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             第134番 京都にて    2012年6月

6月3日 岡崎40ft パイロットハウス艇(Jacky)の操船助っ人


朝7時半阪急電車で梅田へ、久しぶりの地下街歩きにワクワクする。

サンドイッチ、クロワッサンを買い阪神電車で西宮へ、そこからバスで新西宮ヨットハーバーへ到着。

大きななヨットハーバーで田舎モンの私は入口が分らないので大学生に聞いて、学生側のハーバーから入る。

結局、クラブハウス裏口から進入し、ウロウロしていると、エルミタさんから声をかけられ目的地到着である。

ランカウイヨットクラブに有るようなパワーボートとヨットが係留されている。

挨拶もそこそこに船の点検にかかる。

エンジンオイル、クーラント等減っているが、今日の離着岸練習には問題なさそうである。

海遊人さんは、操船について丁寧に教えてくださる。

何度か離着岸を繰り返し、ハーバーをでて、一文字と言われている長い防波堤を回って帰ってくる。

下船の後は、紅のテツさんの出番でバーベキューで宴会となった。

海出の遊びは、どこか子供の遊びに似ている為か、会えば直ぐ仲間になってしまう。

本名も過去経験も関係なく、今、楽しく遊ぶというのが良いのである。




海の旅 その1

ヨットでクルージングに行こうとある日突然思いだす。

その思いは次第に強くなってくるが、一方海でのトラブルも思い出され心は揺れ動く。

私はその思いを固める為に、自分を追い込んでいく。

「私は、未だ行った事のない海の旅をするんだ!」

誰の為でもないのに。。

そして一旦海に出ると、もう、陸で色々考えていた事は全て忘れてしまう。

スピードは5ノット(時速9〜10km)、歩くより速く自転車より遅い位か。

陸が見える間は、景色が殆ど変わらないし、海原にでると景色が変化する事も無い退屈な時間となるが、何故に魅かれるのだろう。
海の旅は陸の旅と違って道路が無いので、コースは自分の思うまま自由である。

又、トラブルがあっても他人に助けてもらう事はできない。

それだけに、何が起こっても自分の力で自分と船を助ける意志が必要である。

海は穏やかな時もあれば荒れる時もある。

望まなくても嵐に巻き込まれる。

私は、速く楽をしたいと思い焦り始めるが、そんな時に限ってトラブルは起こる。

「さあ、おまえはどうする?」

まるで海が私を試している様な気がする。

やっとの思いで港に逃げ込もうとする。

しかし、初めて入る港は危険が多いのである。

一度入れば、安全でホッとできるのだが入るまでは難しいという事で、ヨットマンは港は女性にたとえる事がある。

舫を取って上陸すると、もう、苦労した事は忘れている。

懲りないのがヨットマンのようである。


海の旅 その2

旅とは一体何だろう。

旅行社が用意のパック旅行との違いを考えてみる。

未だ行った事も無い所を見る感動、或いは人との出会いは同じかもしれないが、飛行機の旅は出発地から目的地までひとつ飛び、即ち点から点の旅で、その間は無で狭い飛行機の中だけである。

飛行機で数時間の距離をヨットは何日も、何カ月もかけて、地球の上を長い線を描くようにいく。

飛行機はプロの整備士とパイロットが安全に目的地まで連れて行ってくれるが、ヨットは自分で操船し、故障を直しながらいかなくてはならない。

パック旅行は何かトラブルがあれば旅行社にクレームも付けられるが、ヨットの旅は全て自己責任である。

どの様な旅をするかは本人しか分らないが、本当は本人さえ分からない旅なのである。

この永い航海中は陸から遠ざかっているので人恋しさの為か、思いがけない所で出逢う人から受ける親切に感動する。

一度出港すれば,二度と出逢う事もないヨットでの出逢いは一期一会である。

出逢った喜びを共有し、その短い時を存分に楽しむ。

この思いがヨットマンにある為に、初めて出逢うヨットマン同士も直ぐにうちとけやすいのかもしれない。

大人が何のしがらみもない素の人として、子供の様に出逢い遊ぶというのがヨットマンなのかも。。。


海の旅 その3

海を旅するには船が必要であるが、日本ではヨットは金持ちの遊びという偏見がある。

それは石原裕次郎とか加山雄三のイメージがあるのか、或いはヨットにはビキニ姿のお嬢さんがデッキに寝そべっている写真の影響かもしれない。

その後堀江健一さんが小さいヨットで太平洋を横断し、世界一周に挑戦する船が多くなった。

現代ではFRP素材の強さも分かり、性能の良いヨットが多くなったので世界一周も安全に航行可能となったが、未だに水も食料も燃料も制限のある小さなヨットで世界の海をクルージングしているヨットマンがいる。

私達は、そういうヨットマンをビッグセーラーと呼んでいる。

西欧諸国では船遊び文化が定着していて環境も整備されている。

残念ながら、日本では大人の船遊び文化は一般的でないようで、教育という冠がイベントには必要であるらしい。

江戸時代までは遊びの文化は有ったようにおもうのだが、江戸時代より裕福になった現代社会に遊び文化は残っているのだろうか。

遊びは人生を豊かにし余裕を持たせ、人間関係のショックアブソーバーになるとおもう。

遊び文化とはお金を使うのではなく、知恵を出し楽しく過ごすという事だと思う。

現代社会の遊びは、施設があり料金を払えば楽しめるというのが一般的だが、何もない所から遊びを作り出すというのが面白みではないのだろうか。

手前味噌のようだが、そういう意味で考えるとヨットマンは遊びの達人と言えるかもしれない。


久しぶりのコ〜ベ

淡路島都志ヨットクラブハウスのサンデッキ作りの手伝いを終え、朝、エルミタさんを待っても連絡がないので、高田屋嘉平バスセンターから、三宮行き高速バスに乗る。

京都は海が見えないので、暫く京都にいると精神不安定になり落ち着かない。

それでストレス解消の為に、一番前のバス席に座り瀬戸内海と大阪湾を飽きず眺める。

明石大橋から見る景色は特に懐かしい。

子供の頃に夏は毎日銛を持って魚とりをしたのだが,今は明石、舞子、垂水も護岸工事されて綺麗な砂浜は無いのが残念である。

税金を使って護岸工事をしたのに漁船はあまり漁にいかず、占有権を主張しプレジャーボート臨時係留さえ厳しいようである。

等とブツブツひとりごとを言っていると、三宮に着いた。

早速、ウロウロ見て回るが震災前と今では随分違ってしまったのだが、元町の今の中華街ができる前に、この裏通りにカッパ天国という味噌だれで食べる餃子専門店があった。

実はその店を探したいのだが見つからない。

震災前と変わらないのは元町ガード下なので、そこをうろつきながら、2軒味噌だれ餃子の店に入って試したが違う味であった。

思い出は味覚にもあるようだが、今となっては案外と大したものでないのかもしれない。。。


こんな事もあるのかな。。

ヨット仲間へopenCPN(海図)のデータをUSBメモリーに落として封筒にいれて切手を張り、近くの郵便局前のポストへ入れたのである。

送った友人から、メールがあり、封筒の下が切れていてUSBメモリーが無いので、その封筒と新しいUSBを入れて送り返したとの事。

中を確認すると、封筒の底を剃刀の様なものでUSBメモリーの大きさ分切られている。

海に関係の無い人にとっては全く無意味なデータであるが、もし仮にこれが個人情報等の入った物だと考えると恐ろしい事である。

郵便は宅配便と違って信用を売り物にしていたように思うが、怪しい事である。

皆様、ご用心!




香住東へ

京都竹山そうめん流しの後、舞鶴へ、翌朝岩牡蠣を食べてエルミタさんとバイバイ、Oldboy御夫妻と香住東港を目指す。

ナビの頭が悪いのか、怠け者なのか正確なルートを示さないので、地図で確認しながらキャンピングカーを走らせる。

走らせるのはOldboyさんで、私は後ろで缶ビールをチビチビ飲みながら、うつらうつらしているだけである。

綺麗な海が見えて来て、香住東港へ到着すると、T先生の船が見えてきた。

主人を亡くし岸壁に繋がれた船はどこかさびしそうに見える。

この船を引きうけて下さったMさんから亡くなる前日の様子を聞く。

地元ヨット仲間のパーテイに参加され酒を飲み船に戻り、充電の為発電機を回して寝たらしく、排気ガスの接続部分漏れから酸欠で亡くなられたという事である。

同じ様な事故は、約10年前大阪から沖縄まで行ったピーター(アメリカ人)がジャガイモを茹でるのにコンロをつけ寝てしまって酸欠で死亡したという話を鹿児島でしていたのであるが。。。

モノハル艇はバースが下の為、二酸化炭素は下に溜まるので知らないうちに酸欠になる。

煮炊きする時は外でするか、カセットコンロ位なら消し忘れても数時間でガス欠になるから安全かもしれない。

皆様も御用心!



こんな事もあるのかな その2

2週間ほど前に、「こんな事もあるのかな」で、封筒に入れたUSBメモリーの盗難の件を書いたが、昨夜遅く、郵便局から事情説明に来た。

郵便局側は紛失というので、これは盗難であるという。

理由は二重の封筒を使用していて、そこが綺麗に開けられている、もし、封筒が破れたとしたらこんなに綺麗にUSBメモリーの幅に開かないだろう。

全く違うUSBメモリーを持ってきているが、誰のものか分らないものは受け取れない。

結局、どこでこの様な事が起ったのか特定できないらしい。

これなら、信用して郵便ポストに入れる事もできない。

まだ宅配便の方が、荷物の行方がはっきりするので事故が起こりにくいかもしれない。


ヨットにつきものの藤壷だが。。

海に係留しているヨットにとって、藤壷はやっかいなものである。

名前は綺麗で、富士山の形に似ているので富士壷と書いたりする。

船底塗料で厚化粧しても、音も無く吸いついている。

この藤壷は何度も姿を変えて、居心地のよさそうな所を見つけると糊の様なものを出し吸いつき根を降ろす。

面白い事に最初は贅沢に居心地の良い所を選ぶのだが、体力が落ちてくると所を構わなくなる。

沢山つけば、動けなくなり、スッポンより強力で離れない。

これからは「あの人は藤壷みたい。」と言えば角が立たないかも。。

しかし藤壷は角が立っていて触れれば危険なのである。

インターネットで調べてみると、この藤壷食べられるらしく、美味しいようだ。

決して、世の女性の事ではなく、藤壷という貝の様な甲殻類の話である。

こう考えると 憎い藤壷も可愛く思えるじゃないか。。




西伊豆クルージング

その1

19日24:50 京都八条口から夜行バスに乗る。

大阪からはオザ坊、紅のテツさん、エルミタージュさん、ももさんが既に乗っていた。

海遊人さんは新幹線で既に先行到着。

翌日沼津で東京方面から3名と合流しタクシーで港にいき、西伊豆の宇久須港宴会場民宿まきばへ向かう。

沼津から3艇 安良里から3艇集合し(波勝、童夢、Voyager,Donchuck、Hope3 Suzy)、総勢18名位で顔合わせ後、大宴会となる。

殆どの人達と初対面ながら、昔からの友人のように打ち解けヨットに戻り2次会で夜遅くまで飲んで喋ったのである。




西伊豆クルージング

総航行距離 120マイル。

天候曇り、時々雨、気温はこの季節としては低かった。

伊豆半島の西側は海象は穏やかであった。

海から見る景色は石灰岩が長い年月をかけ風と雨と波により彫刻されて素晴らしい景色になっている.。.

半島の先端まで出ると北東の風15ノット位、波頭も崩れ、ほぼアビームで時々波をかぶりながら機帆走を続ける。

海の青さ、透明度は素晴らしい。

船内は物が飛び始めたので、メインをワンポイントリーフし、ヒールを抑えて走っている。

苦労して到着した新島は露天風呂があり、そこから眺めは絶景である。

夜に星をみながらもう一度入り、翌早朝も朝日をみながら湯に浸かり、素晴らしいクルージングになった。

 


瀬戸内海ワタリガニクルージング

新西宮ヨットハーバーを10時、岡崎40ftJackyでオーナーのM氏とテツさんの3人で出港。

台風が九州南部を掠めていて海象はよくないので、明石海峡を明石よりに走り、淡路島都志港へ。

岸壁にはオザ坊会長、エルミタさん、徳島料亭会長Hさんが舫を取ってくれる。

早速、高田屋嘉平温泉で潮を落とし、夕闇を待って、1日目のパーテイである。

ここで、徳島料亭会長Hさんの豪華料理の差し入れに、感謝、感謝!。

宴会を始めようとすると、近所のオジサン(実は都志の会長さん)が

「なにしよるん?」

「どうです、一緒に。」

と言う事で、早速仲間にいれる。

話をしていて、都志の会長さんである事がわかるが、地元のエルミタさんを「若!」と呼んでいる。

話は夜更けまで続き、オートハープのHさんも呼び益々もりあがる。

  


2日目 Jackyは6人乗り、海遊人さんと合流する為、牟礼港を目指し、沖合で合流、そのまま男木島へ入港。

この島は海彦山彦の伝説の島で奥さんの豊玉姫がワニに変身したそうで、昔から女の人には御用心というお話のようだ。

又、すぐ前の女木島は桃太郎伝説があり、港の青灯に鬼が立っている。

この島は急斜面に家が建っていて、階段が多い。

今日のワタリガニは浜上旅館へ。

この家は年代物で障子はきっちりと締まらないし、畳は傾いていて立って歩くと酔っている様な気になる。

勿論御主人はオジイチャン、オバアチャン2人の3人だが、お手伝いをした方が速い。

メインの料理はワタリガニ3匹、刺身、小エビ、焼き魚、天ぷら、と多すぎて食べられない所か、酒も飲めない位満腹である。

夜になると、オザ坊が帰らなければならないので、海遊人さんが高松まで送って行く事に。

満月で海は静かなので、それじゃ、折角のナイトクルージング経験ができると、皆さん見送りに行く。

3日目は都志で再度宴会、4日目新西宮へ寄港。

久しぶりの素晴らしいナイトクルージングであった。

    





自家製スダチポン酢作り

ワタリガニツアー後、京都宇津峡キャンプで川遊び、今日は大津花火大会を琵琶湖柳ヶ崎でヨット上で見ながら一杯飲みの予定。


スダチ、ゆず等で自家製ポン酢の基本作り方。
(果実の酸っぱさで酢の分量を変えてみてください)

材料:aスダチ(絞って種を取った分量を例100ccとする)
    b酢(aと同量)100cc
    c味醂( 200cc(ac味醂( 200cc(a+b)x0.8 )=160cc
d醤油( 200cc(a+b)x1.2 )=240cc
昆布
    かつお節

作り方:
1.c味醂160ccとd醤油240ccと昆布を鍋に入れ弱火で沸騰する前に止める。

2.昆布を取り出し、b酢100ccを入れかつお節を入れ沸騰する前に火を止め、aスダチ100ccを加えて一晩放置。

3.かつお節を濾して出来上がり。


大津花火大会

8月8日は大津花火大会で、琵琶湖柳ヶ崎の友人のヨットでみる事にしている。

あまり会う事も無い人たちも、この日はハーバーに来るので、花火も楽しみだが友人に逢うのも楽しみである。

18年前、遊帆(UFO)を動かしながら、寄港地から各人の都合で乗り込み日本1周をした。

その当時の人も、出逢う事も少なくなってしまったが、そのうちの一人、鍵さんと出逢った。

相変わらず、ダラダラとビールを飲むのは変わらないらしいが元気な様子だ。

同じ船で共にクルージングした仲間は、特別な思いがある。

焼き鳥にビールと喋りながら、飲んでいると花火が揚がる前に出来上がってしまった。

肝心の花火は、毎年景気良く大玉が揚がり見事であった。




海だけは自由な海であってほしい。

今日は終戦記念日、夜に「私は貝になりたい」等、記念番組が放映される。

遊帆(UFO)が航行した場所は、戦争に関係のある場所が殆どだった。

沖縄、台湾からフイリッピンへ、マニラ湾のコレヒドール島のハチの巣状の弾痕をみて、これほど人間は残酷になれるのだろうかと思った。

マレーシア、インドネシアの日本軍陣地死守跡の塹壕は各地にあった。

インド洋上アンダマン諸島のカーニコバル島へ漂着時、村民と村長に、貴重な鶏肉、豚肉を差し入れして貰い、ヨット修理の手助けをして貰った。

その時、村長が

「私の父は英語を話せた為、スパイ容疑で日本軍に拷問され殺されました。」

と、さらりと話されたが、後日この島がカーニコバル島事件の現場であった事を知る。

別れが近づいたある日、村民の結婚式があるというので、招待され、その時日本軍塹壕と飛行場をみた。

この島は戦後外国人上陸禁止だが、多分、私が日本人として最初に上陸したのではないか。

心やさしい人たちの住むカーニコバル島も島全体が海抜が低い為、インドネシア沖地震の時に多大な被害を被ったはずであるが、その報道は一切なかった。

いつの日か、緊急避難で再度上陸を試みる積りである。

いつまでも航行制限のない自由な海であって欲しいと願うばかりである。


興味がある方は、遊帆(UFO)航海記のカーニコバル島

http://ufoboat.sakura.ne.jp/eotomonaru/nicobar.htm


大文字送り火と共に

今日の天気は晴れ。

大文字送り火は綺麗に見えるでしょう。

仏様を送る送り火と一緒に、盆正月しか戻らないホットケ様の私も明日ペナンに戻ります。

イスラムの国は今はラマダン中かラマダン明けのハリラヤの筈である。

この季節は中華系は旧盆、インドヒンズー系もお祭りがある。

お祭り好きの私は嬉しい季節である。


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