トップページに戻る

釜山から船がでるぞー」(遊帆 UFOの旅に参加して)        TOSA 福井 久

「釜山から船がでるぞー」との呼びかけに、「乗るよー」と答えた。 この度、小畑正憲氏のご厚意により、延べ102日にわたり遊帆に乗船させていただき、まず第ーに厚く御礼申し上げる次第です。 私が今回の日本海セーリングに参加させていただいた動機はいくつかありました。 先ず第一は海での長距離航海を経験してみたかったこと。次に釜山から出発するというちょっと他にない経験が出来るということ。3つ目はかって日本海に命をかけて荒波を渡って行ったであろうあの「北前船」を身近に感じて見たかったこと等がその動機でした。 中でも北前船に対するものは、近世で全く失われてしまったかっての北方民族との対等な取引が行われた歴史を偲んでの熱い思いがあったのです。もちろん現在にこのようなロマンをかけらでも感じることは不可能なことは、分かり過ぎるほど分かっていますが、その当時の陸の景色と現在とはどのように変わったのか人の心がどのように変わったのか、そして日本海はどのように変わったのかを実際に航海して実感してみることが目的だったと言えるとおもいます。   加賀の回船問屋銭屋五平の下で、北前船の梶取(かんどり)をしていた大野弁吉の旧宅や彼が作った操り人形を金沢港で見る事が出来、これだけでも来てよかったと感じました。また、永年の思いが強かった函館五稜郭、我が国の琥珀産出で有名な岩手県の久慈、漁港として有名な境港、輪島、八戸、気仙沼、塩竈、銚子など、そのそれぞれに栄枯盛衰の歴史を感じました。 また、生涯逢うことが無い人に、また、見ることが無いであろう風景を貪欲に取り入れてみたいというものがあったのです。 特にヨットでは普通の旅行では絶対に行かない、寄らない場所、例えば山口の角島。かつての北前船は瀬戸内を関門海峡から抜け出てこの角島を回り込みここから「日本海」に入ったとして以後の安全のための儀式をおこなったとか。 石川県の加賀橋立漁港、能登半島西岸の富来漁港、山形の粟島、また北海道ではかっては漁場としてまた歴史的に有名な江差、松前、恵山、そしてことのほか暖かく受け入れていただけた根室の落石等々で、豊かな自然と人情の厚さをいまだに豊かに色濃く残していることを強く感じさせて頂けたことが、ことのほか嬉しく、いずれも素晴らしい答えをもたらしてくれました。 以下、航海日誌的なものはここでは省略させていただき、それぞれの場所において見たこと、感じたこと思ったことを雑文ながら書いて行きたいと思います。  釜山付近  初めての韓国訪問であり、非常に興味があった。 釜山空港の税関で、五年も前のビデオカメラの申告をしていない(古いものは申告不要と案内書に書いてあるにも拘わらず新品と思われたのか)ということで、友好的ではあったが多少のやり取りがあった。  釜山において、マーケットでの商品そのものや、その品質、その売り方(展示方法・勧め方等)等が日本でのやりかたと可成異なっていて面白い。チャガルティ市場など、賑やかなこと、これが本当の市場かもしれない。 食べ物は総体に安くて旨い。特に焼き肉、鶏に香草入りご飯を詰め、十分に煮たものは実にうまい。 少し韓国の食べ物に慣れたようだ。韓国はやはり日本のふるさとなのだなあと感じる。

 対  馬  
ヨットによる入国は勿論初めてで、どのような事をするのか大いに興味があった。 黄色の検疫旗は上げていたが、検疫錨地がある訳でなく、いきなり岸壁に接岸した。係官が来るまでは出来るだけ上陸を控えていたが、余り神経質になることもないようだ。我々が接岸したのは11時30分頃だったが、まもなく検疫係官が来船し、小畑船長を相手に船内を調べていた。(船長の話では、船内にネズミの糞がないか等を調べるとのことである。) 次に税関関係係官、これが済むと入国関係係官、最後に海上保安庁のお出ましである。遊帆は関係係官と顔なじみであるらしいが、結構時間を食われ、(3時間余り)この日は入国手続きに取られてしまった。 入国手続きは結構面倒だが(船長が主として対応してもらったのだが)対馬の風物自然は素晴らしい。緑の多さ、浅茅湾(あそうわん)の景観、島の人情等、今回のクルージングでは十分な時間が無かったが、一度ゆっくり観光する値打ちは十分にあると思う。  山陰海岸   先にも少し触れましたが、対馬を出港後の風が素晴らしく、『走れ走れ』となり、九州方面への予定を変更して山口県の西北にある「角島」まで帆走した。  この角島は豊かな島で、山口県内は勿論、広島辺りからも魚釣や魚料理を目的に来島される人が多いとのことであった。  角島到着から次第に風向きが悪くなり、風も嵐の様になり、翌日は角島泊まりとなった。 今後の日数を勘定すると、横山さんとの約束の「境港で乗船、隠岐島へ」「宮津に5月2日」を守るのが大変困難になるので、2日後もまだ波・風ともあまり良くはないが、萩迄でも走っておこうと云うことで出帆した。 萩は港が充実しているところだ。大きな港が3カ所あるらしい。 我々は風呂と食事の為に出来るだけ街に近いところへ入港することにしているが、真ん中の港へ入った。風呂屋さんを人に教えてもらい、やっと探し当てたがあいにく日曜で休みとのこと。ガッカリしていると女将さんが見兼ねたのか「大浴槽に湯はないけれど、ボイラーには湯が残っているから、小浴槽に入れるので、それでよければどうぞ。」と云ってもらい、喜び勇んで、生まれて初めて「休日の風呂屋」の風呂にいれてもらった。おまけに風呂賃を払おうとしても「残り湯だから。」と受け取ってくれないので有り難くお礼を言って、風呂屋さんの煙突をビデオに収めて帰ってきた。本当に有り難かった。

 隠岐島   
隠岐島は浦郷に入港した。日は完全に暮れ、灯台と赤灯、青灯だけが頼りである。浦郷は港の前に島があり、当然ながら防波堤もある。沖から入って来ると何処が入り口なのか私の様な未経験者には何処もかしこも地獄の入口に見えて来る。悪い鬼がおいでおいでと呼んでいるような気もして来る。(岸壁に激突)なんて妄想も浮かんで来て、ヒヤヒヤものだ。。 「もう、夜間入港なんて厭や」と本気で考える。爪繰りながらやっと岸壁にたどり着いた。その時「危ない!浅瀬!」とバウでワッチしていた船長の声。ギョッとして海中を見るけど真っ暗で何も見えない。いまにも「ガリガリ、ドーン」とショックが来るのか。勿論船足は0になっている。懐中電灯を掴んで水中を照らすとなんと良く見えることか!海底はすぐそこ。ただし少しブルーかかっている。「大丈夫、大丈夫。水がきれいねん。底がよう見えてんねん」アアよかった。 翌朝、船から岸壁に渡るとき一瞬足がすくんだ。5メーターの底が丸見えだ。雪山でクレバスを跨いでいる感覚なのだ。全く「きれいな水!」こんなきれいな水がここにはあったんだという感激が襲いかかってきた。「ああ、来て良かった。」

 鳥取港(賀露港)  
あまり言いたくは無いのですが、賀露港はきれいな港とは決して言えません。ここで取り上げたのはこの賀露港から鳥取県の方々が北海道の開拓のために出て行かれ、その受け入れが後に出て来る函館の西埠頭であり、ここ鳥取賀露港と、函館港のいずれにも立派な記念碑が建立されております。当時の農村は移民をしなければならなかったのでしょう。また、北海道もそれを必要としていたのでしょう。  明治6年の北海道の人口は16万8千人であったのが、明治36年には100万人を越えたと物の本に記されていますが、何れにせよ遠い歴史として記念碑の中に埋もれて行くのでは無く、人間の営みは形や方法は変わってもその子に、孫に伝えられ立派に現在に生きているものと信じ、奇しくも遊帆が移住者が蝦夷の地に足跡を残したその場所のすぐ近くに舫いを取ったと言う偶然を有り難く感じます。(函館については再度書きたいと思います。)

 若狭和田  
遊帆は和田マリーナで整備を行った。(5月13日〜6月12日)このマリーナは気さくで親切でまた来てみたいと思わせる何かがあります。一見ぶっきらぼうだが、ハーバマスターをはじめ職員のかたがいい。近くにあればホームポートにしたいようだ。 風呂は本郷の町立の温泉で入れてもらえる。  北陸の海岸 北前船によって文化を移入され、育てられた日本海の港は、総じて文化度が高いと感じさせる。いや文化が練れているのだ。私が「裏日本」と言って、ある人から注意された。確かに日本海側は堂々たる文化区域の連続である。決して「裏」なんてものじゃない。北前船は文化の伝搬者であったのだということを確かに感じる。何処の港でもそれを感じる。日本海側の港に「京風」、「雅」が深く息づいている。金も儲けただろうが、文化も伝えた。北前船は偉大だったのだ。 6月13日整備が終わった遊帆は和田マリーナを出発した。

(第2レグの始まり)

敦賀港  
敦賀港はさすがに大きい。しかし、我らのヨットの様な船は上架ができない・ 部品が入手し難い(これは何処でもだが)など、ヨットには便利な所とは言えない。ヨットの文化はまだまだで、一握りの一部の人達のものに過ぎないもののようだ。しかし一般の、又は船に乗っていたひと達のカタマランに対する興味は大したもので、おおげさに言えば、入れかわり立ちかわり我が遊帆を見にきていた。またいろんな事を聞きに来た。これはここ敦賀の人達だけのことではなく、何処の港でも見られた傾向で、潜在的にヨットに対する興味は十分にあると感じた。しかし、ヨットの係留に始まり、メンテナンス、指導態勢などが全く無いので、折角の興味も現実のものにはなかなかなり難いのだろう。地域のヨット団体が自分等だけの楽しみに閉じこもらずこのような人達を包み込み、地域を動かし、行政を動かし産業活動一辺倒の港湾を解放させることはできないのだろうか。(後に述べる小樽港のやり方を嘆く者である。)

 三国港  
すぐ近くに東尋坊の観光地がある。  旧港と新港がある。旧港は九頭竜川の河口一帯で、街に近く東尋坊にも近くて便利ではあるが、漁船、作業船に追われてヨットはすみっこに肩を寄せ合っている。外来のヨットの置き場はまず無い。漁船の行き交いが激しく振り回される。   入浴や必要品の購入は先に旧港に一時停泊して(一時停泊程度なら停められる)済ませ、街から遠く不便ではあるが新港に停泊するのが良い。この新港は先日、テレビで「無駄な物」と批判されて紹介されたが、我々旅するヨットにとっては非常に有り難い結構な静かな停泊港である。近くに石油コンビナートがあり、石油精製の匂いが少しするので、風向きには注意されたい。昼間は岸壁からの釣で賑わう。(特に土・日曜日) 給水も可能である。

 金沢港  
ここも大きな港の一つである。左岸は漁船が多くヨットを泊める余地は少ない。地元のヨットが大野新橋近辺に停泊している。遊帆は思い切ってずっと奥の「みなと会館」近辺の公園岸壁に停泊した。 (無断係留禁止と書いてあるがこれは大型船へのものと解釈して気にしないことにした) その他、先に記した大野弁吉に由来する「からくり博物館」は一見に値する。  富来港(フキ)  金沢港から能登半島先の輪島迄は少し距離があり、入港時間が夜間になるので、安全の為に富来港に寄った。近く(南隣)に新港があるが、 旧港は何も無く不便だが静かで年寄りが多く親切でよい。風呂は無理だった。

 輪島港  
さすがに漁船のメッカである。漁船の数の多いこと。このような所なので停泊には気をつかうが、みんな親切だ。漁協作業場の前に泊めさせてもらった。

 舳倉島  
野鳥の保護が第一の島だけに蚊の多いこと。十分覚悟して、蚊取り線香、(蚊取り線香ぐらいでたじろぐような蚊ではないが)防虫スプレーは必需品だ。 これほどのところだから自然は豊かではある。しかし風がきついのか全く大きな樹木は無い。途中、七つ石などの岩の島があり、美しい。一寸した知られざる観光スポットである。

和倉温泉・七尾港  
能登半島の東側をのんびり南下して来ると右に大きな湾口があり、これを入って行くと左手は能登島で、ずんずん行くと建設中の大橋(まだ地図に載っていない)がある。これをくぐると間もなく和倉温泉、ここを過ぎて、も一つの橋をくぐると右手が七尾港だ。七尾は古い街でしっとりと落ち着いた味のある典型的な地方都市といったところ。クルーザーも10艇余り泊めてあった。

 富山岩瀬港  
ここでは面白い光景に出会った。かねてからロシア船が日本の中古車を買いに来ているとは聞いていた。多分半分腐食したような安いものを買って行くのだと勝手に想像していたが、なかなかどうして、3年落ちの堂々たるクラウン、はやりのRV車、ワンボックス車等々立派な車がほとんどである。それを木材を運搬してきた船に、またはそれ専用に回航された船に満載している。日本の中古車市場価格が高騰するのではないかと思われるほど一隻に100台以上積んで行く。資金も豊富に持ってきているとのことだ。世界の経済環境が随分変化していることを教えられた。

佐渡小木港・両津港  
遊帆のオーナーが所用のため、富山から京都に帰っている間に袖岡氏を船長に、鍵田、西村幸、福井の4名で佐渡へ。出港から数時間は風向き、強さが非常によく、これは楽勝と思われたが途中で風が落ち、小木港到着が計算通りにはゆかず遅くなり、おまけにかなりな雨が降ってきてちょっとした嵐の様になってきた。視界が悪いところへ小木港は現在改修中で、かなり様子が変わっている。少し遅くなったが予定の停泊場所に舫を取ることが出来た。皮肉なことにその時には嵐など無かったかのような静けさであった。  翌日は鍵田、西村両名は佐渡の観光に、袖岡船長、福井は遊帆を両津港へ回航した。  粟島  佐渡の東北東約40哩に粟島と云う小さな島が在るのをご存じだろうか。もう少しで山形県だ。地元の人達には釣のメッカらしく、新潟港船籍の釣船がたくさん停泊していた。この島の周回道路は現在改修整備中だが、島周辺の景観は「素晴らしい」の一言に尽きる。きれいな海、島を取り巻く岩礁の雄大さと松の緑。かっての我が国はこのように美しい国であったのだろうと考えてしまう景色であった。不便な所だが一度行ってみる価値はある。

酒田港  
暑き日を海に落として最上川 (芭蕉) 酒田の港は最上川と並んでいる。富山岩瀬港が神通川と並んでいるのと同じような構造であるが、ここはさすがに歴史も古く、北前船も大いに出入りしたであろう由緒ある港だ。  何と言ってもここは日本有数の米所、また知る人ぞしるあの有名な「本間家」の在るところだ。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた本間家だ。一説に本間家は日本海側から太平洋側まで自分の領地を通って行けたと云われるほどの「大地主」で在った。もちろんかっての農地解放により現在はそうゆう事は無いが、かっての栄華を今に伝えているものが残っている。「本間美術館」。ちょうど我々が酒田を訪れたとき、「歌川派の人々」と銘打った展示が行われていた。さすがに素晴らしい物ばかりであり、中でも喜多川歌麿の作品はさすがである。またこの建物が見事だ。特に庭園の造りが立派である。本間家の財力と文化度の高さをしらされた思いがした。  余談ながら、酒田とは「砂潟」とも書いたらしい。最上川の砂州なのかも知れない。そこが米の大産地だなんて!昔の農民の苦労が分かるようだ。

秋田港  
海側から高い塔が見える。秋田港の展望塔だ。 秋田港は市街地から10km程離れているので私は見る機会を失った。秋田から岩手にかけての「稲庭うどん」はその独特の歯ごたえで非常にうまい。 § 秋田から一泊2日の行程で、津軽海峡を右に見て一気に江差へ「北海道だ!」 とうとう遊帆は北海道に船足を延ばしてきた。 着いたところはかってのニシン場「江差港」

 江差港
江差追分にある「かもめ」の棲み家「鴎島」を回り込むと「江差ヨットハーバー」がある。親切なハーバーマスターに迎えられてしばしの休息をとった。  江差の繁華街は高台にあり、風呂へ行くのも、買い物に行くのも大変だ。 当時の回船問屋横山家で食べた「鰊そば」はうまかった。(それしか無いが) 幕末の幕府艦隊、別名榎本艦隊の旗艦「回陽」が復元されて展示されている。(完全復元では無く、水に浮いていないが)回陽はここ江差で嵐に会い座礁し、榎本武揚の「蝦夷共和国」建国の夢が断たれたのである。彼らの思いはどのようなものであっただろうか。

 奥尻島
あの津波被害の大きかった島、奥尻はどのようになっているのだろうか。心配と興味で奥尻島に着いた。津波で酷かった青苗には行かなかったので、あのテレビで見た光景は遥に灯台が見えるだけでよく見えなかったが、一見した表面だけのところではかなり復興しているように見えた。が、詳しくは分からない。 ウニの解禁は3日ほど後とのことで、残念ながら食いそびれてしまった。

 瀬棚港
かってこの瀬棚まで鉄道が来ていたのに今は線路すら取り払われている。ただ、奥尻島からの東日本フェリーがここに着く事で、かっての主要交通箇所として繁栄した思い出を残しているだけのようである。 しかしここには素晴らしいものがある。うまい水、町営の温泉、それに、興味のある人には高台のキャンプ場(青少年旅行村)。 港には「ろうそく岩」「三本杉岩」と呼ばれている奇岩が我らを待っていてくれた。 ここで気が付いたのだがここの水はなんてうまいのか!甘いのだ。ぜひここの水をのんでみてほしい。町の人も親切ですぐに友達になってしまう。町営の温泉もよい。

 小樽港
あこがれていた街だ。小樽は観光客も多く、さすがに活気があり夏の港祭りを控えて賑やかだ。しかしどうも我々「ホカケブネ乗」には嬉しくないのだ。 エッチラオッチラ積丹半島を回ってやっと着いた港で云われたことは「一日5000円の停泊料」だ。水も無ければ陸電も無い、単に岸壁に舫うだけでだ。ところが漁船なら1カ月1000円とか! ここの市役所は何を考えているのか。第3セクターが造ったヨットハーバーがあり、ここへヨットを置かせる措置かどうかは知らないが。あまりにも無茶苦茶だ。これでは世界のヨットマンは小樽を素通りしてしまいますよ。織田信長の「楽市、楽座」の故事を思い出してほしい。もうヨットは邪魔物の時代では無くなっていますよ。小樽のヨットマン諸君、君たちの頑張りを大いに期待しています。私たちも及ばずながらバックアップさせていただきますから!  文句だけでなく、良いことも一つ。7月に開場したばかりの市営温泉が港の海の方から見て右手、北の方にある。なかなか良い温泉だ。 §小樽から松前まではノンスットップ

松前港  
松前は南に面した軽い斜面の街だ。その斜面を海側からよく見ていると可愛い天守閣が見える「松前城」だ。松前と云うと徳川末期にロシア船の来航でもたもたしたとか、北方民族に対しての一手交易権取得による不平等取引によりシャクシャインの乱を引き起こすなどあまりいい感じは無かったが、今ではこじんまりとした静かな街だ。天守閣の回りは櫻の名所となっていて住民の憩いの場所である。

函館港  
ペリーが日本へ来航した時この函館を評して、「最良の港」と云ったそうだが、まさにそのとおり函館山に抱かれた函館港は港として絶好の地形をしている。しかしこの最良の港及びその周辺で、昭和29年9月26日の洞爺丸台風による大惨事(青函連絡船洞爺丸以下5隻沈没、乗客1100名、乗員353名死亡)が起こったとは信じられない思いだ。言い換えれば如何に良好な港であっても自然の猛威には勝てないと云うことであろう。 函館山からの景観は美しくて感動する。内には函館湾が一望に見え、函館港は手に取るようだ。目を南に転じると津軽海峡と函館湾を隔てる岬がこちらへ伸び、遥かな先に青森の大間崎がうっすらと見える。夜は函館市内の夜景が一段と冴え渡り、海上には烏賊釣り船の漁火が点々とみえる。美しい街だ。 函館港に遊帆は約2週間停泊した。7月31日に再度乗船し、8月2日、根室岬先端の納沙布岬に向けて出航した。乗員は船長小畑、西村(幸)、田中(治良)、福井の4名。 風向は東である。真のぼりだ。波もかなり高い。第3レグ第1日目としては可成きつい。船長の判断で亀田半島突端(北海道の尻尾の部分の東の端)の恵山山背漁港に緊急入港した。

恵山山背漁港 (えさんやませぎょこう)  
ここは昆布の主要産地である。昆布には「出し昆布」と「煮昆布」があり、ここの昆布は十勝方面で採れる昆布と共に「三石昆布」と云って出し昆布のなかでも高級品とのことだ。  恵山は活火山で、ひとつ東の漁港の近くに無料の温泉があると聞き早速自転車部隊で出発した。 あるある!小さな小屋掛けの温泉、おまけに混浴とのこと。勇んで入ろうとしたら止められた。「ちょっと待ってよ。うちはこれでも女やからな」と65歳くらいのおばあさんの声で止められた。。覗いて見ると、65歳から70歳くらいのお爺さんが3〜4人とこのお婆さんが入っている。「なるほどなー、昔なじみはいいけれど知らない人では駄目なのか」と変に感心して待っていたのを覚えている。もっともここの温泉は地元の人とその他の人との入浴時間が決まっていて、我々は地元の人の時間に行ったようだ。しかしそれでも入れてくれる。湯に浸かりながらおおらかな時間が済んでいった。

清河港  
襟裳岬の西北25哩にある漁港。日高山脈を後ろに控えた云々と云えば知っている人はハハーンとくるだろう。そう、あの有名なサラブレッドのシンザンの出生地である。町のあちこちに、いまだにシンザンの名前が書かれた看板がみられる。現役のときはもっと凄かっただろうな。 

 十勝港(広尾)
どうも風向きが悪い。距離が稼げない。仕方なく襟裳岬から20哩程東北へ行ったところで停泊した。街の感じは清河とよく似ている。 気前のいいおばさんのいる食堂でうまい夕食を食べた。町営の温泉もある。 厚岸港 やっと風も波もこちらのものになってくれたので、50度の方位で厚岸に向けて航走。 釧路の沖で変な背鰭がユラユラしている。「あれなんや?」「ワー マンボウや!」そう、マンボウの大群だ。1.5mぐらいのがいるいる。200匹いや500匹もいるだろうか。水の中からジーッと丸こい目玉でこちらを見ていた。 しばらく行くと今度はイルカの歓迎を受けた。走る!走る!走る! 飛ぶ!飛ぶ!飛ぶ!なんともエネルギッシュな動物だ。今は昼飯の小魚を追って大忙しの真っ最中か。  やっと遊帆は厚岸湾の入り口の大黒島を視認した。暗岩のある東の尻羽岬から十分離れて大黒島の近くを走る。大黒島はゼニカタアザラシの生息地で保護されている。厚岸は牡蛎がうまいがこんな真夏でも食べられるだろうか。 それと、も一つ私にはここ厚岸での目的がある。  徳川幕府がここ蝦夷の地を松前藩から取り上げ幕府直轄の地にしたころ、アイヌ同化のために鎌倉の禅寺の僧をこの地の他2カ所に派遣し寺院を建立した。 当時の厚岸にはアイヌの人たちが平和に暮らしていたが、日本本土より続々とシャモ(和人)が渡来しアイヌの人達を安い賃金で労役に従事させ、あらゆる事で圧迫し、無法を働いていたとか。この地に派遣された鎌倉の僧はこのような状況の中での教化に苦心したらしい。(佐江 衆一 「北の海明け」より) その寺「国泰寺」を見たいと思っていたことだ。 国泰寺は厚岸湾の奥、東岸の付け根の静かな山裾に、ひっそりと、しかし山門に葵の紋を誇らしげに印して禅寺らしく厳然と建っていた。山門付近はきれいに手入れされていて、入口手前右側に石碑が建っている。この石碑には「アイヌ民族弔魂碑」とあり、裏面には。 「弔魂の言葉 由来厚岸は美しい自然と資源に恵まれ、あなたがたの楽土でもあった。然るにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により財宝を奪われ、加えて苛酷な労働のために一命を失する者すら少なくなかったと聞く。蓋し(思うに・・筆者注)、感無量である。我らは今、先人に代わって過去一切の非道を深くお詫びするとともにその霊を慰めんため、この度、心ある人々相計り、東蝦夷発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる。  1977年8月15日    アイヌ民族弔魂碑建立委員会」 と刻まれていた。 この碑文を読んで国泰寺に来た目的は達したと思った。

 落石(おちいし)
落石は根室半島の西の付け根にある。 あまり我々関西人にはなじみの無い地名であるが、遊帆の乗員にとって漁協理事水口氏、佐藤勝利氏をはじめその他多くの方々の手厚い歓迎や初物のサンマを食べさせていただいたり、昆布、花咲蟹、イカの差し入れをしていただき忘れられない地名である。落石の皆様に厚く御礼申し上げます。 も一つここでカヌーで北海道一周の若者2人組に出会った。札幌を出て稚内、網走、根室と時計回りに来たそうだ。彼らのこれから航海の安全と成功を祈る。

 納沙布岬  
根室半島最東端のこの岬に向けて遊帆は走っている。 雲がかなり低く、見晴はあまり良くない。東へ、東へ、東へ。根室半島は長い。 先端の灯台を間近に見たのは14時。全員でワインの乾杯!天気が余り良くなく夕方のようだ。少し向こうに歯舞の灯台だろうかうっすらと見える。根室半島先端から少し西寄りに展望台らしいものもみえる。しかし観光地と云うムードは無い。東の国境のある厳しい場所という感じだ。 (余談ながら、ここは納沙布「ノサップ」、稚内には野寒布「ノシャップ」があります。) ここからUターンして一路函館へ。2泊3日のロングランだ! § 函館へ再び帰って来た遊帆は12日間の休みの後、8月26日函館を出帆した。  今度は太平洋が相手だ。さあ来い!と一人で力んでいる。

第4レグの始まりだ。
尻屋岬 大間を右後に残し、恐山を抱く下北半島を見ながら東南東へ。尻屋岬は見えているけどなかなか近づいて来ない。やっと近づいたと思ったらまだその先に低い陸地が続いている。尻屋岬の先端には離れ岩が2個ほどあり、あまり近付きたくない。 これで確実に太平洋に入ったと実感する。下北半島東岸は地図の通りまっすぐだ。遠くに霞んで聳えているのは恐山だろうか。一言で云って寂しい所だ。六ケ所村が見えてくるがいかめしい建物群と大型クレーンが忙しそうに動いているのが見える。 三沢基地からのものか戦闘機が2機上空を駆けて行く。 八戸 さすがに大きな港だ。北からまともに入って行くと、それを受け取るように防波堤があり、正面の灯台を入ると右と左の港に別れる。遊帆は右へ、内陸に近い方へ行く。漁船たまりが幾つかあり、高架道路下の船たまりに着艇した。八戸の街は港からかなり遠い。 風呂屋と食事を探して自転車で街に出た。も少し北に奥入瀬川が海に流れ込んでいるはずだ。十和田湖は50kmほど西にある。

久慈
青森県から岩手県に10Mほど入ったところに久慈がある。久慈港は静かだ。琥珀が今も採れるらしい。きれいなコインランドリーで洗濯をし、坂道を上って創価学会の温泉に入った。いい湯だった。

宮古
宮古湾の奥にヨットハーバーがある。現在拡張工事中だが一番奥だから漁船の出入りも少なく実に静かだ。 台風4号を避けて遊帆は3日間このハーバーに停泊した。若い親切なハーバーマスターは、琵琶湖にも来たことがあり、親切だった。 宮古の街も港から離れている。落ち着いた活気のある街だ。 魚屋、寿司屋、カレー屋、それに遊帆とバイクの整備のため、ホームセンターによく通った。割合便利な街だ。  気仙沼 宮古を出ると釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼といい港が並んでいる。陸前高田までは岩手県で、気仙沼は宮城県に入ったところにある。  台風4号による大雨のため、海は大変濁っている。流れ出た丸太、枯木、笹や草、塩ビのバケツ、発泡スチロール、果てはリムのついた車のタイヤーまで何でも流れているといった様子だ。このタイヤーにカモメが乗ってうまくバランスをとっているのがおかしかった。 風と波が良いと少しでも足を延ばしておきたいのがヨットマンの性か、今日はここ気仙沼まで走った。

気仙沼
ここはは大きな島と(大島)、深い湾に守られた絶好の港だ。我々の様な足の遅い船では港の奥までかなり時間がかかるが、入ってしまえば安息の場だ。 はじめは魚市場の横に停泊したが、翌日は奥の大島通いのフェリー横へ移動した。このほうが風呂屋、食堂、売店に便利だ。 台風の影響で港の中もゴミだらけで清掃の船がごみをすくい集めてくれていた。 平泉はここ気仙沼から近い。20km位だ。レンターカーで見学に行く。ついでに栗駒国定公園を走り山中の温泉にはいって一日を楽しんだ。  牡鹿半島・金華山・塩竈 台風4号が行き過ぎると海はいやに静になってしまい、天気も上乗だ。風もマアマアといったところ。 金華山は船の難所で、昔から潮岬と並んで大変な所と思っていたが、今日の金華山は優しく遊帆を迎えてくれ、其のうえに北の島々(笠貝島、平島、江ノ島 等)もすっきりとその姿を見せてくれていた。金華山瀬戸を越えてすぐ西に転じようとするが、網地島の南東端は洗岩、暗岩の連続で白波がたっていて、大きく迂回せねばならない。 遠く右岸に石巻を見て一路塩竈へ向かう。塩竈への目印は火力発電所の煙突なのだ。これが3本見えているが、松島湾の入口は洗岩、暗岩で白波が立っている。おまけに日が落ちて辺りが暗くなってくると、初めてここへ来たものには本当に分かりにくい。爪繰りながら塩竈港の松島観光船桟橋にたどりついた。

 松島
観光船桟橋はやはり天下の絶景「松島」観光の基地だけに観光船の多いこと。ずっと奥の空いている桟橋に翌朝早々に移転した。 昼頃から松島観光に出掛けたが、ここの水深は大変浅いという観念から抜け出るのに一苦労した。遊帆は喫水80cmと、良く知っているがどうも尻がこそばいようで落ち着かない。大型の観光船や本船の後を辿れば間違いないだろうと、小型の観光船や漁船が近道して行くのを羨ましげに見ながら名勝松島へたどりついた。  松島にはヨットハーバーがあり、ここの桟橋に着艇させてもらい、ハーバーマスターに挨拶すると気持ち良く許可してくれた。瑞巌寺と其の近辺を観光してハーバーへ帰ってくると例のハーバーマスターが「あさりをあげよう。バケツを出しなさい」と云ってバケツに入れてくれた。このあさりが人の情けと共に大変うまかった。どうもごちそうさまでした。  

小名浜
いわき市の小名浜は典型的な漁港であるが、すぐ近くの高台には浴場のある保養施設があり、展望搭も建っており、太平洋が一望に収められる豪快な景観がある。またその周辺も公園となっていて家族ずれが多い。港の近くにはたっぷりと安く海の幸が食べられる店があり、一日中にぎわっている。

銚子 
ここも典型的な漁港だ。 銚子近辺は利根川の河口出あるため浅くなっているのか波が非常に荒い。ガフられながら港口に近づき灯台をかわすとホッとする。ここの停泊場所は平仮名の逆「し」の字形になっていて、上の方が入口だ。しの字の先端は漁港で、漁船が沢山舫われている。我々は最初保安庁の巡視艇も停泊している「し」の字の下の突き当たりに舫ったが港内とは云え波が割合あって、よく揺れていた。おじさんが来て、しの字の真っすぐの所がいいよと教えてくれた。早速其の場所に移動した。なるほど波に立つような格好になりかなり楽になった。 銚子の銭湯は300円で日本国中で一番安い料金だった。銭湯に行った時間が早過ぎたが、肝っ玉母さんが居て、特別に早く入れてくれて有り難かった。筋向かいの八百屋で生きのいいお姉ちゃんから2日分の食料を買い込み、その筋向かいの飯屋さんで早めの夕飯を食べて、今夜12時の出航に備えて早々に寝ることとした。(これは私の事で、小畑艇長は銚子の街の探訪に出掛けられた。) 23時、用意完了で、予定より早いが夜の出航を行った。行き先は一路、伊豆大島だ。東京近郊の海域を嫌った訳ではないけれど、あまり近付きたいとも思わない。  23時に銚子を出航した遊帆は外房の外洋をひた走る。風と波はちょうど追っ手だ。 深夜に快走する。サーフィング、サーフィング、サーフィング、少し斜めに落ち込んで行くような感じだ。 11.3ノット! 今回の航海中で私の見た最高スピードだ。

伊豆大島・元町港
風と波は九十九里浜の真ん中ぐらいで落ちてしまったが、面白かった。またカタマランの走りを教えてもらったようだ。 今日はかなり暑い。銚子迄はあまり暑いと思わなかったがここに来て今年初めて暑さを感じたような気がする。9月8日だと云うのに。 伊豆大島の北を西に回り込み元町港へ入港するつもりだ。途中、東海汽船の伊豆七島観光船と行き違う。ヨーロッパ調のきれいな船だ。東京へ帰るのだろう。 元町港は西に面しているので暑いこと。汗がタラタラ落ちてくる。漁協下の船着き場に停泊させてもらった。 ここの風呂は混浴だと云うことで早速出掛けて行った。相模湾を一望に見渡せる雄大な露天風呂で確かに混浴だ。しかし水着を着ることになっていて、持っていない人には貸してくれる。ここの小学校の若い女の先生と話した。ここは少し淋しいが、のんきでいいとのことであった。東京から来ているとのこと。  翌日は三原山へバスに乗って登山した。この前の噴火で、溶岩が黒々と新しい。溶岩で埋まってしまった登山道がある。あちこちに見える黒々とした溶岩は、当時の凄さを教えてくれるようだ。 伊豆七島・神津島 伊豆七島がこんなに美しいとは全く知らなかった。黒潮に抱かれた自然の豊な島々。関東の人達は云い遊び場を持っているものだ。我々は伊豆大島と、神津島しか寄らなかったが、一度ゆっくりと廻ってみたいところである。 紀伊田辺 神津島を出帆した遊帆は一路紀伊半島の串本、紀伊田辺を目指している。 西へ、西へ、西へ。この海域の優しいこと。ひとたび台風が来れば荒れ狂うのだろうが、今は優しく遊帆を抱いてくれて、西へ西へと送ってくれる。星空が近づいてくる。その星空を縫って旅客機が30分ぐらいの間隔で西から東へ飛んで行く。此のような光景を見ていると地球は宇宙の中の一員だなとつくずく感じる。明日も穏やかだろう。 串本をかわすのはさすがに厄介だった。潮の流れが進路と全く反対で、かなり強い。岸へ、岸へと思い切り寄って行った。本船も大島のギリギリまで寄っている。まさにエッチラ、オッチラと云ったところだ。 やっと椿温泉まで来た。白浜を回り込むと紀伊田辺だ。昨日の朝から逆潮ながらよく走ったものだ。遠州灘の沖合を走り、熊野灘をはるかに潮岬もかわすした。今夜は風呂に入ってゆっくり休もう。 紀伊田辺港は広々としてゆっくりできる漁港だ。

和歌浦ヨットハーバー(青少年海洋訓練所)
紀伊田辺を出帆した遊帆は風に恵まれ、快調に走った。この調子なら昼過ぎには今日の目的地和歌浦ヨットハーバーに到着だ。和歌浦で私は一旦下船する予定である。 ところが御坊沖で思わぬトラブルに見舞われた。フォアステイがマストトップではずれたのだ。 したがって、ジブファラーはダレンと緩み、マストのトップは後にレーキした状態になっている。今はジブハリだけでフォアはもっているのだ。ブラン、ブランしている。 直ちにジブを巻き、メインを降ろした。  故障は、フォアステイのワイヤーをマストに取り付ける金具の破損だ。此の金具が摩耗して抜てしまったのだ。セール無し。エンジンだけでこの逆潮を抜けて行かねばならない。  まあゆっくり行こうと腹を決めたら急に腹が減って来た。  ここの最大の難所は御坊の先にある日ノ御埼を越えることだ。地図を見るとよくとび出している。そして、有田市の宮崎の鼻を越えることだ。ここを越せば和歌浦は対岸に見えるはずだ。さすがにエンジンだけになったヨットは心細い。ヤンマー3GMよがんばってくれ!。宮崎の鼻を越えると島が2つ見える。左の沖側の島が沖ノ島、陸側の島は地の島だが地つづきのように見える。その真ん中を遊帆は北上する。右手に下津港の燃料タンクが見えてくる。すぐそこの青石鼻を越えれば海南だ。片男波らしい浜もやっと見えて来た。  和歌浦ヨットハーバー正しくは青少年海洋訓練所と云うらしいが、ポンツーンがずらりと並び約100艇程停泊出来るのではなかろうか。防波堤に囲まれた良好なハーバーだ。ここにはゲスト用のポンーツーンが有料だが用意されていて、我々をむかえてくれた。またハーバーの役員の方だろうか、給水の用意までして下さった。我々も此のようでありたいなと反省させられたものだ。

終 章  
思い起こせば4月23日、プサン港を出帆して10月8日深夜、プサンに無事帰着する迄、何日かの上架・整備の期間はあったものの延べ102日、実航海日数63日、カタマランの耐航性、その長所、欠点等、未熟さゆえに理解できていないところも多々あると思いますが自分なりに十分教えてもらえたと思っていますし、艇長以下全てのクルーの方々からいろんな事を教えてもらえたことは本当にありがたいことと感謝しております。 今回の航海を考えると 先ず第1に小畑さんがこのような企画を考えて下り、実行して下さったこと。 第2に今回の企画に参加して下さった皆さんがおられたこと。 第3に私に参加出来る時間が有ったこと。 第4に参加するための資金があったこと。 第5に家の者の健康をはじめ、面倒事がなく、参加に同意してくれたこと。 第6に自分の健康状況が良好で、参加出来る体力があったこと。 第7に航海の途中でお世話になった方々のおかげ。 その他、天候が良かったこと。 船に重大な故障が起こらなかったこと。 等々どれが欠けても今回の企画に参加出来ない、また実行出来なかった、言い直せばこれら全てが揃っていたからこそ全行程に参加出来たのはラッキーだったとの一語に尽きるし、揃わしてくれた方々、小畑氏、参加の皆さん、協力して下さった多くの方々、我が妻と姉及び家族に厚く御礼申し上げます。 《 最後に『「わが遊帆」の海路いつまでも穏やかなれ!』と祈る気持ちでいっぱいです。》 

トップページに戻る