂でゴミは落ちていない。
足の裏にあたる感触は、泥のようにソフトだ。
海岸には、家族連れやら友達同士で泳ぎに来ている。
モスリムの女の人は、服のまま また 頭のスカーフをしたまま泳いでいる。
殆ど裸の水着をきているのは、白人だけだ。
日焼しないし、クラゲにさされないから、良いかもしれない。
私も、綺麗な海なので船底をチェックに潜る。
これだけ毎日走っていて藤壺も引っ付く暇がないだろうと思ったが、少し付いている。
昼からは読書と昼寝.
風が入ってきて実に気持ちが良い。
急ぐ旅でも無し、昼はゆっくりして、夕方からでて次ぎの目的地Penangに向かう事にする。
大体、夜になると風は南から吹きその上ナイトクルージングは暑くなくてよい。
夕方5時ごろ、誰かが外で呼んでいるので、出てみると、40才位のオジサンと男の子2人がボートに乗っている。
”こんにちわ。私はノンです。”
という話から、来る時に通りすぎた島の間に自分の奥さんが働いているから、
一緒にボートに乗っていかないか?帰りは自分のバイクで送るからという事だ。
”じゃ〜.お願いしますね。”
という感じで彼の船に乗る。
YAMAHA85Hpの船外機でスピードをだすから、海の上を飛んでいる様だ。
上陸するとここも沢山のレストランがあるので、奢るから一緒にご飯食べ様と誘う。
イカを3匹バターを塗ったバナナの葉で包み焼いて貰う。
もう一品は子供に何が良いか聞くと、エイがおいしいという。
私は、韓国のカオリでエイには懲りているのであまり気が進まないが、こんな子供がおいしいという位だから、間違いはなかろうと、エイもバナナの葉で包んで焼いてもらう。
ここのエイは全然臭くなく旨かった。
一人は小学校2年 もう一人は5年位か。
小さい子がノンの子供で大きい子は兄貴の子供だそうだ。
この二人、目がかわいいしすぐに私に慣れて、しきりにオバ〜タと名前を呼んでくれる。
食べ終わって、彼の奥さんの所へいくと、ハンバーガーを焼いて売っている。
奥さんは体重100KGSはあるんじゃないかと思うくらいがっしりとした肝っ玉カアサン風だ。
近所の店を見に行くと、二人の子供はずっと付いて来てくれる。
帰りは、彼の子供と3人でバイクに乗ってニッパベイまで戻ってくるが、この島についてからズ〜と花の香りがしていたのが、やっと思い出せた。
島全体にキンモクセイ(or ジャスミン?)の花の香りがしている。

           海の上の村

朝、出港。マレー半島の西側 マラッカ海峡に入る。
南先端から、約6マイル位の所に、島がありKukupという所にアンカーを降ろす。
ここは、養殖生簀があちらこちらにあり、海鮮料理を食べさせる町らしい。
村は、中国人が移民して出来た所で、床下はマングローブが生えていて、満潮時には海水がくる。
多分、ここは使い物にならない土地だったのを、高床にして 又 高床の道を作り 水道を引き、
電気に電話線を引いて 立派な村にして住んでいるのだ。
中国人の、世界へ出て行って、そこへ根をおろす典型的な例だ。
テンダーで何処から上がろうかと思案していたら、桟橋の上でオニイチャンがここへ着けろと手を招いている。
桟橋は板を並べてあるだけで、体重のある私に耐えられるかなと心配しながら進む。
歩くとグラグラと揺れるので 調子を取って歩かねばならない。
コンクリートで出来たメインの桟橋は、向かいのインドネシアの島と往復する船の為で、そこまで60RM(1800円)程で往復できるらしい。
インドネシアから来るお客も見ていると大半が中国人で、海鮮料理を食べるまで、マージャンをし、食べるとカラオケで歌っている。
こちらへ来たら、北京ダックのマンゴーソースとか、蟹のニンニク炒めとか 豪華なものを食べ様と思っていたが、 
やはり 一人だとこのようなものは注文できない。
結局、チャーハン類 ブタマン類 麺類になってしまう。
船に帰ろうとすると、テンダーが泥の上に乗っている。
困ったなと思っていると、又 違うオニイチャンが自分のボートで引っ張ってくれる。
親切な人々だ



           香料宝島

日暮れ前に島が見えてきた。
綺麗な砂浜も見える。
民家は海岸線に並んでいる。
19時 Serasan島にアンカーを降ろす。
上陸すると、若いオニイチャンが、話しかけてくれる。
殆ど、英語は通じない。ここからは手話がメインとなる。
”何か食べるもの?”
”ついてこい”
100m歩いた所に3坪程の店があり、地元のオジサンやらオニイチャン達がチェスをしたりドミノをしている。
ここもモスリムの国だから、さすがに酒を飲んでいる人はいない。
”オバチャン、食べるものある?”
”ミー。 ミー。”
これは多分インスタントラーメンだ。
”OK、2つに卵入れて、お茶とね。”
食べ終わって 支払いだが勿論インドネシアルピアは無いので、マレーシアリンギットを見せる。
そこにいたオニイチャンやらオバチャンやら,オッチャン達が、交換レートの会議を始めたようで暫らくワイワイやっていた。
どうやら、意見がまとまったようで、10リンギットという。
ラーメン2つ卵2つ入り 紅茶に冷たいソフトドリンク 約300円 こんなもんか?
やはり どうやらインドネシア密入国(聞こえが悪いから、知らんまに入国に変更)したようだ。
人々は温和でフレンドリーである。
夜なので分からないが、他に店は全くないようだ。
若いオニイチャンの名前はデビッドだそうで、
”ジーゼルオイル買えるか?”
”問題無い。 明日朝買いに行こう。”

朝、8時デビッドが自分の船でタンクを取りに来てくれる。
ここの船は、細身で櫂を立って手前で交差して押して漕いで前に進むシステムだ。
一緒に、村へ上陸して燃料入れてもらってる間、村を見物する。
家は海へせり出した作りでゴミ 使用済み水は海へ落ちる仕掛だ。
海からの風が床から入り快適そうで、家全体は小奇麗にできている。
庭に筵の上に沢山の丁子(グローブ)を干している。
島は丁子の木は勿論、椰子 バナナ、パイナップルその他で緑がいっぱいだ。
その昔は宝島だったのだろう。
地元の人達は、これをタバコの様にするのだというが、良く言葉が通じないので分からない。
インドネシアの子供達は、フィリッピンの子供達のように目がパッチリとしてニコニコしていて、かわいい。
デビッドが燃料を運ぶのを助けてくれる。
燃料をタンクに入れていると、ポリスが3人やってくる。
その中の一人は、あんたほんまにポリスか?と聞きたくなるほど、制服が似合わない。
さっきまで、そこらで魚とってたんと違うか?
とりあえず、例の手だろうと思い暫らく様子をみる。
ナンヤカヤと言っているが、スーベニアー(お土産)ないか?
ハイ。ハイ。要約核心に来ましたね。
という感じでサンミゲル小ビンを1本づつあげる。
その中の一人は、もうビールの栓を歯でかじっている。
そんなに、急がんでも栓抜きあるから使いな。
モスリムもエエカゲンな所があるなと、変な所で親密感を覚える。
ニコニコしながら帰っていく。
この手で インドネシアはクルージング出来そうだ。
これからは、タバコも用意しておかんとあかん。
本当は、インドネシアはヨットのクルージング許可は難しいというような事をヨット仲間が話していたのである。
世話になった、デビッドには、シャツとビールとジュースをあげる。



          ヒンヅ―寺院

シンガポール海峡の最初の浮標を通過、時間調整の為セーリングをしているがまだ速い。
前方、シンガポールの島の上が明るくなっている。
シンガポールとマレーシアの間、地図では橋があるので通過出来るかどうか分からないが、そこまで行く。
この水路は水上警察船が何隻もいて、守備範囲を決めているらしく、私の船の先回りをして、二隻がくっついて待っているが、わたしの船がそこまで行くと又先に行って待っている。
そうでなかったら、左に上がればシンガポール、右に上がればマレーシアだから、無断で入国できるわけだ。
橋のある所はやはり通過できないので、そこにアンカーを降ろす。
バッテリーは充電されていないので、ここでスイッチを切ればエンジンはかからなくなる。
ここで、オルタネーターの修理と配線の点検。
ラダーのガタツキ修理、ステイ類の緩みの締め直し、をやる予定だ。
それにどこかで洗濯したい。
今日は、バッテリーもあがって電気も使えないので、ホテルに泊る。
船から上がった所は、水路に沿ってレストラン(屋台風)が並んでいて、奥はシンガポールとのフェリー乗り場で、免税店が並んでいる。
ここで、酒とお土産用タバコを買わないといけない事はないが、やはり買わないと。
ここ何日間か船の上ばかりだったので、何かウマイモン食べたい。
海鮮タイ料理(屋台風)へ入る。
オニイチャンが注文を聞きにくるが 英語は一言も分からないようだ。
しかたがないから、人の食べてるのを見て注文し名前を聞き、メニューのどれか聞くがこれまた一向に要領を得ない。
食べてるお客さんの方が、親切にこれですとメニューを指差してくれる。
”オニイチャン。要領分かったやろ。この調子で頼むわ。”
と言う事で、やっと聞き出したのがNasi Darging Merah (鶏肉と玉葱の煮こみをご飯に掛けたもの)
Mee Goren(ソバ焼き) Tomyam Campur(シーフードミックスのトムヤンクンスープ) 紅茶 合計 15RM(約500円) どれもとても美味いし、しかも安い。
タクシーに乗ってそこから5分位の所に町(Johore)がありそこのHotel(65RM約2000円)にチェックイン。
カウンターにいるオカミさんがパスポートを見せてくれという。
”ゴメン。船に忘れてきた。”
”あんた、パスポート持ってなかったら、密入国者と同じで、もし何かあってポリスに提示を求められたらどうするねん。”
”そうやね。オカミさんのいう通り。これからフォトコピーを持ってるようにするわ。”
私も、日本という純粋培養の中で育っているので、パスポートなかったかて、日本人て分かるやろ、と思っていたが、ここマレーシアは多民族国家で 顔や肌や姿や言語でマレーシア国民と判断できないのだ。
今も、ホテルに入る前に、町を歩いたら、ヒンズー寺院の前に屋台が大集合していて、作っているものも人も、様々だ。
小学生の時、私は神戸に住んでいて、その当時は新開地というと、繁華街だった。
友達の家が新開地に沢山いたから遊びに行った時に、ついでに湊川公園ヘ行くと、道で人を集めて蛇を出したりしながら何か薬を売っていたが、ここでも、同じスタイルで中国語で啖呵を切っているのを見ると懐かしくじっと見てしまった。
文化と人種のゴッタ混ぜ状態で刺激的だ。
とりあえず、今日は船が座礁したり船にぶつかったりする夢等見ずに、ホテルでタップリと寝よう。



         浜に乗り上げる遊帆(UFO)

フィリッピンのボンボノンという天然の湾にヨットマン達が集まってきます。
ブルースの井戸には、大体午後4時ごろ洗濯 水汲み 体洗いの3つをこなしに行く。
毎日顔を会わすので村のオカミさんとも顔馴染で、私の簡単横着洗濯を珍しそうにみている。
私は、バケツに入れた洗濯物に洗剤を入れ足で踏みつけて2〜3回すすぎで終わりだ。
オカミさん達は、沢山の洗濯物を一つ一つ丁寧にブラシでこすって綺麗に洗っている。
何日か前、寂しい一人モンの夕食パーテイーを我UFOでやった時、ここで何の商売がええかな?みたいな話になった。
フランス人オバチャンジェリーはインターネットカフェがあったらええと言う意見。
私は、
”露天風呂に入れたら最高やな。風呂の中で月と星を見ながらビールを飲むなんて天国やで。私だけでも毎日くるで。”
と単に自分の希望を述べる。
スペイン人エンリケは、コインランドリーはどうか? とそれぞれ勝手な意見だ。
日本では想像がつかないくらいに ここでは洗濯は大変な仕事なのだ。
まず家から洗濯物を井戸端まで持ってこなくてはならない。
バケツも盥もブラシも洗剤もいるのだ。
次ぎに 蛇口を捻れば水が出るのと違うから ポンプで何回も上下させて水をくみ上げなければならない。
ここから洗いモードに入るのだが、ブラシで一つずつこすっていると、大体1時間は坐りこんでいる。
次ぎにすすぎモードに入ると 何度も水を汲み上げなければならない。
次ぎに搾りモードは 渾身の力で両手で捻って搾るのだ。
かたずけモードに入ると、洗濯前より水を含んで重くなった洗濯物を家まで運ぶのだ。
文章で書くだけでも疲れてしまうほど大変な事なのだ。
村のオカミさん達に、
”毎日 洗濯ね?”
と 聞くと週に2回位らしいが、それでも大変な仕事だ。
しかし ここではコインランドリーは はやらないだろう。
何故なら、現金収入の仕事は殆ど無いので、村人が洗濯にお金を使うこと等考えられない。
と言うようなわけで、我々の ベンチャー企業のアイデアも夢でおわるのである。



        子豚丸焼きパーテイ

スイス人ヨットマンのWolfgangが、最近チャーターヨットのアルバイトをして、儲かったのでみんなに御馳走するという事で、村の子豚を1匹買ってバーベキューをすることになった。
今日の朝9時に解体を始めるから興味のある人は見に来いという事で見学に行く。
今回の豚チャンは メスの子豚でイノシシの牙のないやつで、もう自分の運命を知っているかのように、落ち着かない様子でしきりに鳴いている。
押さえにかかると、これが最期とばかりに猛烈な泣き声を出す。
足を縛り耳を押さえて、喉元からナイフを刺し込み、心臓を切る。
大量の血が出てくるが、これは鍋に受けて塩を入れてかき混ぜ固まらせて湯がく。
子豚チャンは、可哀想に血を流しながら眠る様に死んでしまった。
死ぬ時の命等、本当にあっけなく終わってしまう。
Wolfgangも、見るのははじめての様で可哀想ねという表情だ。
私は、ここぞとばかりに 子豚チャンに向かって
”Wolfgangが殺人者や。恨むんやったらWolfgangの所へ文句を言いに行けよ。”
と、言ってやる。
彼も、こんなんやったらこの子豚買うんやなかったという表情である。
その後湯を掛けながら毛をそって 内臓を出し、お腹に香草を入れて竹でお尻から口へ突き刺し火で5時間程照り焼きにして、豚の形の盆に乗ってでてくるのである。
盆に乗ると朝の残酷な光景は綺麗に忘れて我先にナイフを持ってニコニコ顔で舌なめずりしながら切り取りに走るのである。
今夜は、ポールの家で飲み物各自持参で、25人位が集まった。
食えや、飲めや、歌えや、踊れや、しゃべれやの盛り上りパーテイーとなった。
帰りの挨拶でWolfgangに
”今夜は有難うね。うまかった。来週もまた頼むわ。” 
人間は、本当に一番怖い動物である。



         キナバル山

フィリッピンネグロス島 デュマグエッテイからマレーシア サンダカン行き、 Alison Shippingのフェリーに 午後5時乗船。
この船は中古船で、小豆島あきつ丸がLadiy Mary Joy2と名前を変えて運行しているので、あちらこちらに日本語表示がされている。
午後10時 ミンダナオのDapitan入港 翌日 午後3時40分 Zamboanga入港。
同日 サンダカンへ出港予定がキャンセル 2日後に出港となった。
乗船中 操船ブリッジを 見学し海図を見て 位置を確認していると、フィリッピン人の船長が
”君も船をもっているのか。それで この辺をチェックにきたのか。 自分は 5年間 日本人船長の元で日本各地へ行った。
日本人船長は英語が話せないから いつも船長室で酒を飲んでたね。そのうち給料が高いから 韓国人船長に代わったよ”
と、懐かしそうに話してくれた。
予定外スケジュール変更の為、Zamboangaの町を見学できる事になった。
町は、やはり ちょっと雰囲気が違って、モスリム信者が多く、頭にはベールを被った女の人が多い。
”暑くないか?”
”これは かえって涼しいのよ”
”女の子は 何歳からつけ始めるの?”
”人により それぞれ違うけど 早い子は小学生から着るよ”
ハンバーガー屋へ行っても必ず 豚肉は問題ないか?と聞かれるので、無宗教の私は
”豚でも牛でもトカゲでも蛙でも何でもOKよ”
と、まるで 中国人のように答える。
10日  午前12時 乗船。
同じ船 同じ船長&スタッフとワッチしながら マレーシア サンダカンへ次の日午前10時頃入港する。
大きな船の為 岸壁20m位の所で 停船し そこからは もやいを放り投げて 巻き上げ機でゆっくり岸壁につけていく。
バウスラスターもついていて これやったら遊帆UFOより 楽だ。
ゆっくり 支度して 入国手続きをするが、入管の職員が少なく、ゆっくり やるのに加えて 割り込みが多く、3時間列に並んでやっとマレーシア第一歩を踏む。
まずは 両替のお兄ちゃん達が寄ってくる。
周りの人に聞くと結構正直に商売しているらしいが、交換レートが分からないので、念の為 少しだけ換金する。
次は 腹ごしらえに屋台でマレーシア料理をつくっている一番太ったオバチャンの店に飛び込む。
蟹のテンプラ風 イカ墨煮 野菜炒め 等をとって食べるが、これまた ウマイ!
これからが 楽しみだが、物価はフィリピンの2〜3倍の感じがする。
特に フィリッピンのサンミゲルビールと違ってここのビールは日本並価格だ。
マレーシアはイスラム教が国教だから酒は禁止なのだ。
サンダカンから バスに乗って コタキナバルへ 向かう。
バスは大きく座席も幅があり トイレも着いていて 冷房も効いて おまけにビデオまで放映してくれる。
昼食の為にコタキナバル山(高度 約4000m)の麓の町 Ranau(高度約1000m)町の インド人経営モスリムレストランに止まる。
インド系の顔をしたオニイチャンが 薄いパン(多分 ナン)を焼いている。
娘さんらしき女の子が注文を取りにくるがサッパリ英語が通じない。オジイチャンが少し英語ができるだけだ。
皆さん ぞろぞろと降りて 適当に昼食を注文しているので、人のを見ながら例の指差し注文方式を採用して食べる。
英語は フィリッピンのように 一般的でないため なかなか通じない。
私は ゆっくりと食べてトイレに行っていると バスが私を置いてけぼりにして出発してしまった。
レストランの主人は 指差してこちらの近道を走って バスを捕まえろ、と教えてくれる。
必死に走って やっとバスを捕まえる。
”ちょっと ニイチャン よう確認してから 出発してや”
と言おうと思ったら、ここで 運転手&助手は全員入れ替わっているのだ。
そんな ちょっとした失敗などあったが、バスから見る景色は素晴らしい。美しい山だ。



         コタキナバル

懐かしいLady Mary Joy2がサンダカン桟橋で待っていてくれる。
上陸 第一歩で食べた屋台の一番太ったオバちゃんの店に再度いく。
船内で食べる夕食を買いこむ。
オバチャンは 注文しないものまでサービスだといって色々といれてくれる。
オバチャンの心温まるお弁当を持って 船に乗りこむ。
ブリッジに上がると、船長が
”どうやった。 マレーシアは?”
”町と自然は 綺麗やけれど 人懐っこさはフィリッピンの方がええな。
それにしても 今日は沢山の乗客やな。会社からボーナス貰えるのと違うか?”
”いやいや 乗客は200人程で、あとの500人位はお客と違う。マレーシアにいるフィリッピン人不法滞在者の強制送還や”
おじいちゃん や おばあちゃん 子供も沢山いる。
若いお姉ちゃんが乗ってくるとみんなで拍手している。
不法という後ろめたさはあまり感じられない。
船員も重い荷物は運んでやっている。
マレーシアは最近不法滞在者摘発キャンペーン中のようで 警察官が市内をパトロールして道行く人にパスポートの提示を求めるのに私も出くわした。
フィリッピンとマレーシアの国境線は海亀の生息地で美しい島々(タートルアイランド)が連なっていて小さなバンカーボートで行き来可能だ。
今 人質拉致&アメリカ人の首切り事件で世界のマスコミに売りだし中のアブサヤもこの国境線の諸島を根城にしているらしい。
この辺りは、フィリッピンでも一番危険地帯なのだ。
フィリッピンは全人口の90%はカトリック教で、南のミンダナオ島とこの辺りのモロ諸島はモスリムが多いが、フィリッピン全人口の10%にも満たない。
ということは 民主主義の制度は正常には機能しなくて、長年この地方の人々は貧しい生活を甘んじてきたようだ。
次の日の朝 Zanboangaに到着。
ここで Lady Mary Joy2は又 Dumagueteに行かず Sandakanへ戻るのだという。
全く スケジュール等あってないが如く 気ままな定期船だ。
一泊して  他の船でDumagueteに戻る。
港に到着すると 女子供たちが泳いだり 小さな小船に乗って船に近寄ってくる。
下から お金を海へ放り込めと言っている。
お金が放り込まれると すばやく海に飛び込みコインを掴んで浮き上がってくる。
子供は10歳いかない位だが ほとんどコインを掴んであがってくる。
日本人の尻尾がまだついている私は この光景を見て複雑な思いになってしまう。
一体 どのように咀嚼すればよいのだろうか?
ただ 彼女&子供達フィリッピン人の底抜けの笑顔が救いだった。



          ネグロス島

途中の町、ドンサルバドーレまでの道はなだらかな登りだ。
燃料メータを見るとガソリンが少ない。
昨日ガス欠で痛い目に会っているのでどこかにガソリンスタンドないかと探しつつ登っていくが全然民家すらない。
行き交う自動車も少なく全く我道を行くだが、ここでガス欠はチョットまずい。
いやいや 大問題、へたすると野宿せなあかん。
走る事一時間半、ドンサルバドーレらしき町(戸数約30軒位)に着く。
ガソリン屋を探すと前歯の抜けたオッチャンがコーラのビンに小分けして売っている。
地獄で仏とはこのオッチャンの事かと納得する。
”オッチャン ガソリンチョウダイ”
歯抜けの仏さんは 今度は両耳を押さえて聞かザルのしぐさをする。
耳でも悪いのか痛いのかと考えたがそうではなく 英語がわからんという意味のようだ。
それじゃ もう一つの得意技 世界共通指差し手話で身振り手振りに簡単語を混ぜて話す。
”オッチャン コレネ ヒトツネ ココヘネ アカンタラン コレネ モウヒトツネ ココへネ アリガトネ”
右手ヒトサシ指一本で、これだけの事が通じるのだ。
これからはゴールドフィンガーと呼ぼうか?
マジックハンドと呼ぼうか?
”う〜ん 両方とも もうひとつやな。”
ガソリンの補給も歯抜けの仏さん顔聞かザルのお陰で満タンになりもう怖いもの無でイケイケだ。
さあ 次ぎはサンカルロス目指して出発だ。
この行程はサリサリストアーのオニイチャンが心配していた様に所々造成中の道になる。
ブルドーザーが道を作ってくれるのを待って通り抜ける。
雨が振ったりしていたら 泥んこでスリップして行けなかっただろう。
空気は澄み切って気温は20度位か、気持ちがよく、高度はすでに900mほどになって殆ど椰子の木は見ることは無くなった。
そうか、この道は未だ完成していないので車と行き会わないのだ。
サンカルロスに到着したのは4時近くになっていたがこの道は絶景だった。
が、お尻の皮は痛くなってしまった。


          マンブカル温泉

今日はカンラオン山(Kanlaon)標高2,465mの麓にある温泉リゾート、マンブカル(Mambucal)温泉に向かう。
バコロド市内はゴミゴミキラキラしていて嫌いだが、バイクで10分も走ると火山噴火の裾野の稜線がなだらかで素晴らしい。
富士山ほど高くないけど、いつも山頂は雲がかかって見えない。
マンブカル温泉まで約1時間半 入り口のサリサリストアーでコーラを飲む。
犬は道の真ん中で日向ぼっこ兼、文字通りあお向けに木(尻尾があるため)の字で昼寝、この辺のフィリッピンの犬は肝っ玉が太いのか、虐められてないのか、のんびりしている。
お店のオネエチャンとオニイチャンはニコニコして道を親切に教えてくれる。
私は、同じ道は通りたくないので ここから東海岸にでる近道があるかないか聞く。
”あるけど この道は 途中デコボコでスリップして危ないのやけど。。。”
”この モーターバイクでは 行けんかな?”
”行けん事はないけどな。。。”
と、あまり お薦めでは無さそうだ。
”山登りはせえへんのか? 二日の行程でガイド引きうけるけど。。。”
”ナニ、 2日も歩くてとんでも無い。私は、歩くのは苦手やからやめとくわ。”
ナマケモノには、温泉がぴったりだ。
ここマンブカル温泉では、近くで源泉が地下から湧き出していて硫黄の臭いが立ち込めている。
ここは、フィリッピンの温泉では珍しく家の形になっていて周りの戸を開けると更衣室とシャワーになっている。
中はプール風温泉になっていてここも男女混浴だが、勿論水着着用である。
源泉温度は45度位、 少し白く濁っているのを水で薄めているので40度くらいで日本人にはチョットヌルイ。


         カサロロ滝

エンリケとDumaguete市内でモータバイク125ccカワサキを2台借りてCasaroro滝を見に行こうと相談する。
レンタルバイクは8時間で150ペソ〔約400円)ガソリンは自分持ちでサインするだけで簡単に貸してくれる。
免許もヘルメットも必要無し、預託金も無しで持ち逃げされたらどうするのか他人事ながら心配する。
まずはタダの地図を仕入れに観光役場に行く。
親切に道も教えてくれて地図もくれる。
フィリッピンの道を自分で走るのは始めてだが、バイクのスピードと風が気持ちが良い。
いよいよ山道に入るともうマウンテンモーターバイク並みスリルで、急勾配の坂をスリップに注意しながら登って行く。
約2時間 高度は600mまで登った所がCasaroro Fallの入口がある。
そこを今度は谷底に階段を350段程降りて行くと突然大きな滝が目の前に現れる。
水量も多く流れ落ちる水の力で岩が半円形に削られている。
誰もいないので、エンリケと2人真っ裸になって滝壷の水に入る。
子供の様にはしゃぎながら水浴びをするが、冷たくて気持ちが良い。
フィリッピンではカミグン島でも滝を見たがこちらの方が水量が多く、男性的で神秘的な滝だ。
フィリッピンでの遊び方法にバイクを借り、いろんな所を回るのを発見した。
道は通行量も少なく、自然の多い気持ちのいい道を走る醍醐味はヨットと違ってまたいいものだ。
バイクは続けて何日でも借りる事ができその時は価格はもっと安くなるらしい。



          サバニ練習

喜界島祭のイベントでサバニレースがあり、夕方、若い男女混合チームがその練習していた。 
サバニレースは沖の方へ漕ぎ出して行ってどこかで一度転覆させ、再度乗って水をかい出して戻ってくる。
一度ひっくり返るのは、荒天時の海の練習にとっても良い。



       八重山干潟

朝7時30分 糸満港を後にして宮古島へ150マイルの航海だ。
今日の月は遅くでてくるので星だけが無数に輝いている。
南東から10〜15ノットの風がふいて平均6ノットくらいで走っている。
朝8時ごろ宮古島の北端 八重山干潟の有るところに到着した。
八重山干潟は宮古島から北へ10km伸びたサンゴ礁だ。
ここをかわそうと北上するがなんと気がつくと干潟の中に迷い込んでしまっていた。
どこを見てもさんご礁で波が立っている。
抜ける道を探すのに 上からみると水もきれいのでよく見えるのだが、浅いところは水深1mあるかないかだ。
もう運を天にまかすしかない。
緊張の連続で喉はもうカラカラだ。
天も 
”こいつは自分の不注意で事を起こしておきながらよくかってに運をまかすやっちゃ”
と思っているいるに違いない。
幸運にも太陽を背に迷路に入ったので水面下がよくみえた為に脱出水路を見つける事できたのだが、逆光だと どこが浅いか深いか分からなかっただろう。
とにかく 天に任したお陰で船体をこする事なく脱出する事ができた。
宮古島港の東の端に入港して行くと、遠慮しながら地元ヨットが6隻ほど係留されている。
その近くの空いているいる所に留める。
”アー タスカッタ” 自分の不注意を棚に上げ、幸運がついてると喜ぶ。



           ハウステンボス

佐世保をでて、針尾水道へ向かう。
2年前 潮流を考えず進入して怖い思いをした。
弁天島を越えた辺りで、エンジンをフルスロットルにして6ノットはでているはずが、一時間しても 岸壁で釣をしているオッサンの位置が変わらないのだ。
オッサンもニタニタ薄笑いを浮かべ 
”もうすぐ あの船も潮に流されて一巻の終わりや。 ヒッ ヒッ ヒッ”
と、表情が読み取れるほど岸壁までの距離が無い。
遊帆 UFO はカタマランの為舵効きは悪く回転すると20m無いと回頭できない。
もし、潮流の勢いに負け船首を振られて態勢を立てなおす事が出来なければ岸壁に激しく衝突してオッサンの希望通りになってしまう。
激流と根競べやっと通過したが、今考えてもゾッとする
今回は潮止まり一時間前で進入するが それでも3ノットの逆潮だ。
弁天島と橋の下は流れが速く渦巻いて進まないし船首を振られる。
ハウステンボスに着いた時は極楽に着いたようだ。
夜は サーチライトとレーザー光線と花火のショウをがきれいだ。
但し 風向きが悪いとデッキに花火の燃え滓がパラパラと落ちてくる。
ヨットハーバーの人達は バケツを持って
”花火のカス落ちてませんか?デッキは燃えてませんか?大丈夫ですか?”
と見廻り ご苦労さんな事である。




          「硫黄島東温泉」       

硫黄島に入港するが、海が赤い。
噴火の鉄分が海に流れているらしい。
上陸後 自転車で東温泉へ出かけるが坂があり約30分かかった。
帰りは又自転車を30分こいで帰ってきたので汗だくで もう 何にもならん。
この島は日本では珍しく、人力より自然力のほうが勝っている。
道路も植物が侵略してきているし、土石流で道路も寸断されている。
硫黄岳は噴煙を吐き人を寄せ付けない。
東温泉は海に面してあり、湯は酸性透明でこんなにすばらしい温泉は、自称温泉調査隊長の私は
勿論この温泉を一番に表彰しようと思う。
昔は ここは、島流しの島で公民館には歴史が書いてある。
何年か前 中村勘九朗とかいう役者がきてこの浜を舞台に演劇をしたとかいうのが島の自慢らしい。
公民館にも風呂があり、地元の人はここに入る。
風呂上りのおばあちゃん3人が、かしまし娘の様にしゃべっているので、その中の別嬪さんに年を聞く。
”ワタシシャ 72になるがね〜”
”へ〜 お元気ですな”
”なんの ここじゃまだ若いほうじゃがね ホ、ホ、ホ、”
大自然に囲まれているせいか、年をとってもしおれてなんかいない。


          「浦郷ペーロン祭」

時津町で浦郷ペーロン祭が始った。
一艘に18名くらい乗って銅鑼をたたき 旗を振って沖に浮かべられた旗を一周する。
スタートと同時に一斉に4艘が漕ぎ出す。勇壮な銅鑼の音を聞いていると、心が踊ってくる。
1レースを4回競い総合成績を出すらしい。
1着になった船は竹さおに赤の幟を受け取って、銅鑼を叩きながら意気揚々と引き上げていく。
心なしか4着(最下位)の船の幟はしおれて銅鑼の音も泣いているように聞こえる。
私は表情を持ってしゃべっているような銅鑼の音がいっぺんに好きになってしまった。
レースの間に子供達や、一般の人達が体験させてもらえる。
私はここのハーバーの諸富さんの船に乗せてもらって見学する。 
おまけに、弁当にビールまで戴いてしまった。



          「イワシの水揚げ」

釜山ヨットハーバーの東北のTae Byon港。
ここはいわしの水揚げ基地で、帰ってきた船はいわしを魚網からはずすのに大勢で歌をうたって調子を合わせて網を振っていわしをおとしているので、いわしが空から降ってくる。
こん夜は勿論いわしを買ってきてチゲ鍋にした。
鍋の底にコンブとしいたけを次ぎに白菜キムチと豆もやしをのせ、一番上に新鮮な鰯を乗せ、韓国料理の必須アイテム真赤な唐辛子をドンと入れ、少し水を加え煮たらできあがりだ。
あとは、舌をやけどしない様に汗をかきながら食べるだけである



        「これでもバイク」

バイク(40cc 重さ約20kg)を3万5千円で買った。
韓国は50cc以下はナンバーも免許も要らないので自転車がわりに使っているが、日本では使えないかもしれない。
ヨットには軽くて便利なバイクだが、自転車に追い越されるのが問題だ。
このバイクは紐を引っ張るとエンジンがかかるが、体の割に大きな音を出し、大きな音の割にはトロトロと走る。
これで、ハーバーから海雲台の風呂屋や買い物に行くのだが、通行人は振り向いて笑っている。
大きな体で、小さなバイクに大きな音を出しゆっくり走る姿を見て、一度、
”オマエはコメデイアンか?” 
と真剣に聞かれた事がある。



        「」マレーシア コタバル戦争博物館

コタバルは博物館の多い所なので、朝から博物館回りである。
最初は戦争博物館へ行く。
コタバルは、日本軍上陸作戦が行われた所で、ここでタイからの部隊と合流してシンガポールまで行軍して攻めた様な事が書いてある。
昨日、バイクで走ってきた道とか、ここから山裾を南下してクアラルンプールに向かう道を行軍して行ったのであろう。
行軍は、歩きと自転車の為1日50Kmも行かなかったのではないだろうか?
山道とジャングルで行軍するだけで大変な労力であったろう。
マレーシアの人口の薄さを考えれば、進軍する所、敵どころか人もいないのだから征服したと報告し、事情の分からない日本国民は日本軍は破竹の進撃で何て強いのだろうと錯覚をおこし、喜んでいたのであろう。
向かう所敵無しの字の如く、敵どころか、人がいないので進撃は比較的事を運びやすいが、補給線の確保拠点の確保となると、充分な兵器、物資もないのである。
日本軍は現地調達物資を略奪と言うわけには、いかないので軍票なる貨幣を発行し、もし戦争に勝ったらお金に換金するという空手形ではなく空小切手で無理やり買い上げていたので、これは今の法律でも詐欺罪であろう。
マレーシア人は未だにこの軍票をもっていて、私の友人アンクル クオも見せてくれた。
この軍票の処理は、金持ち日本政府は考えているのだろうか?
それにしても、お上の命令でこんな所まできて行軍させられた日本兵も哀れである。
私の母方の父(祖父)もビルマのジャングルでマラリアに罹って、戦死ということになったようである。
もっと、哀れなのは、占領した拠点をを死守せよと命令された兵士達である。
日本軍のいた所どこにでも地下壕があるのは、哀れを通り越して涙が出る。
当然、イギリス、オランダ軍は充分な兵器を準備して、再攻してくるので貧しい兵器+大和魂で向かう日本兵は殆ど全滅、捕虜は絞首刑等で若い命を無駄にしてしまったのである。
多数の犠牲も考えないズサンな作戦を立てた大本営は、兵士を将棋の捨て駒のように動かしたのである。
作戦を命令した大本営は東京にあって個人の痛みまで分かっていたのだろうか。
日本人、一人一人は決して悪くない(むしろ御人好し)のだが、お上からの命令に絶対的に弱いという利点(お上から見れば)又は、欠点(一人一人の日本人から見れば)があるのである。
大きな流れに飲み込まれやすく、良い方向に動けばとんでもない力を発揮するのだが、悪い方向へ向かうと一人一人は疑問に思っても文句も言えず流されるだけで歯止めが掛けられないのである。
ここへ進軍してきた若い兵士、或いは、神風特攻隊皆同じように若い命を無理やり自分に納得のいく答えをだして散らしたのである。
あるものは、お国の為、あるものは日本国民の為、日本に残る家族の為、大東亜共栄権の為、マレーシア開放の為等、と色々答えを出し自分に納得と諦めを強制し、或いは最後まで疑問を持ちながら、どちらにしても大きな流れに巻き込まれた個人が助かる道はなかったのである。
命令の責任の所在をはっきりさせない日本システムはもう通用しなくなっているのに、日本政治は相変わらずのゴタゴタ茶番劇である。



       「象の出る道」

日本の観光案内書にはPerak州の事は何にも書いてないが、自然を愛する人ならここらは最高であろう。
湖を過ぎると、ダラダラと上り坂が続く。
途中は、象やら牛の絵を描いた注意交通標識がある。
道には、時々小動物のひき逃げ死体が転がっている。
森を横切る道路を横断中の小動物は自動車のライトで目が眩んで轢かれてしまうのだろう。
この道は50Km間は人家もガソリンスタンドも何も無い山道と森を抜ける道である。
随分と高くまで登って来た様で、山並みが眼下に見える。
勘で高度約1500mと判断した。
峠を越えると今度はダラダラ下り坂である。
目標のJeliに着き、昼ご飯を食べる。
この辺まで降りてくると空気も少し生暖かくなる。
べトンからここまで約160Km、ここからコタバルまで100Km程ある。
マレーシアは町以外の所は人口が薄いというのが私の印象である。
コタバルの町に入っていくと、時計台が道の真ん中に立っていて、これを目標にどちらに行ったかを覚えておく。
一応、東海岸に出ようと、コタバルの町を通り越して30分程行くと南シナ海が見えてきた。
海岸線は砂地が続き、屋台とリゾートが並んでいる。
この季節はモンスーン風の為、波が荒く遠浅の為に波が立って海岸に打ち寄せてくるので、海水浴等できる状態ではない。



        「マレーシアTemengor湖」

朝、タイからマレーシアへ10分程で戻り、第一目標 Gerikの町を目指す。
昨日、走った経験でガソリンスタンドがモスクより少ないというのが分かったので、チョット減っていても
ガソリンスタンドがあれば満タンにして走る事にした。
日本でいう道の駅みたいなモスクと簡単なレストランが何KM毎にあってさすがモスリムの国である。
自動車運転中でも時間がくれば、モスクでお祈りをしなければならないのだろう。
これでは、モスリムの人が日本へ来れば不便を通り越して、アッラーの神様の怒りをかう事になって出張も簡単にできないだろう。
Gerikから分かれ道になり次の目標はJeliである。
なだらかな勾配が続いた後、眼下に湖が見えてくる。
Temengor湖 南北50Km程あるがどうやらダムでできた人造湖ではないだろうか?
橋を渡った所にリゾートがあり、調査の為に中を覗いてみる。
ここは、湖の中の島に建っていて、1泊 80rm位だそうである。



        「マレーシア(Baling)の奇山」

マレーシアの地図を見ていると、コタバルという東海岸の北にある町へ行く気になった。
レンタモーターバイクホンダ100ccでふらりとペナン大橋を越える。
10分走った所で現在位置不明、得意の勘であっちの方やろ、ということで走り続ける。
30分程走ると、山道に入る。
2時間程走っても未だ現在位置は分からない。
通り過ぎるバイクを止めて
”べトンからコタバルはどっち?”
オニイチャンは、丁寧に、Baling- Gerik-Kotabaruと順番を書いてくれる。
そして道順を教えてくれるが、またまた迷子になる。
周りは、ゴムの木とパームヤシ畑である。
何回か人に聞きながら、見覚えのある町、タイとの国境の町にでる。
時間は午後3時、今日はべトンで泊まる事にする。
レンタバイクで国境を越えられるか心配だったが、マレー側もタイ側も何も言わないしハンコを簡単にポンと押して終わりである。
今日は、何処を走ってここに来たかは定かでないが走行距離約150Km走行距離4時間位である。
べトンまで山道を登ってきているので標高約800m位であろう。
気候は爽やか、夜は冷水シャワーは厳しい。


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