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落書き帳No.5 トバ湖にて へ行く

  63番 インドネシア避暑地トバ湖団体旅行  2004年9月23日〜10月14日

9月22日 明日出発の為、今日インドネシアルピーを両替することにした。
     US$100=880,740RP
     2年前に行った時よりルピーは値下がりしているようである。
     インドネシア政権もこの度の選挙で交代する事になったのは、経済政策の失敗も多分にあるだろう。
     今回、インドネシア旅行をする為ここJabatanYacht Harborへ続けて繋留する事にした。
     ハーバーのシャリフが繋留費の集金に来る。
     ”シャリフ、私はもうすでに2ヶ月もここにいるから、後20日延長でいたらいくらになる?”
     ”20日なら 9RMx20日x2=360RM 1ヶ月なら270RM 同じだよ”
     “何故、1ヶ月単位なんか?”
     ”このハーバーの規則だ”
     勿論、全て分かった上で 質問しているのである。
     水道代10RM 電気代は今の所無料である。
     波が入って来る事を別にすれば、安くて安全な良いハーバーである。

 23日 Isaac夫婦、 ネッシーさん 私達4人は朝6時半集合し、ミニバスでフェリー乗り場まで行く。
     フェリー代170RMとBelawanからMedanまでのバス代は支払い済みである。
     税関とイミグレを簡単に通過した所で、ネッシーさんがマレーシアリンギットを沢山持っているのを
     チェックされなかなか乗船してこない。
     ”リンギットをインドネシアルピーに交換されてしまったから、必要だったら言ってね。”
     マレーシアはリンギットの持ち出しを制限しているのである。
     フェリーは時速40ノット程で海上を滑るように走っている。
     4時間程でインドネシアBelawan港に到着し、バスに乗ってMedanまで直行する。
     Medanの街中は、車とバイクの横にサイドカーをつけたバイクタクシー、自転車にサイドカーをつけた
     ペチャと言う乗り物で交通渋滞である。
     交差点では若者4人程がギターを弾きながらお金の施しを貰おうとしている。
     貧富の差が大きく、お金持ちは大きな立派な家に住んでいるが、貧しい人達は環境の悪い所にいる.
     明日のトバ湖行のミニバスの予約をし、Hoteにチェックイン後、食事に行く。
     インドネシア料理は、結構美味で特にMurtabaというインドネシア版お好み焼きみたいなものが
     味が良い。
     支払いとなると、未だ桁の大きいルピーに慣れていないので、戸惑うのである。
     Medanはインドネシアで3番目位の大都市で、車の排気ガスとクラクションと、モスリム寺院から
     大音量で流れる調子はずれの祈りには辟易する。
     しかし、トバ湖に行く為にはどうしてもMedanに1泊しなければならない。

 24日 Medanからトバ湖まで45000ルピー(約600円)で、4時間程掛かる。
     ミニバスは8人乗りで、もう一人日本人の女性が同乗してきた。
     彼女はインドネシアの大学留学中で休みを利用してインドネシアの各地を旅行しているらしい。
     バスは半時間も走ると、Medanの郊外になり、両側各1車線の道を、ドライバーは、前の車を
     ドンドン追い越しながら進んでいく。
     8人の命は、ドライバーが握っている状態である。
     途中、昼食事の為、食堂に止まる。
     なだらかな山道の両側はパーム椰子畑とゴム畑が続いている。
     トバ湖近くになり、急な坂道をドライバーはスピードを出して走っていると、警察のスピード違反に
     引っかかってしまった。
     ドライバーは心得たもので、手にお金を握ってポリスに近づくと握手するような格好で手渡している。
     これで無罪放免である。
     最後の急な坂を越えると今度はクネクネと曲がる下り坂になり、眼下にトバ湖が見えてくる。
     この湖は火山が噴火した後頂上が沈み込み湖になったので水深は700〜800mもあり、琵琶湖位の
     広さがあるのではないか。
     真ん中が島状になっていてその島の出べそのような所がTuku−Tukuという所である。
     島全体の名前はSamoirというらしい。
     バスの終点はParapatという町で、バスから降りると、Tuku−Tukuへ行く連絡船が待っている。
     連絡船にのると20分位で始めの桟橋Baqusに到着する。
     船上では、客引きのオニイチャンがしきりに話しかけてくる。
     全員Baqusで下船、Isaac夫婦は近くのBaqus Hotelでチェックインし、ネッシーさんと私は
     Tuku−Tukuを歩いて10分位のインドネシア伝統家屋をゲストハウスにしたところにチェックインをする。
     ここはどこでも大体20000ルピーから30000ルピー(300〜400円)と安い上設備も悪くない。
     気候は高地にあるので涼しく、何よりも音がないのが素晴らしい。
     景観はどこも絵になる美しさで、今回20日間滞在中8枚書いてしまった。
         
        連絡船                  

 25日 ネッシーさんとレンタバイク(45000ルピー)を借りて、温泉に行く。
     Tuku−Tukuを岸沿いに坂道を登ったり下ったりしながら岬と峠を越えると新たな景観が広がる。
     子供達は”ハロー” 或いは ”オーラ”と呼びかけてくれる。
     道は橋の架かっている所が5箇所程あるが橋げたが落ちていてタイヤの所だけ板を渡してあるだけである。
     そこをサーカスバイクの様に走り抜けていく。
     右手には湖が見え、左のなだらかな山の斜面は水牛が草を食んでいる。
     山の奥は急な断崖になっていて、谷を作る線は絶景である。
     バイクで1時間半程走った所が島と陸地の接点で、ここから温泉の出ている谷に入っていくのである。
     温泉の谷は硫黄のためか、その谷間だけが白っぽくなっている。
     バイクで急斜面を登っていきバイクごと家の中に入ったところが温泉で料理を出してくれる。
     この温泉は第2次世界大戦中日本軍が進攻してきてここを温泉をつくり、駐屯していたらしい。
     この料理屋のオッサンのお父さんが日本軍から権利を譲ってもらって今に至るらしい。
     2年前はこの料理屋だけが営業していたのが、今回眼下の村に温泉を引き、プールを作って
     営業している所が3箇所程出来ている。
     ネッシーさんと裸で岩風呂の方へ入り、温泉に浸かりながら、冷たいビールを飲みながら
     トバ湖の絶景を見るという贅沢さである。
     ここからみるトバ湖は、高度がある為又格別の景色に見えるのである。
     
      温泉からトバ湖の眺め

   この辺りから日にちはいつものように分からなくなる。
     Issac夫婦が泊っているホテルで、夜は民族舞踊と音楽のショーがあるというので出かける。
     7時頃、さっきまで畑を耕していたと見間違うオッサン5人程と、若いオネエチャンが
     5人程出てくる。
     ショウの司会者は、賑やかしい場に不釣合いな、陰気なオッサンで葬式の司会をしているようである。
     軽快な音楽が始まると、オネエチャンが5人1列になって、両手を拝む格好でダンスをしている。
     衣装は肩から伝統布を掛けているが、T-シャツに、中にはチューインガムを噛んでいる女の子も
     いる有様である。
     ダンスは最初から終わりまで、手を合わせて僅かに腰でリズムをとっているだけである。
     何曲か変わって、チョット位違う事をするだろうと思っても、同じダンスである。
     視聴者参加で引っ張り出され同じ様に拝んで終ったのである。
     オネエチャンの出番が終ったあとは、畑仕事のオッサンの演奏と歌声であるが、これはなかなかの
     もので、この地方独特の民謡 (バタソング)を張りのある声で歌ってくれる。
     バタソングのメロデイーは、耳に優しくハワイアンの様な美しいメロデイーである。
     演奏楽器は2弦のマンドリン、横笛、ギター、木琴、太鼓である。
     
     何日後、Issac夫婦とネッシーさんは一足先にペナンへ戻り、私は再度、温泉に行く。
     途中、民族博物館(入場料20000ルピー)を見つけて入ってみると、例の踊りであるが、
     こちらは本格的である。
     以下 パンフレットの内容である。
     Museum Huta Bolon Simanindo
     伝統的バタック舞踊
     上演時間 月〜土曜日 10;30〜11;15
                    11:45〜12:30
            日曜日    11:45〜12:30
     フタというのは”村”という意味で、村は高い竹の茂った土塁で囲まれ、外的から村を守る役目を
     しています。
     村の家々には部落の守り神が住むと信じられて山に向かって立てられ、王様の家を中心に
     左右に並んでいます。
     王様の家は頑丈で大きくできていて、その反対側に”ソボ”と呼ばれる米倉が並んでいます。
     村の中央には”マンガラハット。ボルボ”というお祭りと宴を行う広場があります。
     広場の真ん中は、色々な木の葉で飾られた”ボロンタン”と呼ばれる1本の棒が立ててあり
     神聖なものとされています。
     村人は祭りの日に、このボロンタンに水牛を繋ぎ太鼓を鳴らしながらその水牛を殺します。
     それでは、伝統的バタックの踊りを楽しみましょう。
     という、説明があり、11曲の音楽とダンスが始まるが、衣装も舞台装置もダンスをする人も
     この間のホテルのショーと違って本格的である。
     現在、この地域の人々は大部分キリスト教信者に変わっているが、この伝統的舞踊は
     昔からのアジア的農村から生まれた天地、万有物を祈る信仰形態である。
     村の先祖のお墓は住む人と同じ庭にあり、形はとんがり屋根の民族的家を形取りながら、十字架の
     マークをつけたもので、この部分には昔からの信仰スタイルが残っている。
         

       

     ゲストハウスをTuku−Tukuの回り込んだ方面 通称Anjuという所のHariara Gardenという
     所に移動する。
     ここは、5軒程のゲストハウスでこじんまりとしていて、美しい庭があり、その前が直ぐ湖になっている。
     料金も25000ルピーと安く、レストランも点在している。
     私は、夜明けと共に起きて、Tuku−Tukuを散歩する。
     約1時間程で、実に良い運動になる。
     女性は夜明け前暗い時間から、洗濯の為と、食器を湖で洗うのに大きな盥を頭の上に乗せてやってくる。
     洗い終わると、湖に飛び込んで自分の体を洗っている。
     冷たいだろうと思って、私も湖に飛び込んでみたが最初だけでひんやりして気持ちが良い。
     漁師は、1本の丸太をくりぬいた小船(3m〜4mの大きさ)で、網を降ろして船べりを叩いたり
     パイプ掃除に使う先にゴムのついたもので水中にカッポン、カッポンという音をならしながら
     魚を網に追い込んでいく。
     20cm位の鮒が1回で5匹くらいはとれる位に魚は沢山いる。
     ここの男性は、漁をするか、畑を耕すか以外仕事がないので殆どブラブラしているが、女性はじつによく働く。
     オバアチャンは家の日陰の土間で布を織っている。
     縦糸を自分の腰に括りつけテンションを体の重みで掛けながら、横糸を入れて織るいざり機である。
     絣糸になっていて沖縄の大島紬の伝わった絣ロードに当たるのである。
     又、染色ではロウケツ染め(バチック) 纐纈染(絞り染め)が行われていたが、今では工場生産品
     しか、売っていない。
     村のあちらこちらで木の彫刻品が土産物として売られている。
     デザインはこの地方独特の形が伝わっていて、土地に密着した生命力を感じさせるものが多い。
     家の装飾には、この地方独特の唐草紋の形を持っていて、小刀1本で彫っていく。
     幅60cmほどの板に、この文様を彫刻して6000ルピー/m という話である。

     早朝、散歩しながら絵を描くポイントを探していると、近所のクロ犬が付いてくる様になった。
     私の前後を行ったり来たりしながら一緒に散歩するのである。
     夜、夕食を食べに行くと横で寝て待っているし、夜は部屋の前のマットで寝ているのである。
     人に媚びるでもなく、それでいて私の姿を見つけると必ずついてくる。
     3歳位のオス犬で左目が少し悪い様で、名前をブラッキーと名づけた。
     最後ここを離れる時、桟橋までついて来て、見送ってくれるので無い後ろ髪を引かれる思いであった。
        
        階段で見送ってくれるブラッキー

     近所の集会所で葬式をしている。
     棺の周りに、親族が座っていて、オバアチャンが大きな声で泣きながら喋っている。
     この地方は仏教徒でもモスリムでもヒンズーでもなく、クリスチャンなので別に祭壇もなくシンプルである。
     大勢の村人が、やってくる。
     しかし、どことなくインドネシアの昔からの葬式の感じがするのは何故だろう。
     オバアチャンの故人との別れを嘆く泣き声のためだろうか。
     理屈や、宗教の形を越えた、人の素朴な感情を感じる為だろうか。

     日曜日に散歩していると、女性は着飾って化粧をして教会に向かってお喋りしながら楽しそうに歩いている。
     女性も男性も正装は肩から布を掛ける様である。
     教会へ行く女性10人に対して男性1人位の割合である。
     ここの人は日本人とみると、
     ”ゲンキ? アリガト マシタ。”
     と言ってくる。
     若い男は、殆どがタバコを吸い、中にはまだ子供じゃないのと思われるのまでいる。
     こんなに自然に恵まれ環境の良い所でありながら、仕事の無いこの島で、将来どうしていくのだろうか。
     2年程前に来た時より、観光客がガタ減りである。
     ホテルも閉めてしまった所もチラホラある。
     理由は、スマトラ北部のテロの為観光客の足が遠のいたという事である。
     私にすれば、観光客で自然と人々の心が汚染されずにいてくれる方が嬉しいのであるが。
     実際、2年前に比べると、道端にはプラスチックが散乱し、湖底にもプラスチックが多くなっているのである。
     
     連絡船は手を振るとどこでもお客を拾ってくれる。(Anju)

     今の気候は雨季で、午前中爽やかな快晴で、午後3時頃から雨雲が出てきて湖面も波が立ってくる。
     Tuku−Tukuから雨が降った後だけ滝になるのが見える。
     歩いて1時間程で、登り口の村に入る。
     田んぼには水牛が草を食べるか、泥の中に体を埋めている。
     そこらじゅうにブーゲンビリア、その他(花の名前はこれしか分からない)が咲いている。
     休憩の為、村の喫茶店で紅茶に砂糖入りを注文する。
     勿論、喫茶店といっても普通の村の家の庭先にテーブルと木の長椅子が置いてあるだけである。
     村のオッサン達10人程が、飲み物を飲みながらタバコを吸い、お喋りをしている。
     滝への道を聞き、登っていく。
     道といっても途中からは、どこが道か分からなくなるほど草木が生い茂っている。
     最後の方は岩を這うようにして登り、滝壺に到着する。
     この水は草木の養分が含まれていて、少し褐色をしていて飲むと少し甘い。
     素っ裸になり滝壺で泳ぐが水が冷たすぎるので長くはいられない。
     登り口からこの滝壺までやはり1時間位かかった様である。
     
     雨の後だけ滝になる。


     再度、温泉へ向かう途中で大きな結婚式に出会った。
     大きなテントを張り、音響設備を揃え、大鍋に沢山の鶏を煮込み、もう一つの大鍋にはブタが
     五匹程入っている
     新郎新婦は相当のお金持ちなのであろう。
     村人50人位がテントの下でお喋りしながら見ている。
     本格的ビデオカメラで撮影している。
     今回は温泉の後、その先にあるビューポイントまで、バイクで登っていく。
     ここからの眺めは最高の景色である。
     眼下に広がる湖面と雲、湖に突き刺さるような山と谷、重なり合う入り江、湖面に浮かぶ水草が素晴らしい。
     しばし見とれて、スケッチをするが雨模様で帰り道が心配で引き上げる。
     
 
    インドネシア人は殆どの人が簡単な英語は喋ってくれる。
    日本は、中学から高校まで6年間は英語を勉強しているのに、どうして喋れないのであろう。
    英語文法とかはよく勉強するが、人と話すという最も基本的な事ができなければ一何の為に
    6年間もならっているのであろう。
    日本の英語教育制度に問題があると言わなければならない。
    原因は勿論、受験勉強の為の英語であるからである。
    好き嫌いに関係なく、世界共通語になってしまった英語は、道具として使えれば便利な事に
    間違いが無い。
    今、私は殆ど英語を使う生活をしているが、今になって思うにもっと会話を勉強しておけば
    良かったのにと後悔するのである。
    もっと自由に喋る事ができれば、多くのヨッテイーともっと親密になれたかもしれないのである。


 13日 ヨットハーバーの繋留期間が10月20日までなので、ペナン帰る事にする。
     今日はMedanで1泊しなければならない。
     私にとっては、天国の様なトバ湖から、自動車の排気ガスとクラクションとモスリムのがなり声のMedan
     へ、逆戻りである。
     前回と同じ所に泊ったが、この時期ラマダンの行事があるらしくモスリムのがなり声は音量を
     上げているようである。
     一般庶民の生活は貧しいのに、立派なモスリム寺院が建てられている。
     ミニバスで帰る道でも何箇所も道を塞ぐ格好でモスリム寺院建設の寄付をドライバーから徴収していた。
     ここにモスリムの自壊要素があると私は思っている。
     現在は広がりの勢いを持っているのは信仰が若いのと、多数に流れる人間性と、モスリム権力の座を
     目指す余地があるからと考えている。
     これが行き渡った時は、必要以上の寺院寄付に人々は矛盾をかんじるのではないか?
     この宗教組織も大変な権力であり、宗教組織に純粋なもの等無い。
     それに、もう一つ特に若い女性の美に対する追及をマチコ巻きで押さえつける事がいつまでできるだろうか。
     酒に、豚肉禁止も問題があるし、1日何回もお祈りも大変な事である。
     ラマダンが近づいているが、1ヶ月間 昼間は1滴の水さえ飲めなくなるので、仕事は勿論ストップし
     夜に、食べダメをするという昼夜逆の生活をすることに何の意味があるのかと疑問を抱く無宗教の私である。

     今回20日間、滞在費用(宿泊費、食費、交通費等)はUS$350
              Ferry往復切符 180RM(約6,000円)
              インドネシアViza代  US$25
      であった。
         
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