目次に戻る
前のページ(83番 1年ぶりに遊帆UFOに戻る) 84番 プーケットへ小旅行 2007年 9月
9月13日 ラマダン(断食)が始まる。
マレー系のレストランはお昼は営業せず、日暮れの7時頃から店を開けだす。
モスリム信者は朝に腹いっぱい食べておいて、午後7時頃まで水さえ飲むことができない。
食事もできない貧者と同じ苦しみを味わうためらしいが、そんな僅か半日という
中途半端な事をせず、1ヶ月間続けて水も食物も口にしないという覚悟で望んでもらいたいものである。
その為に、ここJabatan Harborの職員達も朝一寸顔出して、午後の2時頃には帰宅という有様で
仕事等しないのである。
上司にも誰にも遠慮せず職場放棄する事ができるのであり、日本のサラリーマンの様に、
有給休暇があっても、同僚、上司の顔色を伺いながらそれでも休みが取れないという、この差は
一体どちらが社会と、個人の関係において、良いのだろうか。
中華系はというと、旧盆にあたり九皇帝祭とかいう祭事で町のあちらこちらに舞台が拵えられ
米、お菓子、餅、パイナップル等がお供えに集められて山盛りに供えられている。
インド系はベジタリアン祭りでリトルインデイアでお祭りが行われる。
そんな訳で、9月は神様にとってゆっくり寝ていられない忙しい月のようである。
遊帆UFOはBatu Maung造船所で修理した時、そこのメカニックの技術力の無さに呆れたものだが、
そのお陰で、ドライブからギアオイルが漏れるというクレームが起こったのである。
早速、責任者にクレームをつけに行き、再度、上架、ドライブ修理を無料でやる事までは同意させたが、
優秀なメカニックがいないので、こちらで探して欲しい、但し、修理費の相談は自分がするという、
という凡そ無責任な話である。
相手の出方次第で、私の対応は決まるので、じっくり考慮中である。
どちらにしても、ラマダン中は仕事にならないので、ラマダンあけの1ヵ月後位に遊帆UFOを揚げて
取りあえず、完璧に修理と故障原因元である、エンジンマウントとドライブの芯だしを終えてからの
交渉になる。
それで、どこにも出かけない大西さんを連れ出してプーケットにでも旅行しようという事にしたのである。
国境に近い大きな商業都市ハイチャイ(HATYAI)からEXPRESS BUSでKRABIへ向かう。
昼頃にTRANという町に到着し、昼飯を食べる。
タイ人はオバチャンもオネエチャンもオッサンまでもニコニコして愛想が良い。
KRABIでバスを降りた我々は、何処へ行くか決めるのにTOUR
INFORMATIONと書いてある看板の
ニイチャンの店に入る。
親切なニイチャンは地図を出して現在位置を示してくれる。
近く(70KM)に、AO NANGというリゾートがあるので、そこに決める。
ニイチャンの本業はタクシーの運ちゃんらしく、
”一人700バーツで行くよ。”
”我々は、貧乏人だから、あそこの乗り合いトラック〔50バーツ)にするわ。サンキュー”
AO NANG ビーチはヨットマンの間では、景色はいいがあまり人気が無い。
10KMはある白い砂浜の沖は、遠浅でデインギーの上陸場所さえない。
1艇 カタマランがアンカーを降ろしている。
海には所々石灰岩でできた島又は大きな岩が突き刺さっていて、日本松島の大型版である。
断崖絶壁の花崗岩島又は大きな岩は風雨波浪で侵食され洞窟になっているので、
そこに海燕が巣をつくり、それを人間がとって食べるという事で、貴重な食材の産地である。
我々、特に大西さんは景色にも食事にも興味無しなので、近くのレストランで酒を持ち込み
人生の幸福とは何ぞや、という様なテーマを肴に飲む。
この辺りのテーマだと、酔っ払う程に議論は支離滅裂になり、そうなった所で切り上げて寝るのである。
元来、人生の幸福など価値観の違うものであって、いくら議論しても各個人の心の持ち方によるのである。
それにしても、客は少なく不景気なようである。
Krabiの旅行社でプーケットまでのバスのチケットを買うが350バーツと一寸高めであったが、
私はEXPRESS BUSの停留所で乗り換えるものと考えていた。
マイクロバスは我々と女の子1人乗せて、ゴムとパーム椰子の林の中の道路を走る。
周りは、石灰岩の奇山、奇岩である。
どうも、おかしいので、バスの運転手に聞くと、このままプーケットまで行くらしい。
それでは、ついでにシャロン湾まで追加料金を払っていってもらう事にする。
私は、住み慣れたレンタルームを借り、大西さんは高級ホテルに泊まることにした。
といっても、僅か20mも離れていない。
ここは、あちらこちらに顔なじみがいるが、不景気の為か随分店の閉まったところが目立つのである。
それにしても、毎日雨ばかりである。
毎日、食事以外はレンタルームで電子本を読む。
昼間の雨上がりにシャロン湾の海岸沿いを歩いていると、
”ハロー、ハロー”
と、野太いがオバチャンの声がする。
私が呼び止められるとは思わないのでそのまま通り過ぎると、バイクに乗って来たタイ人のニイチャンが
”久しぶり”、と声を掛けられる。
”やあ、久しぶり。所でここに店を開いていた船外機修理工場はどこにいった?”
シャロン湾の東の方を指差し、
”あっちに引っ越したよ。”
”じゃ、ドイツ人のアルバトロスのハインツ爺さんは未だここらにいるか?”
”奥さんは、僕の店で働いているよ。”
何と、さっき野太い声で呼んでいたオバチャンがそうである。
”あんた、私が大きな声で呼んでいたのに分からんかったか?”
”分かっていたけど、まさか綺麗な女性の声で呼ばれる覚えは無いから自分じゃないと思っていたよ。
所で、ハインツは何処に行った?”
”今、ランカウイよ。1週間程したら帰ってくるわ。”
”じゃ、よろしく言っておいて。
このハインツジイサンは、未だ第2次世界大戦が続いていると錯覚しているようで、
私の顔をみると敬礼し、日本とは同盟軍だからな,等と言うのが常である。
夜に雨も上がり月も出てきたので3km程ある桟橋を歩いて先端までいく。
夜風が汗をかいた肌に気持ちよい。
桟橋の東側にポンツーンを建設中のようである。
こちら側は浅いので、キールの長いヨットはどうであろうか?
暗い海だが今日は波も穏やかである。
インド洋でサイクロンにあい、デスマストし、カーニコバル島でスリップするクラッチの応急処置をし、
竹を5本合わせイマージェンシーマストを立て、オーニングを張り、ここまで帰ってきた時の事を思い出す。
この沖合いに満身創痍の遊帆UFOのアンカーを降ろし、上陸した時は自分の運に感謝したものである。
今や遊帆UFOはポンツーンに繋がれ、陸電に水道、インターネット、冷蔵庫、エアコンと不自由の無い
海上生活を送っているが、この暗い海を見ると、心の底からセーリングスピリットが沸き立って来るようである。
日本一周時の函館、宮城、沖縄での荒天、台風遭遇、フィリッピンで台風遭遇のデスマスト、インド洋の
サイクロンデスマストと、どんな時でもファイテイングスピリットで切り抜けてきた。
今の軟弱な私と、年老いた遊帆UFOはあの大波強風に耐えられるだろうか?
来年辺り、再度未だ行った事の無い航海ルートを選んで航海に出てみようと思うのであった。
レンタバイクで南側の海岸線を走る。
この海のライトブルーとコバルトブルー、島の緑に、打ち寄せる波の白さ、空の青さに、白い雲、
赤、黄色の花と、素晴らしい景色である。
遠くにはもう島影は無い。
ナイハン、カタ、バトンビーチと走るが、この季節こちらにアンカーを降ろしているヨットは1隻もいない。
遠浅の為波は大きくなって浜に向かってくるので、流石に泳いでいる元気者はパラパラいるだけである。
殆どが海岸で日向ぼっこである。
日本のオネエチャン2人が、モーターボートで引っ張りあげるパラセーリングの値段交渉をしている。
どうやら、700バーツでOKしたようである。
タイ人パラセーリングの6人組みオニイチャンは沖合いのモーターボートに合図を送ると、モーターボートは
一気に浜に直角に進んできて、スクリューが底につくかつかないかの距離で海岸に待機しているニイチャンに
ロープを投げ、次の波が来る前に反転し、バウ(船首)が波の為に大きく持ち上げられ、叩きつけられるや、
沖合いに進んでいく。
海岸では、オネエチャンにハーネストを装着し、ライフジャケットを着せ、4人がかりでパラシュートを風に立て、
オネエチャンに繋ぐやいなや、5歩程走り空に舞い上がる。
オネエチャンの後ろにはニイチャンがハーネストもつけず乗って、パラシュートのコントロールをしている。
モーターボートは海岸線に沿って走り戻ってくる。
パラシュートの後ろに乗ったニイチャンは後ろのロープを引き降下を始める。
降下が早すぎても、ボートの位置が遠すぎても近すぎても着地点は僅か5m範囲であるが、そこに正確に
降りてくるのである。
この間5分位であろうか。
ボート、パラセールのコントロール共、見事なものである。
それにしても、日本のオネエチャンの度胸の良さは立派である。
町を歩いているのを見ても、男はどこか警戒して冒険もしないが、オネエチャンはタイのオバチャン相手に
値段交渉も電卓を何度もやりとりしてやっているのを見ると、これからの日本は女性の時代であると思うのである。
バトンビーチバは流石にプーケットで1番の観光地の為、観光客が大勢町を歩いている。
イタリアンレストランに入り、久しぶりに美味しいゴルゴンゾーラスパゲッテイを注文する。
町のあちらこちらに津波の非難場所を示す標識が立っている。
数年前の津波対策らしい。
津波が見えてからでは間に合わないが、警報装置等設置されたのであろうか。
めったに無い津波の為、警報装置があっても人々は鈍感になりそうである。
災害のデパート日本に住む私から見ると、タイ人は楽天的に思えるがそこが又良い所の様に思えるのである。
タイから帰って、毎日平和な浮草生活を楽しんでいる。
Issacで黄さんによる韓国料理を度々ご馳走になったり、皆さんを誘って食事に行く事が多い。
DVDの交換が流行っていて色んな船から回ってくる。
私は今はアメリカテレビドラマ”24”に凝っている。
一度見出すと止まらなくなり、寝不足気味である。
10月下旬から、再度BatuMungシップヤードで遊帆UFOを揚げて、ドライブのオイル漏れと芯だしをやらなければならない。
遊帆UFOの隣のバースはスエーデン夫婦である。
船はべネトウ45ft以上ありそうで、ドジャー代わりにソーラーパネルを8枚並べて設置しているお金持らしい
お年寄り夫婦である。
買い物以外は殆ど船から出る事なく1日中水着でデッキでジイサンは本を読み、バアサンは刺繍をしている。
ジイサンは体からプラスチック袋に胆のうか何かを出して、時々大きな袋で点滴でもしているようである。
口の悪いSamに言わすと、
"ジイサンは癌で、何時死ぬかわからんらしい"
というような事をいうのである。
それにしては、隣のジイサンはいつも堂々としている。
しょげるでなく、悲しそうな顔をするでなく、朝からビールをチビチビと飲み、昼食はバアサンとワインを飲み、
午後からは本を読み、3時ごろにはビールが片手に乗っているし、夜食には必ずバアサンとワインを飲んでいる。
勿論、タバコもしょっちゅうスパスパやっている。
諦観したジイサンの顔を見ると、中々真似ができるもんではないと感心するのである。
カタマランヨットのドイツ人ルデイは最近みるからにデカイ腹が少しへこんだ様に見える。
元来、熊のような体型で体重も100Kgs以上はあったようだが今は90Kgs程らしい。
”ルデイ、中々すっきりした体になってきたやないか、そのままダイエットしときな”
”金がなくて、飯をたべてないからな”
と、言うのは冗談でないが、そんなに恥とも苦とも思っていない所がよい。。
私は、一人もんだし、ルデイも今は臨時一人もんなので、気楽にサンドイッチ等を差し入れてやっている。
時々、チャーターヨットの仕事が入ると、私に飯の準備を頼みにくる。
”オバタ、お金払うから日本食頼む”
彼から金を貰う事など、はじめから頭に無い私は
”私は、プロじゃないから金はいらんけど、何か考えとくわ”
等と言いながら、鰻の太巻き寿司等を作ってやる。
チャーターヨットで残った食べ残しバター等、冷蔵庫がないので私の所にお礼として持ってくるという、
可愛らしい所もある。
この度、儲けた金で溜まっていた繋留費をやっと払ったのである。
テスコに行く道は高速道路の横に海岸線に沿って作られた歩道があり、木陰になって自転車で走っても
気持ちが良いので、マイロードと呼んでいる。
現在、ペナン大橋を拡張中で、マイロードは一部工事用車両の占有道路となり、私の自転車走行を
妨害すると言う事になっている。
大きなクレーンや掘削機の間を縫ってテスコに行くのである。
テスコで、今日の買い物をして支払い時になって、財布を持ってくるのを忘れたのに気がつく。
”チクショー。このアホめ。頭はぼけとるな。”
等と、自分に腹を立てながら元に戻していく。
結局何も買わず、買えずにスゴスゴと又愛車にのって爽やかな木陰のマイロードを走るのであった。
11月終頃
前回、BatuMaungの造船所でエンジンマウントとドライブカップリングを新しく交換した時、
ここのメカニックの雑な仕事のお陰でドライブとギアボックスの両方からオイルシールが破れて
漏れるというクレームが発生し、造船所に戻って1ヶ月程になる。
ドライブは修理が終わり、ギアボックスの部品到着待ちの状態である。
ここはトイレは汚いし、船底塗装の粉塵が舞っているので出来るだけ日中は外出している。
大西さんのアパートのプールで泳ぐのを日課にしていると、マレーシア人のハデイ、とヒデムという
男兄弟〔8歳と11歳)と、友達になった。
目がクリクリしてまつ毛が長く、可愛い顔をしていて、ためらう事なく色々と話をしにくる。
”オジサンは日本人か?僕達は同じアパートの9階にお母さんと住んでいるけど、後で遊びに行っていいか?”
”勿論、OKよ。”
大西さんとビールを飲んでいると、5時ごろに二人で遊びにきた。
”この家はジュースが無くて、ビールしかないけど飲むか?”
と、私が言うと、勿論、いらないという事らしい。
”それじゃ、チョコレートをあげる”
と、大西さんは冷蔵庫から出してくる。
”オジサンが面白い遊びを教えてあげる。”
と言いながら、帽子とミネラルウオータのプラスチックボトルを用意する。
ジャンケンで負けた方は帽子(ヘルメット)で防御、勝った方はプラスチックボトル〔刀)で頭を叩くという遊びである。
しばらく子供の世界に戻るのであった。
好きでない造船所でも、食堂のマレー肝っ玉カアサンが作る料理はなかなかの味である。
このカアサンは勿論マチコ巻きスタイルだが体型はドラエモンで、前歯が1ポンだけの可愛い顔をしている。
朝はトーストとミルクテイで昼は5種類位オカズを作ってくれているのを好きなものをご飯の上に乗せて見せると、
懸命に計算して大体の価格が出てくるが、どちらにしても安くて旨いので満足している。
ここで働いている人達は休憩時間に、ここで何か飲んだり食べたりするのである。
午前10時、12時、3時、5時になると食堂は混み合うということは、1時間半毎に休憩という
日本では考えられない時間割である。
12月
今年は殆どの日々をBatu Maungの造船所で過ごす事になってしまった。
その為に、ペナンでの友人、知人が増えここペナンの生活が益々気に入るという事になった。
この調子では、飛ぶ事を忘れたカラスか、泳ぎを忘れたカバになってしまう。
2年程前にここへ来た時、エアコン等勿論なかったが、いっこうに苦にならなかったのに、
今ではエアコン無しの生活は考えられないと言う有様である。
インターネット、洗濯機等は共同購入して使っている。
Jabatanハーバーに繋留しているヨットも殆どの船は全く動く気配がない。
隣のスエーデン人夫婦はオーニングを取り払って、パイプを組んで屋根をつくろうとしている。
”そのうちに2階建てのフローテイングハウスになるで”
と、ハーバーの仲間で話し合っている。
我が遊帆UFOもその仲間入りをしている。
中旬 修理が終わり、久しぶりに海の上を走る感覚は格別である。
見慣れた風景も海から見ると、全く違ったものに見える。
Jabatan ハーバーは狭い所である上に、遊帆UFOは舵ききが悪いので、中まで入ると後は舫ロープを
投げて、引いたり押したりして所定の場所に繋留する。
下手にエンジンで入れようとすると他船にぶつけたりするので、人力で少しずつ動かすのが安全である。
少しユラユラ揺れているのが、私は気持ちが良い。
いつの間にか、南国ではどこにでもいるゲッコー〔ヤモリの一種でゲッコーと鳴く)が遊帆UFOに住み着いている。
お互い一人もん同士、仲良く住み分けようと思っている。
気がついて見ると、もう12月も終わりに近い、ついこの間正月をしたと思ったのに、アッと言うまもなく
1年が終わろうとしている。
子供のときは、お年玉を貰える正月が中々来なかったのに、年が行くと、加速度的に時間が速く進むようである。
この年になってくると、後何年生きられるか等と考えるのが常である。
私の希望は遊帆UFOが浮かぶ棺桶となる事である。
ルデイの奥さんのモンが真剣な面持ちで頼みがあるというのである。
大体ルデイと関わってろくなことが無いのである。
”ルデイは今シンガポールに仕事に行っているが、チャーターヨットの仕事が入ったので誰かキャプテンを探しているの”
”前回、カナダ人のジヨーに頼んだから、もう一度頼めばいいじゃないか”
”彼は今回は嫌といってるの”
”それじゃ、チャーターをキャンセルしたらいいじゃないか”
”お金は受け取り、OKの返事をしてしまったの”
要するにお金は欲しいし、何とか助けてくれという勝手な依頼である。
”人の船を責任もって動かす事はできんな”
”私は一人でクオさんの所から動かして来たけど。”
何としても私を引きこもうと言う構えである。
ルデイ夫婦揃ってどうしようもないやっかいな奴である。
とは言うもののお節介人間でお人よしの私は困って頼みに来る者は出来れば何とかしてやりたい
と思う悪い癖があるのである。
”それじゃ、乗船合意書にサインするなら一緒にのってやるわ”
内容は、”今回 モンキャプテンの要請により、無報酬ボランテイアでアシストとして乗船するが、
航海中の事故と不法行為の責任は一切負わない。” というものである。
船の状態が完璧なのかどうかも分からないし、乗客の安全装備と保険の件も分からないのである。
多分、ルデイの事だから保険などかけていない筈である。
私自身も観光ビザで入国しているので、就労は違法となるし、そんな金は欲しくも無いのである。
チャーターした客は中華系マレーシア8人で、食料、ビール、釣竿を沢山持ってやってくる。
全員乗り込むと出港だが、ポートサイドのプロペラが欠けていて使えないのでスタボーサイドのエンジン1機だけである。
客がバック1つ忘れたと言う事で引き返し、鼻付けしてバックを放り投げてもらう。
初めから色々と問題発生、先が思いやられるのである。
午後4時港を離れて、釣りのポイントはペナン島の南15マイル程の所らしい。
午後8時、他の釣り船がアンカーを降ろしている近くで1回目のアンカーを降ろす。
仕掛けはアジに釣り針を3個引っ掛けて30m程釣り糸を出している。
2時間してもアタリがない。
ここはあかん。ほかへ移動しようという事で近くで2回目のアンカーを降ろす。
私と釣りは相性が悪く、今まででもあまり魚を釣ったことがないという実績〔ジンクス)がある。
30分程すると、皆がワイワイバタバタしだした。
”どうや、かかったか?”
”ビッグ。ビッグ。”
他の竿は回収して慎重に引き寄せるが右に左に暴れている。
近くまで引き寄せると。エイである。
日本ではあまり食べないが、マレーシアでは高級魚で、ついこの間もサムと一緒にエイのフィッシュカレー
〔マレー料理)を食べに行ったが実に美味なので、黄さん、李さんにお土産にテイクアウトした位である。
大きさは横幅80cm程、背中に白い斑点があり綺麗な模様をしているが、尻尾に毒があるので、先ず切り落とす。
取りあえず1匹ゲットでビールで乾杯し、写真撮影である。
明け方、6時次のポイント、日本軍艦が沈んでいる所(ペナン島の南5マイル)へ移動する。
既に、釣り船が4隻アンカーを降ろしている。
ここでは10分もすると1回目のアタリがきた。
体調1m程のバラクーダという高級魚で、銀色と黒の縞模様である。
4時間竿を降ろして、同じ位の大きさのバラクーダ3匹ゲットし、1匹は釣り糸を引きちぎって逃げていった。
逃がした魚は大きいというのは、世界共通のようで、しきりに悔しがっている。
釣りも上手い奴がやれば釣れるもんやなと感心するが、私の気性では釣竿で釣るより、網を降ろすか、
潜って指すかの方があっている。
ルデイの船も整備も完璧でないながらも、無事に寄港し、釣果もまあまあで客も喜んで帰り、モンもチャーター料
を貰って嬉しそうであった。