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86番 ユキさん天国へ出港(京都からペナンに) 2008年1月
1月初め 寒い京都洛西の山を散歩する。
自分の足腰が弱り、肥えたのが実感できる。
家から100mも坂道を上がれば、竹林の山道になる。
農家の庭先やら畑の中に無人野菜売り場がある。
大根、キュウリ、キノコ、等が袋に入れてある。
何でも100円でお金を入れる箱が置いてあるのだが、これは日本の田舎だから成立する販売方法だろう。
他人を信用するという下地が無ければ、置いてある野菜だけでなく
中に入っているお金まで持っていかれてしまうであろう。
いつまでも、この様な風景が残って欲しいものである。
原油高、株安、物価高、賃金安と新春からのニュースに明るいものが無い。
益々暮らしにくくなると予想される日本を離れて、ペナンに早く戻りたい。
毎日、上下1枚だけの服装で、おいしくて安い中華、インド、マレー料理を食べて、
ボーと遊帆UFOで過ごすプータロー生活は1ヶ月6万円程である。
書き始めた頃の航海記を読み返すと、その時の記憶が蘇る。
沖縄から、台湾へ始めてのヨットでの入国手続きを終え、、フィリッピンでカルチャーショックを受け、
マレーシア、タイ、スリランカ、インドと気の向くまま続けたクルージングを読み返すと、つまらない航海記だが、
私には人生の貴重な記録となった。
いつの日か、孫達から
”ジジイはこんな事してたんやな”
等と、思ってもらえれば十分なのである。
今年はペナンから動くだろうか?
フィリッピンも再度戻ってみたいが、今のペナン海上生活を捨ててアンカーを揚げるまでの気力が起こらない。
何処にいても誰からも何も言われないので、未だ暫くはこの生活が続きそうである。
年明けからニュースを見ても、景気悪化の話ばかりが目立つ。
どうも日本は島国の中でぬるま湯に浸かったまま、ジワジワと冷えていく風呂の中にいて、
あがる事もできず、風邪を引き肺炎を起こして死ぬのを待っているように思える。
海外から見ると、先ず税金高、物価高に誰も文句を言わない日本人が不思議に見えるらしい。
給料が下がり、ワーキングプアと呼ばれる人だけでなく、年収200万円以下の人々が増えているのに
誰も問題にしていない。
自分だけは違うと思っているうちに、本当に暮らしにくい日本になっているのである。
年金生活者が増える日本人は暮らしやすい海外に出て行く可能性は大きくて、
今でもチェンマイ、ペナン等で多数の年金生活者が生活をエンジョイしているが、
円とタイバーツ、マレーシアリンギット、シンガポールドル、香港ドル、中国元、韓国ウオン、ユーロー等の
関係は大幅な円安になっている。
この事はアジア輸入品の多い日本は沢山のお金を支払っている事になるのである。
海外で円を現地通貨に交換しながら生活をしている私には、10%以上は目減りしたように思える。
日本は、これだけ世界に製品を輸出していながら何故暮らしにくくなっていくのか不思議である。
政治屋はノウテンキに自分が権力をとる事だけを考えていて、官僚は自分の権益を伸ばす事しか頭に無い。
テレビはお手軽なコメデイアンで番組を作り、報道の本当の義務さえ忘れているのである。
自分の命を捨てても日本国民の利益の為に尽くすというウルトラマンは現れないのだろうか。
国に対する不信感から心の日の丸の色が褪せていく国民が増えるのが一番国家としての悪い姿になるのではないか。
日本製品といえば、高品質に付加価値をつけて高価格にして競争に勝ってきたが、その戦略も気がついてみれば
世界の標準規格から離れていて、消費者に受け入れられないという現象が起こっている。
いよいよ、日本社会主義国も世界で通用しない国家になりそうである。
我々一般庶民は益々自己防衛を考えなければ生きていけないと言う事になりそうである。
1月17日 太田さんから電話がかかる。
”オバタさん、ビックリせんときいてや。ユキさんがタイで心臓発作で亡くならはったんやて。”
彼は高血圧で心臓の心拍数が乱れるような事は言っていたのを聞いていたが、
そこまで悪いとは思わなかった。
連絡してくれたのは、現地在住のボランテイアのオギノさんという方らしいので
国際電話を入れてみる、と同時に二人の息子さんに連絡を取る。
ユキさんの死亡場所はバンコックから約200Km北のナコンサワーンという町で、彼女と一緒に暮らしている
家で明け方の5時頃心臓発作で死亡したらしい。
タイの葬式は、1週間位祭って、その間親類近所に食事から酒等を出し、お祭りの様になるのは何度も見ている。
夕方に息子さんとも電話連絡が取れるが、気が動転していてどうして良いか分からないらしい。
今、難しい事を言っても混乱するばかりなので、遺体を引き取りにタイまで行くか、遺体を現地で火葬するか
だけを決めて連絡してくださいと言う事にした。
1時間程して息子さんから電話がある。
”タイのオギノさんに国際電話をいれても話中で繋がりません。
パスポートも持っていませんし、外国に行ったこともないので、出来ればオバタさんにお願いしたいのです。”
”それでは現地火葬にして遺骨だけ持ち帰るようにします。”
私は20日にペナンのハーバーに戻るので、21日にバンコックへ飛行機で行く事にした。
ユキさんが亡くなった日を良く考えてみると、役所の書類手続き等取り揃える日と、私がペナンに戻る日と
自分のタイでの葬式とのタイミングを合わせているようで、どうやら私に事後を託しているように思えるので、
お節介な私はこの役を引き受けたのであった。
10年程前 韓国釜山に遊帆UFOを繋留している時に遊びに来てバイクに乗っているユキさん
2000年3月年頃 セブ島で海上海鮮料理屋にて
2000年頃 フィリッピン ルバング島
2000年頃 フィリピン パラワン島のマキニット天然露天風呂
遊帆UFOが未だ日本を周回している時に、ユキさんは色んな所で遊帆UFOに乗って一緒にクルージングをした。
その後もフィリッピンにも何度も来て、パラワン、セブ、ボホール等も一緒にクルージングをしたのを思い出す。
気は優しく人との争いをしない人で、人間関係の緩衝材のような所があった。
奥さんを若いときに癌でなくし、年金生活に入り息子さんを男手一つで育て上げ、自分の人生を
エンジョイしだした所であった。
急がず無理をせずマイペースで人生を楽しみながら過ごしたように思えるのであった。
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