旅の思いで写真 川柳入りT クルージング中関わりのあった人をに川柳を入れてみました。
「泥の中バスを押す旅」
バスでバンコックまで戻る事にしたのである。
途中、ついに バスが泥の道路の穴に捕まってしまった。
狭い道を塞いでしまったので、勿論その他の車も交通遮断だ。
カンボジアの人々は、じゃ、昼飯にでもするか。という感じで、車の上やら田んぼの畦道で何かを食べている。
自転車に乗ってアイスクリーム屋もやって来る。
そのうち動くだろうと簡単に思っていた我々旅行者達は、段々と深刻な状況に戸惑いを見せ始める。
男はみんなで、押そうという事で泥の中を頑張るが動かない。
そのうち反対方向から、同じ会社のバスがやってきたので、そちらに乗り換えである。
バンコックに戻ると、何故かホットするのであった。
「修復される世界遺産」
カンボジアに来て、アンコールワットを見ないと何をしに行ってきたか?と言われるので行く事にする。
レストランのオーナーがくれたガイドブックによると、”Angkor”とは首都 或いは 聖なる町というような意味らしい。
AC9〜12世紀、クメール王朝期が栄えていた時期だそうである。
世界文化遺産に指定されていながら、近くで中を見ると荒廃の酷さに驚く。
入場料はUS$20/日 で結構割高だが、修復資金に使われるのなら、納得できる。
内戦の時、殆どの仏像の首は切られたり、削り取られたりしている。
素材が砂岩のようなので柔らかく崩れやすいのだろう。
長い間の風雨と高温多湿に傷みが激しく所々に苔が生えているのである。
仏像の姿はどこか女性を感じさせ肉感的でインドヒンズー教の影響を感じるのである。
昨日、カンボジアの平坦さに驚いたが、アンコールワットは、大きな人口池が前面にあり
町の繁栄に大きな役割をはたしていたようである。
これだけ平坦な土地であれば、貯め池の効果はいうまでもないだろう。
門の前に立っている獅子の顔と姿は沖縄のシーサー(?だったか)にそっくりで、文化の繋がりを感じるのである。
アンコールワットの内部は急な石段(勾配角度約60度以上)を這う様に上って行かなくてはならない。
壁面と天井にも仏像やら文様がほどこされている。
ふと、昔は一体トイレは如何処理していたのか心配になって、あちらこちらにトイレの穴らしきものを探してみたが見つからない。
考え悩んだ結果、壷の中に事を済ました後持ち出して処理したのに違いないという事に思い至ったのである。
フランスの宮殿では、庭の木影で用を足したりした為ひどい臭いだったそうで、あるいは宮殿の窓からしたものを投げたというような事をテレビで見たような気がする。
今の日本で考えるなら10階建てのビルにトイレが無い場合どうするかという事を考えているのと同じである。
下水設備完備の日本ではこんな事を考える必要もないだろうが、水が不足するか電気が切れれば、
ビルにトイレが無いのと 同じ状態になるのである。
地震が起こればこのような状態になるが、文明の発達した国民程、ひ弱になっているのではいだろうか?
”トイレは水洗でなくちゃできな〜い。”
なんて事をいっていると、
”生きてなんか行けな〜い。”
てなことに成りかねないのである。
「仏の慈悲」
朝6時、Siem Reapの町を散歩する。
お寺に読経の声が聞こえてくるが、イスラムのお経と違って、どこか聞いたような節である。
無宗教の私は仏教の事もよく知らないが、タイ カンボジヤの仏教は小乗仏教である。
お寺の中は、勿論お坊さんが住んでいるが、一般の人々も一緒に住んでいるようである。
又、お寺が学校になっているらしく、大勢の学生が朝早くから勉強している。
ベンチに座っている少女3人がいた。
”君達はいくつ?”
”13歳です。”
英語を勉強しているのか、うまく話す。
けれど、3人とも体が小さく小学生低学年にしか見えない。
日本は葬式仏教になってしまったが、ここのお寺は、庶民の生活に密着しているようである。
朝飯に、レストランで牛スネ肉のピリカラスープにフランスパンを食べていると、
子供のお坊さん2人が托鉢に来た。
レストランの入り口でじっとたったままで、一体どうなるか興味をもってみていると、店のオーナーがお金をお布施にして靴を脱いで丁寧にお辞儀しているが、お坊さんの方は簡単にお経らしきものを唱えて、さっさといってしまう。
なるほど、お坊さんにしてみれば、慈悲の心を目覚ましてやったという事のようだ。
私は、チップを払うのも、ストリートチルドレンにお金をあげるのも、どこか心の奥に引っかかるものがあり苦手であるが、お金をあげるのではなく、あげさせてもらうという様に心を切り替える事ができればもっと心のストレスは無くなるに違いない。
「首を切られた仏」
バンコックの北バスターミナルまでタクシーで20分120バーツ(360円)、バンコックから Aranyaprathet国境の町まで、バスで5時間140バーツ(420円)、ここからカンボジヤ国境側の町(Poi Pet)まで、バイクで5分40バーツ(120円)、Poi PetからSiemReapまでマイクロバスで7時間490バーツ(1500円)で到着である。
国境ははっきりとした境界線はなく、人々は旅行者以外は、行ったり来たりしている。
カンボジアに入国すると、地雷で足や手を無くした人々、ストリートチルドレンが多く集まってくる。
内戦の傷跡が未だ生々しく残っている。
「修行中のため息」
タイ チェンマイのお寺で厳しい修行中の子坊主達です。
「これほしいなあ、なんとかならない?」
店からなかなか離れられません。
まだ小学生位で親元を離れお寺で修行の毎日です。
「タイ チェンライの踊り」
タイのゴールデントライアングル地帯に近い町チェンライの子供たちの踊りです。
この地方は貧しい農家が多い所です。
タイ民族舞踊は幼い体の柔らかい時から始まります。
厳しい修行が続きますが舞台では明るく笑っています
「子沢山の猫」
マレーシア カリマンタン島のクチンの町のシンボル
何故猫なのか考えてみました。
1.モスリム国なので猫
2.クチンが港町であったので、ネズミが多い為船の守り神としての猫
理由を知っている人はコメントお願い致します。
Oldboyさんからの返事
気になって、Googlで調べてみました。
梨の木舎 羽田ゆみ子 :http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/
●マカン アンギン――風を食べる
ボルネオには、26ともいわれる多くの先住民少数民族と、マレー系、中国系、インド系の人々が生活している。
このおおきな島の北側、おおざっぱに4分の1はマレーシア領(半島のマレーシアに対し東マレーシアという)であり、南4分の3はインドネシア領で、カリマンタンとよばれる。
人口50万を抱えるここクチンは、ボルネオ島サラワク州の州都である。
だいたい、ボルネオやカリマンタンは、マレー語でどういう意味なのだろう。意味があるのかしら。クチンは、猫という意味だそうである。
ついでにマレー語で、犬はアンジン、ニワトリはアヤム、風はアンギン。
ラブアン島に住む友人礼子によると、旅をするというのを、「マカン アンギン」――風を食べる、というそうだ。旅情を誘われる。しかし、1字違いで「マカン アンジン」になると、「犬を食べる」
「プーケットベジタリアン奇祭」
旧の暦9月になると九皇大帝祭が行われ、神憑りした人々が金串で頬、舌等を突きさし町中をねり歩きます。毎年、数人救急車で病院へ運ばれます。
「レイテ沖沈む魂安らかに」
夜明けと共に コレヒドール島が見える。
ここからはマニラ湾内になるが、近辺ごみだらけだ。
遊帆 UFO もスクリューにごみと木(2m)が絡んでいるので掃除をする。
鍵さんの、もう一つの目的である、叔父さん(鍵さんのお父さんの弟)の供養をここでしようという事になった。
叔父さんは レイテ沖海戦で 岸波駆逐艦に乗っていたところ魚雷3発ほど受けて 2000mくらいの深い海に沈んでしまった。
場所はここからまだ南西130マイルくらい離れている。
日本軍国主義の最中に国家の為に命を無くした人々の無念さを思い、再び 日本が変な方向へ行かないように,平和に暮らしていかなければならないとあらためて思う。
「ヘイ!アミーゴ!」
マニラヨットハーバーを出港して 40マイルくらいのところ CAYLABNE BAYに到着。
3方を山に囲まれ 大きくもなく 小さくもない湾になっていて波は入ってこないし、砂浜は遠浅で水はきれいし
やしの木には実がなっている リゾート地のようだ。
早速 湾に面したレストランで 冷たいビールで乾杯!そのうちに暗くなってお客がたくさん入ってきた。
我々も スパゲッテイ 魚のフライ テイルの煮込みを注文する。
男3人組バンドで各テーブルを回って 歌のサービスが始る。
我々のところは日本の歌 "昴"を歌ってくれた。
そのため あのテーブル客はどこからきたか だいたい分かる。
こんなにすばらしいところが、始めから見つかるとは思っていなかった。
あるいは あちこちに 同じように素晴らしいところばかりなのかもしれない。
「魚とビールを交換」
鍵さんは 日本経済新聞の切り抜きを持って来ていて、フィリッピン近辺の海賊被害情報を見せてくれた。
実は海賊が一番怖いのだ。嵐はしのぐ方法もあるが海賊はどのように対処していいか分からない。
大きな貨物船が行方不明になったり、乗組員が海に放り出されたりしている。
2人で相談した結果、遊帆 UFO がほしかったらあげる事にして、抵抗しないで手を合わせぺこぺこと頭を下げて
ひたすら命乞いをしようということにした。
"けどな鍵さん、 幸いな事に、今日から旧盆で海賊もお盆で 休みやで”
”フィリッピンはクリスチャンが、90%というから関係無いのんとちゃう”
”え、ほんまか。フィリッピンて盆休みが無いのか。けどな、クリスチャンの海賊なんて聞いた事ないで。”
という迷推理をして堂々とルソン海峡を渡っている。
石垣島でアメリカ人ヨッテイーのマイクにフィリッピン情報を聞いたが、アドバイスとして
”日本の国旗は揚げて走らないほうがいいよ。みんな日本人はお金持ちで武器無いの分かっているからね。狙われやすいよ。”
といわれていたので、愛国心より命の方が大事なので、早速に下ろしてB.C.Y.Cクラブ旗を揚げているがアメリカの国旗の方が安全ならそれも使うつもりだ。
海上保安庁も海賊危険海域に行くときは 安全装備品に手榴弾3個 機関銃1丁は 船に装備する事なんて世界中に
公表し 且つ 御指導が戴ければ 日本の国旗を 揚げて走れば海賊も寄ってこないだろうに。
17:00 15マイル沖で アウトリガーカヌーが1艘高速で近づいてくる。
”やばい 海賊かもしれんど” と 話し合っているうちに20mまで来て、笑って手を振って魚をやるといっている。
魚(さわら)を貰って 台湾ビールを投げる。
さっきまで怖そうに見えたが、よく見ると30歳ぐらいの人なっつこい顔をした漁師の兄ちゃんだった。疑うてゴメン。
”ああ、海賊と違ごてよかったな”
”けど お盆でも仕事してるやんか”
”そうやな 漁師の兄ちゃんもお盆休み無しで働いてるから、海賊も仕事してるな”
と いう事で 私の海賊お盆休み安全説はもろくも砕けてしまった。
「スリランカの茶摘み矛盾」
Nuwara Eliya という高地(2,400m)へ向う。
道は登りばかりである。
周りはいつのまにかお茶畑ばかりになっている。
勾配60度もありそうな所を開墾してお茶畑にしている。
良く見ると、それぞれに所有者(地主)と管理人がいて、看板が立っている。
茶畑の隙間に立っている民家は、土地は殆ど無いのである。
粗末な家に住み、裸足で歩いている。
朝、道のアチラコチラに座って、茶摘の仕事を待っている様である。
道端の茶畑で、茶摘のオバアチャンがいたので写真を取らせてくれというと、お金をくれというので、
10ルピー渡すと、歯が2本しか残っていない口をニッコリと開けて、猛烈な勢いで、茶を摘んで
後ろに背負っている籠に入れて行く。
”バアチャン、もう OKよ。有難うネ。”
バアチャンは、他の茶摘のバアチャン、オバチャン、ネエチャン連中にお金を見せて何か言っている。
社会主義国でも資本主義国でも民主主義国でも共産主義国でも大義名分は人民国民の為なのにこの有様である。
私はというと、これを書きながらオバチャンが摘んだかも知れない高い紅茶を飲んでいる。
「足こぎ舟」
ベトナムへクルージングで最初の入港がホーチミン市の下流にあるVung Tau港である。
Vung Tau
ハーバーマスターをVHF16chで呼びだし、入国の申請をする。
その為の一時アンカーポジションは雪風久保さんの情報通りで、ホーチミン市との連絡船ジェッテイーの横、漁船が多数アンカーを降ろしている所である。
立派なホテルやら、カラフルなビルと家が建ち並び綺麗な町の感じがする。
ハーバーマスターは、代理店をそちらに向かわせるから船上で待機するようにとの事である。
2時間程待っていると、小船に乗ってやってきた。
この小船の船頭のオニイチャンはオールを足で自転車のペダルの様にして漕いでいる。
「ベトナムの一寸法師椀舟」
ベトナムの次の寄港地Nha Trang
Vung Tau
で懲りているので、VHFでポートコントロールに連絡をせずに、自力で良いアンカーリングポジションを探す。
後ろから、艀に乗って追いかけて来るニイチャンがいる。
代理店のニイチャンが、後についてこいの、あちらにアンカーを打てのというのを無視して、こちらは、リゾートの砂浜の前にアンカーを降ろす。
ニイチャンは船に乗り込んできて手続きをしようとするのを、値段の交渉から始める。
話しが纏まるまで、書類もパスポートも渡さない事にした。
最初、代理店手数料をUS$200というのを、こちらは断固としてはねつけ、自分で申告に行くと主張する。
交渉の結果、US$50でOKと言う事になったのである。
この交渉から推察すると、代理店の手数料なるものは、いわばこちらが言いなりになれば、ボッタクリみたいなもので、価格等あってないようなものであり、今回はリゾートの前の海岸にアンカーを降ろしたので、港湾使用料、検疫、係船料、は必要ないのである。
ベトナムのイミグレ、カスタム共ヨットの扱い基準がなくカーゴ船と同じ扱いである。
「モスリム結婚披露宴」
遊帆UFOの前のパワーボートをメンテナンスしているアリの結婚披露パーテイに招待される。
李さん黄さん、タッチ、私の5人がサムの車でバツマン(Batuman)の南、マレー式家屋の建っている町に行く。
40坪程の土地に平屋建てで家の周りは全て庭になっていて、バナナ、ジャックフルーツ、沢山の種類の木が植えられている。
アリが出迎えてくれて、奥さんに紹介してくれる。
アリの従妹は未だ2歳だそうだが、マレー式の挨拶なのか、私の差し出す手を両手で包み、キスをし、額に持っていってお辞儀してくれる。
黒目勝ちのこの可愛い少女に我が孫娘を重ね合わせて思い出し抱き上げてしまう。
私の孫娘も、もう直ぐ1歳になるが、今度会った時にはこの少女のように顔見知りせず笑顔で受けて入れくれるだろうか?
家の床はタイル張りで冷たくて気持ちが良い。
客は各自自分の好きな場所で既に料理を囲んで食べている。
10種類程の料理が用意されていて、来た人から順次、皿に取って食べて帰っていく。
肩の凝らないアットホームで暖かい結婚披露である。
日本の結婚式の様に、マニュアル化され時間単位で進行されビジネスになっている式とは大違いである。
ユキさんの葬式の時もそうであったが、親戚、近所、総出で手伝って準備し、助け合うという習慣がこちらでは当たり前になっているのである。
日本もかってはこのようであった。
日本人は本当に幸せになっているんだろうか?
「焼き肉だ!」
最近は身内パーテイ続きである。
というのも、私を含め、サム、タッチが独り者の為、Isaacの李さん黄さんを巻き込んで、
ワイワイ言いながら食事をしようという魂胆である。
今日はタッチがタイ料理を作るというので、市場とTescoに買出しに行く。
新鮮さは市場の方が良い。
”タッチ、今夜は何を作ってくれるんや?”
”パパイヤボックンに手羽バーベキュー、牛肉バーべキュするよ。”
これは青いパパイヤ、にんじん、ピーナッツ、アーモンド、エビなどを入れて、
混ぜながら、レモン、フィシュソース、チリ等で味付けするのである。
タッチも料理はうまい。
サムはスイカにパイナップル等デザートを準備している。
彼はここJabatanハーバーをアジア系ボートを増やして占領するというのが口癖である。
”昨日のマレーシア選挙は野党が大勝してペナンも変わると思う。
以前はペナン島はフリーポートやったのに、今はランカウイ島だけがDuty Freeになっている。”
”ペナン島Duty Freeに大賛成ね、そしたら、ランカウイ島まで行かなくても、安いビールが飲めるもんな。
ハーバーで署名集めしたらどうや?何処かで 選挙に使った野党の旗を盗ってきて遊帆UFOに揚げる事にするわ”
と、無責任で酔っ払いの私はサムにいい加減な事をいうのであった。
出きる限り毎日楽しくイージーに過ごすというのが私の生き方であるが、若いサムやタッチにとって良いか悪いかはわからない。
「Oivinのサックスフォーン」
この頃は夕方になると雨だが、パーテイの時は何とか晴れているので桟橋で車座で始める。
お腹も膨れて酔いも回って、村田さんは尺八を取り出し良い音色を出し始めると、
ハーバーのメンバーも負けてはいられない。
と言うわけで、黄さんは韓国双鼓、アヴィン(Oivin スエーデン)はサクスホーンで対抗する。
「ツチコリン海の記念日に巻き込まれる」
「今日は、この港のフェステイバルで市長からあなたに何かプレゼントがありますから、タグボートの
後に付いて行って下さい。」
何をくれるのか分からないが、悪い話ではなさそうなので素直についていく。
桟橋には、貴賓席が設けられていて、胸に花輪とリボンを付けたエラソウな方々の横に座れと言われる。
隣の席は、Tuticorin市長さんらしく、ここへ来た理由と、航海の様子を聞かれる。
今日は、40回目のTuticorin海の記念日であるとの説明がある。
気さくなオジサンである。
9時、ゲームが始まり、男性が目隠しをして棒を持って、ロープに吊られた素焼きの壷を割るのである。
”市長サン、これは、日本では同じようなゲームがありますがスイカを割ります。”
市長サンは隣の人に説明している。
女性&子供のゲームもあり、それぞれ何か賞を貰っている様である。
進行係のオジサンは、次ぎに綱引きゲームがあるから出てくださいと言ってくる。
進行係のオジサンは市長からあなたに栄誉のプレゼントがありますからその積りでとの事である。
マイクで私の紹介をしたあと、市長サンは、マフラーを首に架けてくれる。
このマフラーは、両端を縫って例のスカート風ズボンにする物ではないかと思う。
次ぎに、テレビ取材チームと、新聞記者がやってきて、色々質問責めである。
ヒョットしたら、インタビューされ、カメラも回っていたのでテレビ放送されるのかもしれないし、
新聞に載るのかも知れない。
台湾で取材されて2度目の出来事である。
思いもしないのにイベントのヒトツの花になってしまった。
全く何が起こるか分からない出た所勝負の連続である。
「アダムス橋」
朝、鉄橋の側にある駅長の親切オジサンが娘二人を連れ、ミネラルウオーターとビスケットを差し入れに持ってきてくれる。
11時、アンカーを揚げ駅長オジサンがラダーを持って、鉄橋が跳ね上がるのを待つ。
”あの橋は、モーターで動くのか?”
”いや、人力で15人で動かすんだ。”
”料金165ルピーは安いな。”
道路の橋の方は、観光バスやらマイクロバスやらが止まって、上から遊帆UFOが通過するのを見ている。
11時30分、オジサンの舵取りで無事に橋を通過すると、橋のあちらこちらで一斉に歓声があがる。
親切オジサンに何度もお礼を言って、マドラスに向かう。
説明:この橋の名前はアダムス橋といいます。
スリランカ側はJaffnaという反政府組織(Tiger)の支配下で危険地域であったが、最近スリランカ政府軍に鎮圧されたようです。
「腕相撲勝負!」
アンクルクオから頼まれたメモを持ち、メダンの町中をタクシーで探し当て辿りついた。
次の日、ケンタッキーフライドチキンの店へ、相手はベンデイック元気なやんちゃ坊主、
「よし、オジサンと腕相撲をしよう。オジサンは1000ルピア賭ける。君は何を賭ける?」
彼は、自分のゴムの腕輪を賭けるという。
「よし、ショウーブ!」
私が、勝ってゴム輪を貰う。
「ベンデイック。次ぎはどう〜するね?着ているT−シャツでも賭けるか?負けたら裸のままよ。」
彼は、勿論やる気である。
「パチンコキング」
この光景思わずタイムスリップしてしまった。
ズート遠い昔我が姿そっくりだ。
日が暮れても遊びに夢中、腹ぺこになり家に帰ったのを思い出した。
題 小さなシーマン達
僕達小さい時からシーマンだ。
世界中の海に出て、パパより凄い男になるからね。
その時会おうぜ!
題 故郷へ届けチャンゴの音
ハーバーではよくパーテイを開きます。
お隣韓国ヨットIssacの李&黄さんは10年以上の付き合いで親戚同様です。
黄さんはチャンゴ(韓国太鼓)を叩き歌を歌ってくれます。
題 気絶するカブトガニ
マレーシア ランカウイ島での事
不運にも捕まえられたカブトガニ
「このまま、まるのみされそうや!」
題 デイスコで洗濯?
足で踏みつけデイスコダンスを踊りながら洗濯を済ます遊帆(UFO)流
題 空に吠えるパラグライダー
彼はこの時、「スーパーマン!!」と言ったのです。
題 命がけのパラグライダー
彼は、
「この羽をつけてパラグライダーをやれば、5歩程走ったら飛べるんだ」
と言いながら、100m走っても飛び上がりませんでした
題 怪我をするパラグライダー
飛び上がったのはいいんですが、着陸はジャングルで顔に傷だらけでで出てきました。
題 インド洋に沈む夕日に愛を誓う
プーケット ホーンテック岬から見るこの夕日より、君達の方が輝いているよ。
題 情熱のイスパニアセーラー エンリケ
連絡が取れなくなって数年、何処で又恋をしている事やら。
題 アンクル クオ
長い間、ここにアンカーを降ろさせて貰った。
しかし、酒の飲みすぎの急死、ちょっと早すぎたんじゃない?
題 プーケットで象に乗る
子供の時から象と一緒に育った象使い。
お客を乗せて帰ると、体を洗ってもらいバナナを貰う、よかったね。
題 小さな船のビッグセーラー
小さい鉄船(6m程)で5馬力の船外機だけでロスからやってきたビッグセーラー。
永久のセーリングを続けてください。
題 髭の主婦ユキさん
友人のユキさん、髭のオバチャンで男の子2人を育て上げ御苦労さん。
ゆっくりと休んでください。
題 踊るヨットマン
フィリッピン ネグロス島の最南端天然の湾に集まるヨッテイー達。
夕方になると誰が言うともなくパーテイが始まります。
周囲に民家はありません。
幾ら騒いでも周りから苦情が来る心配はありません。
題 砂に埋まった変人
フィリッピンボガド島 セブ島から10マイル程離れた小さな小さな島の子供達。
砂に埋まった私を見て恐る恐る寄ってきます。
「なにしてるのかな? 変なの!」
題 トップレスビューテイ
フィリッピンボガド島 セブ島から10マイル程離れた小さな小さな島の子供達。
毎日、海で遊んでいます。
題 何か探しているジャマイカ
フィリッピン、ボンボノンの湾。
毎夕井戸端に体を洗いに行く私は5歳の可愛い恋人ジャマイカに会うのが楽しみです。
私を探しているのかな?
題 ボタンをはめるジャマイカ
フィリッピン ボンボノンでの事
我が恋人ジャマイカはボタンをはめるのに夢中。
私の事等、眼中にないようです。
題 水浴びをするジャマイカ
井戸端で頭と背中をジャマイカは洗ってくれます。
お返しに水を掛けている所です。
題 カーニコバル島の食堂スタッフ
インド洋でデスマストし、外国人上陸禁止の島カーニコバル島での事。
ハーバーから外に出る許可はおりません。
彼らは食堂スタッフです。
食堂と言ってもバラック小屋でお客は毎日3食殆ど私一人です。
メニューは選択できません。
何かと気が塞ぐ私を、元気づけようとしてくれました。
私にすれば粗末な食事です。
1か月ほどいて、10Kgは痩せていたようです。
しかし、彼らは懸命にカレー料理を3回作ってくれました。
1週間に1度だけ小さな魚のフライがカレーにつきます。
それでも、みんなこの島の人は同じ食べものなんです。
別れの日、彼らは夜の明けないうちにやってきて、貧しいながらも椰子、煎餅などを差し入れてくれました。
いよいよ、遊帆(UFO)が竹を束ねたマストで岸壁を離れる時、顔には涙が、私も涙が止まりません。
この島は普通なら絶対に入港出来ない所ですが、いつの日か訪れてみたい。
しかし数年前のスマトラ沖津波でこの島は被害にあったのではないかと心配しています。
波高3mであれば村まで水は来るほど平らな島です。
題 カーニコバル島村長ロバート
インド洋のカーニコバル島へ漂着した時の事。
村長ロバートがまず村民を数人を小舟で引き連れ船まで来て、要るものは無いかと聞き戻って直ぐに椰子とバナナ、茹で卵を持ってきてくれた。
ここに係留中にも度々訪れてきてくれて鶏肉、豚肉、椰子等を差し入れてくれた。
友となり色々話をしているうちに、
「自分の父は日本軍に拷問され殺されました」
と、恨みもなくさらりと言う。
私はこの島が日本軍が占領していた事さえ知らなかった。
島を離れて、数年してインターネットで「忘れられた戦争責任―カーニコバル島事件と台湾人軍属
」という本があるのを知った。
彼のお父さんは英語が喋れるのでスパイ容疑で日本軍に殺されたという話は事実であったのである。
下記の本によると80人程の島民が殺されたらしいが、ロバートのお父さんはそのうちの一人だった訳である。
何もない貧しい、隔離された島で英語が喋れようと、どのようにしてイギリスと連絡しスパイ活動が出来るか考えただけでも分かりそうだが、
異常な精神状況下で一兵卒の意志に反して島民虐殺行為が行われ、戦後戦犯として処刑されたらしい。
本当の責任者だれだったのか?
平和な小島が、いつのまにか戦争に巻き込まれ訳も分からず拷問され殺されていった人々がいるのである。
その事実を知っておくべきであると思い、ここに載せました。
題 台湾到着乾杯!
「鍵さん 台湾到着、乾杯や!」
「美味い臭いがするな。海鮮料理や!」
と、海の苦労はどこかへ行ってしまった。
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